東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ヨハネ20章11-16節 「なぜ泣いているのですか」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2023/04/11

ヨハネ20章11-16節 「なぜ泣いているのですか」

*** 4/9(日)イースター礼拝 説教概略 ***

ヨハネ2011-16節 「なぜ泣いているのですか」

 すばらしい希望がそこにあるのに、それを知らない(信じない)ゆえに絶望し、悲しみに暮れることはとても残念なことです。知っていれば、その悲しみは不要なわけですから。

 ショッピングモールで、親とはぐれて泣いているお子さんを見かけたことがあります。激しく嗚咽するように、わんわん泣いていました。幼い子にとって、親とはぐれることは、「もう会えないのではないか」との不安と絶望に襲われることなのでしょう。

 ただ、実際にはすぐ近くに親がいて、子どもが少しばかり見失っただけだったようです。親が近くにいると知っており、自分を探してくれると信じていたら、泣かずに済んだことでしょう。

 また、ある女の子がふと「死」ついて考えることがありました。考え出したら怖くて怖くて仕方がありませんでした。けれど、教会のあるお婆さんのお話を聞きました。「年を取って死が近づくことは、とても素敵なことなのよ。天国でイエス様にお会いできる日が近づいたのだから」と希望に満ちておっしゃったということでした。

 その子は、イエス様を信じていれば死は怖くない。天国が待っているとわかり安心しました。この教会を開拓なさった古山先生も、末期がんの病床にて「ここは天国への待合室です」とおっしゃり、見舞いに来る信徒を大いに励ましました。こんなに穏やかに、死を受け入れてる人々がいます。それはキリストにある「復活のいのち」と確かな勝利があることを知って、信じているからです。それがイースターです。

「死」に勝利されたキリストによる救いがあります。そこにある確かな望みをご一緒に教えられて参りましょう。

 今日、登場するマグダラのマリアも、墓がからっぽになった理由は、イエス様がよみがえったからだと知っていたら、悲しみに暮れる必要はありませんでした。彼女は元々、イエス様との出会いによって人生が変えられ、喜びに満ちて生きられるようになった人でした。

 ところが、その罪なき愛の方・イエス様が、人々の悪意により十字架刑に処せられ、息を引き取られたのです。金曜日でした。彼女は絶望し、悲しみのドン底です。それでも彼女なりにできることをしようと、日曜日の朝(暦の上ではまさに今日)、香油を持って墓を訪れたのです。ところが、なんと墓はもぬけの殻!弟子たちに伝えた後、彼女は泣きながら墓の中を覗くと、そこには天使が二人いて、彼女に話しかけました。13節です。

13節 彼らはマリアに言った。「女の方、なぜ泣いているのですか。」彼女は言った。「だれかが私の主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私には分かりません。」 

「なぜ泣いているのですか。」との天使の問いに、彼女は率直に、誰かが大切な主イエス様の遺体を取って行ってしまった。から、私はさらに悲しみを深め、泣いているのだと答えたわけです。さて、この天使は、泣いている理由が分からなかったのでしょうか。それだと、だいぶ空気が読めない天使ですね。

 もちろん、そうではないのです。天使の質問の意図は「悲しむ必要などないのに、なぜ、泣いているのですか」ということです。むしろ、喜ぶべきことが起こっているのに、なぜ絶望しているですかと。

「知らない」とはそういうことなのです。

 教会では「もっと早く知っていれば!」との声をよく聞きます。「もっと若い頃に知っていれば、子育ては変わったのに!やり直したい!」などです。

それはそうと、彼女が振り向くと、そこには死からよみがえったイエス様が立っており、イエス様は天使と同じような質問をされたのです。

15節 イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」

キリストは十字架に架かる前に、弟子たちにご自分のよみがえりを宣言されていました。信じていれば、泣く必要などなかったのです。「あなたは墓の中を覗いて、一体誰を探しているんだい?」そこにわたしはいませんよ。「わたしはこの通りここにいる。約束通り復活し生きているのだ」というイエス様の語りかけです。

しかし、彼女の心の目はふさがれ、墓地の管理人だと思い込んでいました。あり得ないという思い込みが、盲目にしたのかも知れません。しかしながら、イエス様が直接彼女の名前を呼んだ時どうなったでしょうか。 

16節 イエスは彼女に言われた。「マリア。」彼女は振り向いて、ヘブル語で「ラボニ」、すなわち「先生」とイエスに言った。 

彼女ははっとして、ようやく分かりました。サウロという人物も「サウロ、サウロ、なぜ、わたしを迫害するのか」との声で、イエス様がわかったということが他の聖書箇所にもあります。主イエス様との再会をしたマリアは、この後大喜びのうちに他の弟子たちに、キリストの復活を伝えに行きました。

この事実のゆえに、全世界にキリスト教が広がったのです。ただ死んじゃった人ならば、これは起こっていません。 


神様は、今日ここに集われたあなたにも語っておられます。「なぜ、泣いているのですか。」と。ここに、わたしが生きているのに、ここに永遠の救いがあるのに、なぜ失望し泣いているのか・・・と。私のよみがえりの力を信じるならば、あなたはもう、泣く必要がない、人生最大の敵「死」さえも恐れる必要がないのだと。

私たち人間は誰もが罪人です。自己中心な歩みをし、神を軽んじ、人をたくさん傷つけて生きています。したいと願う良いことができず、かえってすべきでない悪いことをし、後悔の連続です。聖書はすべての人が死後に神のさばきの前に立たされると語ります。この地上での歩みについて、それぞれの行いに応じて公平なさばきがあるのです

こんな話を聞いたことがあります。社会で立派に勤めてきた年配男性の話です。死の間際になって家族に言いました。牧師さんを呼んでくれ、このままでは怖くて死ねない。「なんで急に、あなたは立派にやってきたし、人様から後ろ指さされるようなこともしなかったでしょう」と家族は驚きました。しかし、彼は言いました。「それは俺の表の顔だ。裏では汚い悪いことをしてきた。すべてをご存じの神様に俺はとても顔向けできない」と。

彼は牧師の話を聞き、自分の罪を悔い改めました。イエス様を罪とその滅びからの救い主として受け入れました。それで、平安のうちに天へと旅立たれたのです。


キリストは、私たちの罪を赦すため、神のさばきの前で無罪判決を与えるために十字架に死なれました。そして、その赦しが真実であることの証しとして、罪の結果である死の力を打ち破って復活されたのです。キリストを信じる者が、誰一人滅びることのないように。最後の時によみがえり、天国で永遠に生きられるようにと。

死とさばきへの不安と恐れを抱く私たちに、イエス・キリストは、もう恐れなくて良いと語って下さるのです。

先輩牧師が作った賛美曲にこういう歌詞があります。「天国への旅は、出会いがあって別れがない」出会いはあっても、別れがないということばが大好きです。イエス様を信じているのならば、必ず天の御国で再会でき、それは永遠なのでお別れがないのです。希望にあふれていますよね? 

私は学生時代にアメリカやシンガポールに数週間行きまして、それぞれの国の教会に行き、クリスチャンたちと知り合いました。そういう出会いの中で最後、帰国する時バイバイではなく「see you in heaven」と言い合いました。違う国だし、会うのは簡単じゃない。でも、少なくとも天国では会える!キリストにあるならば、必ず行きつくところはそこ!お別れはないと!

黙示録21章。天の御国についてこうあります。

見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」 

あなたにも主イエス・キリストは語りかけておられます。「なぜ泣いているのですか」と。「なぜ泣いているのですか。わたしはすでに死への勝利をなしとげた。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。わたしはよみがえりであり、いのちなのです。」と。

恐れず、ただ信じていなさいと。悲しみの涙から、喜びの涙に変えてくださるよみがえりの主イエス・キリストは、今も生きておられます。

 





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