「御霊によって生きる」
序. イエス・キリストを信じるすべての人の内には、聖霊が住まわれる(内住の聖霊、御霊)。聖霊は、クリスチャンの内にいて力を与え導かれる。ヨットが風をしっかりと帆で受けて前進することができるように、私たちの信仰生活も自分の手で必死にこぐような歩みではない。聖霊の風をしっかりと受けて前進するもの。そういう意味で、聖霊は信仰生活の原動力である。みことばにおいて、「御霊に満たされなさい」(エペソ5:18)、「御霊によって歩みなさい」(ガラテヤ5:16)と命じられている。
1.御霊を与えるという約束(預言)
(1)旧約からの約束
【エゼキエル11:19】 わたしは彼らに一つの心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を与える。
「一つの心」を与えると言い、それが「新しい霊」すなわち御霊。主は聖霊を、私たちのうちに住まわれるご自身の心(み思い)のようにおっしゃる。
【ヨエル2:28-19】その後、わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、老人は夢を見、青年は幻を見る。その日わたしは、男奴隷にも女奴隷にも、わたしの霊を注ぐ。 このみことばは、ペンテコステの日にその通りに成就した。使徒2:17-18にてペテロがこのみことばを引用し、預言の通りであることを皆に語っている。
(2)キリストによる約束
【ヨハネ16:7】 しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのです。去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はおいでになりません。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします。
キリストが去って行かれることによって、代わりに遣わされる御霊がすべての人のうちに住まわれるようになる。結果として、肉眼で主イエス様を見る歩みではなく、いつでも主と心を一つにして歩むことができるようになった。だから「わたしが去って行くことは、益になる」と主はおっしゃった。クリスチャンがイエス様とともに歩めるというのは、「自分がそう思うから」ではなく、実際に御霊が内在されている事実に基づく。
・ペンテコステ直前の約束(復活後の主のことば)
【使徒1:8】 しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」
宣教の力を与える聖霊であるとわかる。世界中どの地であっても、聖霊が私たちとともにおられ、キリストの証しをする者としてくださる。証しのことばを与える御霊。
2.人格をもって、愛のうちに導いてくださる御霊
御霊は単なる「霊的な力」ではない。三位一体の第三位格、人格を持った神。ただ、ご自分から話されるのではなく、神のみこころを教え、思い起こさせ、また語らせる方である。
【ローマ8:26】御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。
キリストご自身もとりなしてくださり、御霊もまた私たちのうちにあって、深いうめきのうちにとりなしてくださる。「二重のとりなし」が、キリスト者を支える。
3.なぜ、御霊によって生きる必要があるのか
(1)「新生」 人の救いは御霊による
【テトス3:5】神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみによって、聖霊による再生と刷新の洗いをもって、私たちを救ってくださいました。
(2)真理を教え、語るべきことばを与え、力を与えられる。
聖書は神の霊感によって書かれた「霊的な書」。正しく理解するためには、聖霊の力が必要。
聖霊は・・・
① すべてのことを教え、わたしが話したすべてのことを思い起こさせる(ヨハ14:26)。
② 世の誤りを明らかにし(ヨハ16:8)、あなたがたをすべての真理に導く(ヨハ16:13)。
③ 罪、義、さばきについての考えを正される(ヨハ16:8)
④ 何を話そうかと心配しなくて良い。話すのはうちにおられる御霊である(マタ10:20)
(3)肉(生まれながら)の思いと御霊の思いは正反対
【ローマ8:5-6】 肉に従う者は肉に属することを考えますが、御霊に従う者は御霊に属することを考えます。肉の思いは死ですが、御霊の思いはいのちと平安です。
右の図の状態でいられるようにするには?
①悔い改め ②明け渡す祈り(祈りながら生きる) ③みことばに従う決心
(4)キリストの姿へと造り変える(聖化) 義認 → 聖化
① 主と同じかたちに変えられていくのは、御霊の働きによる(Ⅱコリ3:18)
② 御霊の実(9つ)をキリスト者のうちにもたらす(ガラ5:22-23)
4.御霊はキリストの栄光を現す
【ヨハネ16:14】御霊はわたしの栄光を現されます。
【ヨハネ7:18】自分から語る人は自分の栄誉を求めます。しかし、自分を遣わされた方の栄誉を求める人は真実で、その人には不正がありません。
自分の栄光(栄誉)を求めて語り、行動する者は、肉の思い(人間的な力)でなしている人である。御霊によって与えられた思い、行動はすべて神に栄光(栄誉)を帰す。御霊の現れとして異言や癒しの賜物をことさらに強調する人々があるが、それがキリストの栄光を現しているのかを問われる必要がある。御霊はいつでも、力と愛と慎みを与える(Ⅱテモ1:7)。愛のない働きは、御霊によらない。慎みを失っているなら、それも御霊によらない。人の思いや考えを超えた力ある働きがそこに主によって生まれる。
その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。(ヨハネ14:16)