伝道者の書2章1-11節「人を満たすものとは」
中国の昔話に「天国と地獄」の話があります。どちらも腕より長いようなお箸で食事をするという設定ですが、地獄ではいつも飢え、天国では皆が満腹していると言います(子ども絵本では、絵もあってわかりやすいです)。なぜでしょう?
地獄では、皆が自分のことしか考えないために、長い箸で自分の口に食べ物を運ぶのですが、長すぎてうまく食べられません。それで飢えてしまい、みな痩せこけているというのです。しかし、天国ではどうかと言いますと、その箸で、お互いに食べさせてあげるので、みんなが満腹でき、満たされているというお話でした。
これは教訓的なお話なのだと思いますが、自分のためにばかり生きる人は、結局、自分も他人も満たされず、飢え渇いてしまうのです。ゆえに、お互いに与え合うことで、自分も他の人も満たされていく、ということでしょう。
本日のみことばは、自分の欲のために、やりたいことをやりたいようにしていった時に、果たして人は満足できるのか、幸せになれるのかという話です。残念ながら、人は自分で自分を満足させることができません。他の人との愛の交わりによって、神様の恵みによって満たされ、幸いな歩みをさせていただけるのです。
ご一緒に教えられていきましょう。
1-3節に、今日の箇所の「まとめ」がなされています。
7-8節では今度は、多くの人や物を所有したことが語られています。
神様は、このソロモンの愚かしい探求を通して、私たちに何を語っておられるのでしょうか。ソロモンの結論は1節にすでに述べられっていました。「なんと空しいことか」と。
11節で、彼は再度それを伝え締めくくります。
11節 しかし、私は自分が手がけたあらゆる事業と、そのために骨折った労苦を振り返った。見よ。すべては空しく、風を追うようなものだ。日の下には何一つ益になるものはない。
客観的に見ると彼が行った事業には、良いものもたくさんあったでしょう。様々な果樹園を造り、庭園や豊かな森、そのための池を造るのもそれ自体は良い事業かも知れません。それでも彼は11節の最後にこう言います。
「見よ。すべては空しく、風を追うようなものだ。日の下には何一つ益になるものはない。」と。
良い事業もあるように見えるのに、なぜ、ここまで言うのでしょうか。
それは、神様を抜きにして、自分自身のためだけに、なしたからです。
特に、具体的な内容が列挙されている4-8節では、原語のヘブル語を読んで、あることに気づかされました。それは「自分のために(ヘブル語:リー)」ということばが、繰り返し語られているということです。日本語では訳し出されていない箇所もありましたが、彼は他の人のためではなく、ただ、自分自身を喜ばせようとして、とことんやったということです。
まさにselfish!「自己中心」を追及したのです。
例えば5節では、新改訳2017では「いくつもの庭と園を造り」とされているものの、原語では「自分のために」とのことばがあります。公共の福祉のためにとか、緑が増えて皆が住みやすいようにではないのです。
彼は自分のために、自分の満足のために庭や園を造ったのです。
著者は「人は、自分を満たすために、欲望や本能の赴くままにあらゆることをすれば幸せになれるのか」という問いに、自ら実験台になって臨みました。彼はとてもむなしく何も残らないものであったと結論付けています。
以前、東日本大震災の折に、私ともう1名の先生で宮城県に行き、少しボランティアをさせていただきました。教会の皆さんからも献金をいただいて、それを用いさせてもらいました。訪問をしながら、物資の配給や励ましのことばをかけさせていただきました。
そして、仙台教会のある信徒さんのご主人がなさっている乳児院の砂場の除染作業もさせていただきました。実は、その姉が、そのことを覚えていてくださって、つい最近メールをくださいました。私が配信していたLINEメッセージを講読されていたとのことで、そのお礼に加え、3.11の時はありがとうございましたとのことばでした。思い出しては感謝しておられたとのことで、恐縮しつつ、とても嬉しい思いになりました。
私たちがさせていただいたことは、ごく小さなことでした。
でも、自分のためではなく、隣人のためにしたことは、たとえ小さなことでも、10年以上経っても残っているんだなと改めて感じ、嬉しくなりました。
そこで思いました。この震災の時のボランティアに行かず、自分のために好きなことをして数日を過ごしたとしたら、どうだったのだろうかと・・・。好きな物を食べ、労力を自分の欲のために使うのです。もし、そのように過ごしたのならば、私自身の記憶にさえ残らず、むなしく消えたことでしょう。
しかし、12年経っても記憶にとどまっていた。「あの時はありがとうございました」とのおことばを頂戴し、胸が熱くなりました。むなしくない歩みとは、神様のみことばの通り、隣人のために、愛に生きることなのだと気づかされます。
あらゆることを楽しんだはずのソロモン。しかし、それは一瞬だけのもので、それどころか、後に後悔やむなしさという実を残してしまったのです。それは「自分のために」なしたからです。
私たちに日の下で与えられた人生は一度きりです。そのたった一度の地上の人生を、後悔ばかりのむなしい人生で終わらせてはなりません。神様からいただいた尊い人生、尊いいのちです。「自分のために」ではなく、アナタのためにいのちをささげてくださったキリストのために。そのキリストが愛してやまない一人一人のために。
あなたに与えられた時間、労力、賜物を用いていきましょう。