東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: イザヤ書6章1-8節 「聖なる神とそのあわれみ」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2023/06/09

イザヤ書6章1-8節 「聖なる神とそのあわれみ」

*** 6/7(水)祈祷会 説教概略 ***

イザヤ書6章1-8節 「聖なる神とそのあわれみ」

聖書から神様とはどういうお方であると教えられるでしょうか。もちろん、神様は愛の神、恵み深い神様。あわれみ深い優しい方です。しかし、愛も恵みもそれが当たり前だと思っている人には、その意味も価値も分からくなります。

私たちもコロナウイルスの問題を通して、今まで当たり前だと思い込んできたものが、実は当たり前ではなかったと教えられたと思います。食事の交わりができること、礼拝堂に皆が集まって礼拝できること。それもまた、主が私たちにお与えくださっている大いなる恵みなのです。受けて当たり前、愛されて当たり前と思っている人は感謝の心も持ちにくいですよね。

以前、子どもたち小さかった頃、クリスマスプレゼントはもらえて当然という感覚になってしまっている様子に気づきました。私も子供の頃、そうだったなと思い返します。

でも、そうるなると「ありがとう」と口では言うものの、本当の感謝は失われがちです。だから、貧しい国の子どもたちの話をあえてした時もありました。プレゼントどころか、今日食べるパンがない。そういう子どもがいるということです。
「当たり前の心」でいるのは、神様をも知らず、自分をも知らないゆえです。でも、私たちは感謝すべきものを、心から感謝したい。そのために、正しく神様を知り、自分を知る機会になればと願います。今日教えられることは「神様の聖さ」と、そこにある人に対する愛とあわれみです。
 

 1節。ウジヤ王の死が語られます。彼の治世は比較的良い時代でした。なぜなら、このウジヤは神様を恐れ敬う信仰に厚い忠実な王様だったからです。イザヤはこの立派な王ウジヤをとても頼っていました。ところがウジヤ王は晩年、祭司ゼカリヤが死んで後、おごり高ぶってしまいました。罪が原因で病気になり、死んでしまいます。

その年、神様はイザヤを呼びました。預言者として本格的に働きをさせるため幻の中に現れたのがこの場面です。それは主なる神の圧倒的なお姿でした。「私は、高く上げられた御座に着いておられる主を見た。」とあります。その衣のすそは神殿に満ちていました。圧倒的な偉大さを感じられる場面です。神の栄光がそこに満ちていました。

 2節。セラフィム(天使)がその上の方に立っていました。燃えるような神々しい姿のセラフィムが響き渡るような声で言いました。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満ちる」 「聖なる」を3度繰り返しています!!通常2度繰り返すことは最上級や大きさの強調に用いられます。しかし、ここでは3度。それは人間が考える最上級の上を行っているということに他なりません。神様の聖さは、人が想像するそれをずっと超えているということです。超越的な聖さを持つお方なのです。

「聖」という言葉は、近づきがたい輝きや分離の意味を持ちます。その意味は神様があまりにも聖いので、何者をも近づけられない。近寄りがたいほどの圧倒的な偉大さを表すということです。それが「神の聖さ」です。近づく者はみな、その汚れのために瞬時に滅んでしまうほどでした。

神様の聖さとは、そういうもの。軽々しく口にすることができないほどの圧倒的なものなのです。これを抜きにして、ただ救いの恵みだけを考えようとすると、かえってその恵みの深さが分からなくなってしまうのです。

 この時、2節を見ると、この天使セラフィムでさえ顔をおおい隠し、同時に両足を隠すようにしていました。それは、おそらくセラフィムでさえ神の顔を直視できないということを表しているのでしょう。「足を隠している」のは諸説ありますが、謙遜さの現れであることは間違いないでしょう。おそらく、「聖なる場所では履物を脱ぎなさい」と語られている場面がいくつかありますから、神の聖さの前に足を隠しているのではないか思います。足は一番汚れている部分だからです。

さらに、4節を読むと、セラフィムの声のために敷居の基はゆらぎ、宮は煙で満たされたとあります。神様ではなく、その側に仕えているだけのセラフィムの声でさえ、大きな地震のようなゆるがされる響き。その宣言だけで視界が遮られるような煙で満たされました。イザヤはもはや自分が完全に場違いなところにいると感じたことでしょう。遮断され、拒絶されて当然という恐ろしさを感じたはずです。神様の何者をも寄せ付けない圧倒的な存在感。その「聖さ」の前にただただ震えおののき、茫然自失の状態だったのではないでしょうか。

5節に彼のその思いが現れています。「ああ、私は滅んでしまう」と彼は恐れを感じました。滅びを意識させられた瞬間です。神様の前出られて嬉しい!幸せだ!という感覚ではなかったのです。

さらに、彼は、自分は「唇が汚れている者だ」と強く意識させられました。こんな口で神様に何かを申し上げるなどおこがましい。神様を賛美しようなどと、到底できることではない。唇の汚れた世界に生きている。そのように感じたことでしょう。

そう考えると、私たち賛美もできて当たり前ではないのです。普段人の悪口を言っている、文句言っている。罪深い事を言っている。それと同じ口から、調子よく賛美したい時だけ神様を賛美している。同じ口から汚いことばと、神をほめたたえることばの両方が出ている。本来あってはならないことなのです。イザヤもそう感じたのかも知れません。

私たちが賛美できるのも、祈ることができるのも当たり前ではない。それは、神様のあわれみによるのです。私たちが神様のために賛美をしてあげてるのではない。祈りの恵み、賛美の恵みは、主からの尊い贈り物です。イザヤはこの時ほど自分の汚れを意識させられ、震えおののき恐れたことはなかったことでしょう。これが本来、圧倒的に聖なる神と、罪に汚れた人間が対面するということだったのです。


しかしながら、私たちは圧倒的な神の聖さだけでなく、圧倒的な神様の愛とあわれみを知っています。これによって滅ぶべき者が滅びないようにしていただいたのです

ここで、イザヤの側ではただただ滅びを意識してガタガタ震え、呆然とへたりこむしかなかった。何もできなかったのです。

しかし、何もできないイザヤに、神様の方から、神様の側から、セラフィムを遣わされました。
67節です。
祭壇から取った燃える炭によってイザヤはきよめられたのです。この祭壇とは罪の赦しのための犠牲がささげられる場所です。それはまさにキリストの犠牲、身代わりの死を意味するところです。

祭壇はイエス様の十字架の犠牲の象徴なのです。本来、滅びるべき汚れた自分に、祭壇の炭が触れた時、汚れが取り除かれた。それはイエス様の十字架の血潮によって、私たちの罪がきよめられることのひな型です。
しみ一つない聖いお方が、ヘドロような中に入って来て私たちの汚れを命と引き換えに取り除いて下さいました。これほどの聖なる神様と、日々、いつでもどこでも親しく語らい、賛美させていただき、様々な不満や訴えさえ語られるように・・・。

イエス様は弟子たちの足を洗って下さった。友人牧師が、神学生時代に一緒に足を洗い合おうという話になった。なんでそんなことって初めは思った。順番に足を洗っていると、汚らしいアカが浮いている。イエス様の時代は、ぞうり。裸足に近いような靴。もっとはるかに汚い。それをイエス様はひざまずいて洗っておられた。そのような主イエスをお与えになった神様に心から感謝します。

 神の圧倒的な聖さを知る時、私たちは本来、自分が何をするにもふさわしくない者であると知らされます。奉仕はしてあげるものではなく、「させていただくもの」だと申し上げていますが、主のためにすることは何でも「させていただいているもの」なのだと改めて気づくのです。自分の汚れに気づき、神の前に堂々と立てる器ではなかったことを思う時、主イエス様がその血潮をもって罪を赦しきよめて下さった恵みは、なんと大きいことかと思わされます。触りたくないはずの汚れ。なのに主は躊躇なく、きよいご自分をささげ尽くして下さいました。私たちの赦し、聖めは本当に当たり前じゃない。イエス様の深い愛なのです。

 私たちが何かをする時、聖なる主の前にこうして立つ必要があります。8節で、主が誰を遣わそうと語られます。その声を聞いて、イザヤは「ここに私がおります。私を遣わしてください」と応じるのです。自らの汚れとその結果の滅びを意識させられたイザヤです。主のことばを取り次ぐに、到底ふさわしくないと知らされたイザヤです。

 しかし、主のあわれみで罪きよめられることも経験しました。主の声を聞いて、震えおののくのではなく、愛をもって応答できる者とされました。彼の働きはここから始まるのです。





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