*** 2/1(水)祈祷会 説教概略 ***
ヨブ記11~13章「理由がわからない苦しみ」
13:5 ああ、あなたがたが沈黙を守っていたら、それがあなたがたの知恵となっていただろうに。
友人たちを「偽り」という名の効かない薬を塗る「やぶ医者」に例えています。彼らのことばが、ヨブを少しも癒さなかったからです。むしろ、悪化させてしまったことからすれば、何もせず沈黙を保っていた方が良かったほどでした。「わかっているつもり」が一番危ないのだと気づかされます。神学校で3年学ばせていただいて気づいたことは、「神様のことを自分が分かっていなかった」という事実でした。神様を分かる者になったのではなく、神様を分かっていない者であることを教えられた神学校生活でした。それは、牧師になってからも同様です。まだまだ、知らない者であることをいつも砕かれながら気づかされるのです。でも、それが大事なのだと思います。自分の無知を知ることから知恵は始まるのです。
ヨブはこう続けています。13章7-9節。
13:7 あなたがたは、神のためにと言って不正を語り、神のためにと言って欺くことを語るのか。
13:8 あなたがたは、神の顔を立てるつもりか。神のためにと、言い争うつもりか。
13:9 神があなたがたを調べても、かまわないのか。人を欺くように神を欺こうとするのか。
人を偉そうにさばいてしまう私たちです。これらのことばが胸に刺さります。やはり人間は「神の代弁者」にはなり得ないのです。人を測る秤で自分も測られるとイエス様が言われた通りです。友人らはまるで神の代弁者であるかのようにヨブを指導しました。しかし、苦しんみ叫ぶヨブの方が、神様にずっと近いところに立っていたのです。「神があなたがたを調べても、かまわないのか」とのことばが胸に刺さりますね。隣人の目の中にある小さなチリに目を留める前に、まず自分の目の中にある大きな梁(木材)を取り除かなければなりません。
一方、神様に「自分を調べられても私はかまわない」という所に立っていたのがヨブなのでしょう。ただ、彼は神のお心を知りたいのです。もし、自分に罪があるのなら、それを教えて欲しいのです。
13:15 見よ。神が私を殺しても、私は神を待ち望み、なおも私の道を神の御前に主張しよう。
神様と格闘しようとするヨブの姿です。24節にも、このようなヨブのことばがありますね。
13:24 なぜ、あなたは御顔を隠し、私をあなたの敵と見なされるのですか。
意味が分からない苦しみほど辛いものはありませんね。理由を知りたいと願うのは人の本能かも知れません。ただ、このヨブの叫びから十字架上のイエス様が思い浮かびます。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれた姿です。
正しいイエス様が、神様からさばくべき敵として見なされ、十字架で死なれたのです。これ以上に不条理な苦しみがあるでしょうか。何の罪もないのに極限の苦しみを通られた代表者は、実はイエス・キリストでした。ヨブの体験したこの苦しみを学ぶ時、この叫びを学ぶ時、実に、イエス様の苦しみをいくらかでも理解する助けになるのは不思議なことです。
イエス様こそ、誰よりも正しい方でありながら、極限の苦しみを通られた方だからです。その点では、義人ヨブが苦しむ姿は、キリストの十字架の苦しみのひな型であると言えるでしょう。私たちも時に理由がわからず苦しむことがあります。その時に主イエス様が、私たちより先にそこを通っておられることに目を向けたいのです。ヨブは、結局そこにしか救いの道はないと知っていたので、神様に叫び求めていたのです。何よりも、その痛み、苦しみを十字架に死なれた神の子イエス様が理解し、寄り添ってくださいます。