東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ヨブ記11~13章「理由がわからない苦しみ」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2023/02/01

ヨブ記11~13章「理由がわからない苦しみ」

*** 2/1(水)祈祷会 説教概略 ***

ヨブ記1113章「理由がわからない苦しみ」

人を慰めるために口を開いたのに、かえってその人を落ち込ませてしまうということが起こります。正論を並べ、その人の問題点を指摘し、「こうすればいいじゃないか」と方法論をぶつけます。そこには、人の痛みを理解し、寄り添う姿勢が欠けているのです。

ヨブの3人の友人のうち、最初はエリファズ、次にビルダデが語りました。そして、最後にこのツォファルです。最後に発言していることから、この3人の中では一番若く経験が浅いのではないかとも言われます。それでいて知識はあるとの驕りが感じられ、この3人の中でも最も「人の心を理解することに欠けている」人物であるように見えます。

彼はまず、ヨブが2人の友人に対して、かなりはっきりと反論したことについて責めているようです。

11章2節 ことば数が多ければ、言い返されないだろうか。人は唇で義とされるのだろうか。 

ヨブの痛みを理解しようとせず、その雄弁を責めるツォファルのことばです。彼は、激しい苦しみが、ヨブの強い叫びを生んでいることには考えが及びません。むしろ、自分の言い分が相手を屈服させることを願っているようです3節の最後に「あなたに恥を見させる者はいないのか」とあります。ヨブを恥じ入らせ、謙虚にさせることが、自分の役目だと勘違いしています

ゆえに、自分の説教を相手が素直に受け取れば満足しますが、「でもね」と反論されると「せっかく慰めようとしているのに!」と感情的になってしまうのです。ツォファルはその典型にも見えますが、私たちも他人事ではないですね。

6節最後で彼は言います。「知れ。神があなたのために、あなたの咎を忘れてくださることを。」と。しかし、ヨブはこのようなことは彼以上によく知っているのです。それでも今は、叫ばずにはいられないほど苦しいのです。相手を正しく理解することなくして、ふさわしい指導や助言ができるでしょうか。良い助言者は相手をよく理解することから始めますよね。

 ある人が、遅刻に対して厳しく叱っていました。もちろん、「どんな事情であれ」という考えも分かります。でも、急病人を助けたために遅れた時にも、事情を聴かずに頭ごなしに叱ってしまい、後から非常に反省したそうです。それ以降は、「まずは事情を聴こう」と決めたと伺いました。「聞くに早く」というみことばも思い出されます。

 ツォファルはヨブの苦しみの理由は、彼の罪だと決めつけていました。それは14-15のことばによく現れています。「不法や不正といった悪がないなら、今のような苦しみに遭わず、堅く立っているはずではないか!」と。

 しかし、ヨブは誰よりも誠実であったと聖書は語ります。罪がこの苦しみの原因なら、3人の友人たちの方がより苦しまなければ筋が通りません。罪の重さと苦しみの大きさは必ずしも比例しないのですよね(そういう場合もあるのです)。

ツォファルは言います。 11章7節 あなたは神の深さを見極められるだろうか。全能者の極みを見出せるだろうか。11章8節 それは天よりも高い。あなたに何ができるだろう。それはよみよりも深い。あなたが何を知り得るだろう。 

 シンプルにその通りです。神の前に、誰もがへりくだる必要を教えられます。ただ、この点もヨブはよく知っているのです。

結局ツォファルは、壮絶な苦しみを通るヨブに、「過酷な苦しみの理由は、あなたの重い罪のせいだ」と言っているのです。結果、ヨブを少しも慰めず、かえって苦しめます。これはみこころにかなわない言動ですよね。これに対してヨブが反論して参ります。

12章。ヨブはツォファルが上から目線で言った正論については、自分もそれぐらいのことは知っているのだと言います。 12章3節 私にも、同じように良識がある。私はあなたがたに劣っていない。これくらいのことを知らない者がいるだろうか。 ヨブは、神の深さを見極めることができないことをよく知っています。全能者の極みを見出せない小さな者であることも分かっています(11:7-8参照)。そして、少し前の9章では、人間は神様がすぐ横を通り過ぎても、それに気づくことさえできないとも言っていましたね(9:11)。

ゆえに、ヨブは反論します。

12章16節 力と英知は神とともにあり、迷い出る者も、迷わす者も神のものだ。 

迷い出る者、また迷わす者。彼らはそれぞれの罪深さや問題があるにしても、その背後でそれらを許容し、ご自身の計画のために用いている神様がおられるのです。ヨブの身に起こったことが、ヨブの罪の問題ではなく、神様の正しいお心によるものであるとの視点が、友人たちには決定的に欠けています。

23節でもこうあります。12章23節 神は国々を栄えさせ、また滅ぼす。国々を広げ、また取り去る。 国が良いことばかりをしているから栄え、悪いことばかりしているから瞬時に滅びるというものではないこと。それは私たちも知っています。その逆の姿さえあり得るのです。すべてのことに神のみこころがあります。ヨブは、神にのみ主権があることは重々承知の上で、神様に訴え叫ぶのです。それは他の友人たちとの決定的な違いで、ヨブは苦しい時だからこそ、神様に叫び求め、すがるしか道はないのだと分かっているのです。

13章3節 けれども、この私は全能なる方に語りかけ、神と論じ合うことを願う。 

そして、ツォファルらの言い分には、多くの間違いも含まれていることを指摘します

13章4節 しかし、あなたがたは偽りを塗る者、みな無用の医者だ。

13章5節 ああ、あなたがたが沈黙を守っていたら、それがあなたがたの知恵となっていただろうに。 

友人たちを「偽り」という名の「効果なき薬」を塗るやぶ医者に例えています。彼らのことばが、ヨブを少しも癒さなかったからです。むしろ、悪化させてしまったことからすれば、何もせず沈黙を保っていた方が良かったほどでした。「わかっているつもり」が一番危ないのだと気づかされます。神学校で3年学ばせていただいて気づいたことは、「神様のことを自分が分かっていなかった」という事実でした。神様を分かる者になったのではなく、神様を分かっていない者であることを教えられた神学校生活でした。それは、牧師になってからも同様です。まだまだ、知らない者であることをいつも砕かれながら気づかされるのです。でも、それが大事なのだと思います。自分の無知を知ることから知恵は始まるのです。

ヨブはこう続けています。137-9節。
13章7節 あなたがたは、神のためにと言って不正を語り、神のためにと言って欺くことを語るのか。
13章8節 あなたがたは、神の顔を立てるつもりか。神のためにと、言い争うつもりか。
13章9節 神があなたがたを調べても、かまわないのか。人を欺くように神を欺こうとするのか。 

人を偉そうにさばいてしまう私たちです。これらのことばが胸に刺さります。やはり人間は「神の代弁者」にはなり得ないのです。人を測る秤で自分も測られるとイエス様が言われた通りです。友人らはまるで神の代弁者であるかのようにヨブを指導しました。しかし、苦しみ叫ぶヨブの方が、神様にずっと近いところに立っていたのです。「神があなたがたを調べても、かまわないのか」との、ヨブのことばが胸に刺さります。隣人の目の中にある小さなチリに目を留める前に、まず自分の目の中にある大きな梁(木材)を取り除かなければなりません。
一方、神様に「自分を調べられても私はかまわない」という所に立っていたのがヨブなのでしょう。ただ、彼は神のお心を知りたいのです。もし、自分に罪があるのなら、それを教えて欲しいのです。

13章15節 見よ。神が私を殺しても、私は神を待ち望み、なおも私の道を神の御前に主張しよう。 

神様と格闘しようとするヨブの姿です。
24節にも、このようなヨブのことばがありますね。 
13章24節 なぜ、あなたは御顔を隠し、私をあなたの敵と見なされるのですか。 

意味が分からない苦しみほど辛いものはありませんね。理由を知りたいと願うのは人の本能かも知れません。ただ、このヨブの叫びから十字架上のイエス様が思い浮かびます。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれた姿です。
 
 正しいイエス様が、神様からさばくべき敵として見なされ、十字架で死なれたのです。これ以上に不条理な苦しみがあるでしょうか。何の罪もないのに極限の苦しみを通られた代表者は、実はイエス・キリストでした。ヨブの体験したこの苦しみを学ぶ時、この叫びを学ぶ時、実に、イエス様の苦しみをいくらかでも理解する助けになるのは不思議なことです。

 イエス様こそ、誰よりも正しい方でありながら、極限の苦しみを通られた方だからです。その点では、義人ヨブが苦しむ姿は、キリストの十字架の苦しみのひな型であると言えるでしょう。私たちも時に理由がわからず苦しむことがあります。その時に主イエス様が、私たちより先にそこを通っておられることに目を向けたいのです。ヨブは、結局そこにしか救いの道はないと知っていたので、神様に叫び求めていたのです。何よりも、その痛み、苦しみを十字架に死なれた神の子イエス様が理解し、寄り添ってくださいます。 



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