ピレモンへの手紙17-20節「私が償います」
私たちの今年度の年間聖句は何だったでしょうか。
第二コリント2章7節 一人ひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は、喜んで与える人を愛してくださるのです。
「受ける者から与える者となる」ということを目指して歩んでいる途上にあります。
パウロはピレモンにも赦しの恵みに立って欲しいと願います。17節です。
17節 ですから、あなたが私を仲間の者だと思うなら、私を迎えるようにオネシモを迎えてください。
ただし、少し気になるのが19節後半の一文ですよね。パウロはピレモンにこう言います。
あなたが、あなた自身のことで私にもっと負債があることは、言わないことにします。
「言わないことにしています」とありますが、これはもう言っているうちに入りますよね(笑)。ここには少しユーモアがあると言えます。
二人の親しい関係性における、やや冗談交りの表現だと考えられます。そして、この負債とは「パウロに信仰面でお世話になった」という話でしょう。もしかしたら、ピレモンが救われ、一人前のクリスチャンとなるために、パウロに相当迷惑をかけたという背景があるのかも知れません。パウロはそれらをやや冗談めかして触れています。それは20節からも推測できます。
20節 そうです、兄弟よ。私は主にあって、あなたの厚意にあずかりたいのです。私をキリストにあって安心させてください。
ここにある「厚意にあずかる」とのことばは原語で「オナイメーン」ということばです。実は「オネシモ(=役に立つ)」というギリシャ語と同系列のことばなのです。パウロはこうして、オネシモにかけて、このことばを意図的に用いているのでしょう。
「パウロさん、上手いこというなぁ」という感じでしょう。こうした「ことば遊び」を駆使している点からも、やや冗談交じりに親しげに語っているのだと伝わってきます。
そしてパウロは、当然ながらピレモンの利益をも考えていたことでしょう。これに応じることが、実にピレモンにとっても信仰の成長の機会、祝福を受ける機会だとパウロは考えていたずです。恵みを受けた者として、神と隣人に返していく者になって欲しい。
受けるだけ受けて、他の人のことは知らない!とならないで欲しい。自分は大いに赦されたのに、他の人には冷たく厳しい・・・というのは、神様が悲しまれ、祝福を失うことですよね。だから教会は常に与えることを考えていく場でありたいと思わされるのです。教会を大きくすることに意識がいき、「どうやったら受けられるのか」ばかりを考えるようでは、かえって祝福を失ってしまいます。
イエス様はたとえ話をもって、この点を話されていました。マタイ18章23~35節を開きましょう。ここでは、「人を何度赦すべきか」という問いに対して「何度でも」という事を伝えるために、イエス様がたとえ話をなさったのです。
もちろんこれは、借金を帳消しにせよという話ではありません。人を赦すという事についてのたとえ話です。神が私たちの罪をことごとく赦して下さった。その赦しの恵みを受けたあなたなのだから、あなたも隣人を赦す者でありなさいと言われているのです。
ですから、パウロもオネシモの損害を無かったことにして欲しいと言っているのではありません。損害は私が埋め合わせする。そのために自筆で書いている。
その代わり、とにかく彼のことを赦し、彼が主のために働けるように協力して欲しいということです。実にこれに応じることこそ、ピレモン自身も神様から祝福される道だったのです。主は、あわれみを示す者にはあわれみを増し加え、恵みを与える者にはますます恵みをくださるからです。ピレモンはここで赦すチャンス、あわれみを示すチャンスを与えられたのでした。
私たちにも同じような機会が多く与えられているはずです。その時に私たちは、自分自身が何を受け取ったのかを思い起こしたいのです。ピレモンも、パウロの「私が償います」と自筆の宣言に、胸を打たれたのではないでしょうか。パウロの愛の決心です。パウロがそこまで言うのですから、ピレモンも彼の信仰にならうより他ありません。でも、それが彼にとって恵みの機会になったのです。
そして恵みは広がります。もし、ピレモンからオネシモが赦され、あわれみを受けたのなら、オネシモ自身もまた、大きな恵み受けた者となりますよね。受けた者として、与えることを教えられていったはずです。先週、彼がエペソ教会の監督になって殉教までしたという伝承を紹介しましたね。豊かに受けたからこそ、豊かに与える者になったと信じたいのです。
賛美曲ではありませんが、福山雅治さんというシンガーソングライターの曲で「家族になろうよ」という曲があります。結婚式の際に歌われたりするようです。その中では、いつも自分のことばかりで精一杯で、親孝行も出来ていないけどもと前置きされながら・・・ すぐには変われないとしても、「一歩ずつ 与えられる人から 与える人へかわってゆけたなら」との歌詞が続きます。
親元を去って結婚していく時に、親にあまりにも多くの世話になったことに思い至ったのでしょうか。受けてばかり来たことに気づいたのでしょう。親孝行らしき事もほとんど出来ていない自分。だから、少しずつでも、与えられる者から、与える者に変わっていきたい・・・親としても、自分の子がそう思ってくれたら嬉しいですよね。
神様への恩返しは、まさに私たちがそう願う者となることでしょう。
私たちのために、イエス様は「わたしが償います」と言って下さいました。自ら十字架にかかってくださいました。私たちはこの愛を受けたのです。傷だらけ、血だらけになりながら、償いを成し遂げてくださった主です。こうして、ただで赦され、あわれみを受けた私たちです。あまりにも多く受けました。私たちもこの愛に応えて参りましょう。