東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ヨブ記9-10章「神と人」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2023/01/26

ヨブ記9-10章「神と人」

*** 1/25(水)祈祷会 説教概略 ***

ヨブ記9-10章「神と人」

8:20 神は誠実な人を退けることはなく、悪を行う者の手を取ることはない。

ヨブの友人ビルダデのこのことば。皆さんはどう思うでしょうか。
一見正しそうに見えます。ヨブもこれらがその通りであると応答してはいます(9:1)。
しかし、ヨブはその後に反論をしていくのです。

 この友人の発想によれば、結局人間の側が神様を決めつけてはいないでしょうか。どこか「人の良い行い」に神が制約されるかのようにも見えるのです。「神は誠実な人を退けることはない」と断定してしまうと、誠実な人を退ける権利も権限も神様にはないかのようになります。

 主である神様が、人の常識的ルール通りにしなければならないなどとは、あってはならないことです。いつの間にか、人間が神様をジャッジする側に立ってしまっているのです。

しかも、何が誠実なのか、何が良いことなのか、反対に何が悪いことなのか。それを人間が100%間違いなく判断することができるのでしょうか。正しいと思い込んでいたり、間違っていると誤解していたりする私たちです。

神様ご自身がルールでいらっしゃることを忘れてはならないのです。

実際には、誠実な人でも「退けられた」と思われる状況もあるでしょう。現にヨブほど誠実な人間はいなかったが、それでも彼は退けられたように見えるほど苦しんでいるのです。また、悪が栄えるということも現実にはあり得ます。

しかし、そこにも主の深いお心があるということです。私も子どもたちに楽ばかりをさせたりしません。課題、勉強、お手伝い、苦労もあえてさせるのです。愛があるからこそです。神様は、私たち以上の愛のお方。善意に満ちている方。

そこには「神の主権」があります。人間が、あれこれ分析すること自体がおこがましいのではないでしょうか。口出しできる領域ではないのです。

 

9章では、神と人間との圧倒的な差。交わる点すらないほどの神の偉大さが語られています。

 神の存在、その主権が圧倒的であり、人があれこれ口出しできないものであることです。

 例えば5節に、「神は山々を動かされるが、山々は気づかない」とあります。自然の変動の中で、あった山が崩れなくなる。また、様々な堆積によって山が生まれる。しかし、山は自分では何もできず、気づくことすらできない。

 意思を持った人間ですらそうでなのです。例えば11節。

11節 神がそばを通り過ぎても、私には見えない。進んで行っても、気づかない。

 神様と議論し合うどころか、神様が通り過ぎても見えない、気づけない人間の無力さがヨブによって語られています。神様について、また神様がなさることについて、あれこれ論じることさえ人間には「分を超えたもの」であると気づかされるのです。

14-15節でも同様です。 

14節 まして、この私が神に答えられるだろうか。神と交わすべきことばを私が選べるだろうか。15節 たとえ私が正しくても、答えることはできない。私をさばく方に対して、あわれみを乞うだけだ。  

 神と交わすべきことばをふさわしく選ぶこともできないと言うヨブ。ここでは、神と自分との圧倒的な差を明確に自覚していることが分かります。

 できることと言えば、何でしょう??

 「あわれみを乞うだけだ」と言うのです。

 人にできるのは本来その程度であるのだと。

 つまり、人が正しかったら、神様は何の試練も与えることができない・・・なんてことは決してないのです。人の状態、態度などに一切左右されず、主はその時の最善をなさる方です。人は無知ゆえに、その最善が最悪にさえ見えることがあるわけです。

 古代ギリシャの哲学者ソクラテスは「無知の知」という考え方を広めました。それは、「自分が無知なる者であると知っている者は、自分を賢いと思っている者よりも賢い」ということです。ヨブは、その点からしても、彼の友人たちよりかは「賢い」と言えるでしょう。創造主である神様と、被造物である自分のどうしようもない程の差を、誰よりも認識しているのですから。

22節ではこうあります。

 神は誠実な者も悪い者も、ともに絶ち滅ぼされると。 

 神に主権があるということです。イエス様も山上の説教の中で、次のようなことをおっしゃいました。

マタイ5:45 父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからです。 

善人にも悪人にも太陽を、雨を・・・。それは逆も言えることでしょう。悪人だけでなく、善人にも「悲惨なことが起こる」ということです。

そのすべての結論とも言えるのは、932節であるように思うのです。

「神は、私のように人間ではありません。」 

これは当然のことなのですが、私たちが人間である以上、いつも無意識のうちに人間の尺度で神様を測ってしまっているのです

ある意味、それしかできないからです。

自分の尺度でなんとか神を分析しようとします。でも、だからこそ、神様が分からないのです。「神を知る」ということさえ、人の努力ではどうにもならないことに改めて気づかされます。ゆえに、「啓示」というものがあるのですよね。キリスト教は啓示の宗教と言われます。主が教えてくださる。人のわかることばで。御霊が助けてくださる。私たちがわかるようにと。

  人の努力では、到底主を知り得ないのです。この真実がわかる者こそ、神様に祈り求め、神様の助けによって聖書を知り、キリストを知るようになるのです。


33-35節では、神と人との圧倒的な差、そこにある「溝」が語られています。

33節 私たち二人の上に手を置く仲裁者が、私たちの間にはいません。
34節 神がその杖を私から取り去り、その恐ろしさが私をおびえさせませんように。
35節 そうなれば、私は恐れず神に語りかけます。しかし今、私はそうではありません。

 このヨブの訴えは、キリストを知らない者の訴えの代表のように思えます。実に、この叫びは私たち全人類の叫びであります。聖なる偉大な神様と、罪ある小さな人間の間には、どうにも埋めようのない溝があるのです。

 こんなにも圧倒的に偉大な神様と、私たち人間がどうやって語り合うことができるだろうか。交わることが出来るのだろうか。

 ヨブはその仲裁者がいないと言います。本来、私たちもそうであるはずなのです。

 しかし、私たちは、この事に神様の方から手を差し伸べて下さっていることを知っています。旧約時代から、主はそのご計画をお持ちでした。

 新約聖書において、それが実現しましたね。イエス・キリストです。

 神と人とを完全に隔てている溝。この溝を「橋渡し」するものがあるとするならば、それは人ではなく、神の側から出た者。神の御子イエス・キリストです。

 そして、人との仲裁者、仲介者となるために、人となられたお方。

 ヨブのこの嘆きへの最高の答えが、イエス様なのですよね。

101節でも、ヨブは自分が生まれたことを嫌っています。

死を願う思いをぶちまけています。18-19節でも同様ですね。

 ヨブは神様に自分の思いをぶちまけ、嘆き叫び続けています。ただ、この嘆きをやはりヨブは神様に向かってなしているのです。

 イエス様でさえ、ゲツセマネの園で祈りの格闘をしました。できることなら、この苦しい杯を取り除いて欲しいとさえ祈りました。イエス様は、それを取り除くことがみこころではないことは、分かっておられたはずです。それでも、苦しさのゆえにこうして率直に嘆き、訴えたのです。ただ、それも父なる神への信頼なのです。それも信仰です。

 イエス様はこの祈りの格闘を時間をかけてした上で、ようやく「あなたのみこころをなさってください」との告白に至るのです。だからこそ苦しみ、汗が血のしずくのように流れたと描写されるほどです。苦しみのあまり死ぬほどだと悶絶されながら祈ったのでした。

 ならば私たちが、そんなにすぐに「みこころをなさってください」と心を込めて祈れるはずもないのです。本当に深刻で、本当に辛い時には、「もういやです!なんとかしてください!みこころだなんて受け入れられません」と叫ぶことから始まるはずです。

 それでも、主は圧倒的な主権者です。この方にのみ解決があります。この方のところにのみ幸いも平安もあります。ですから、時間がかかってでも、祈りの格闘のうちに、そこに少しずつたどり着いて行きたいのです。そして、苦しみ葛藤した経験ゆえに、神様と祈りの格闘をしたからこそ、至ることのできる平安というものがあることでしょう。

 圧倒的な溝。そこにキリストが橋渡しされ、私たちと同じように苦しまれ、そして、勝利された姿に教えられます。 






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