*** 1/25(水)祈祷会 説教概略 ***
ヨブ記9-10章「神と人」
8:20 神は誠実な人を退けることはなく、悪を行う者の手を取ることはない。
ヨブの友人ビルダデのこのことば。皆さんはどう思うでしょうか。
一見正しそうに見えます。ヨブもこれらがその通りであると応答してはいます(9:1)。
しかし、ヨブはその後に反論をしていくのです。
この友人の発想によれば、結局人間の側が神様を決めつけてはいないでしょうか。どこか「人の良い行い」に神が制約されるかのようにも見えるのです。「神は誠実な人を退けることはない」と断定してしまうと、誠実な人を退ける権利も権限も神様にはないかのようになります。
主である神様が、人の常識的ルール通りにしなければならないなどとは、あってはならないことです。いつの間にか、人間が神様をジャッジする側に立ってしまっているのです。
14-15節でも同様。
14節 まして、この私が神に答えられるだろうか。神と交わすべきことばを私が選べるだろうか。
15節 たとえ私が正しくても、答えることはできない。私をさばく方に対して、あわれみを乞うだけだ。
神と交わすべきことばをふさわしく選ぶこともできないと言うヨブ。ここでは、神と自分との圧倒的な差を明確に自覚していることが分かります。
できることと言えば、何でしょう??
「あわれみを乞うだけだ」と言うのです。
人にできるのは本来その程度であるのだと。
古代ギリシャの哲学者ソクラテスは「無知の知」という考え方を広めました。それは、「自分が無知なる者であると知っている者は、自分を賢いと思っている者よりも賢い」ということです。ヨブは、その点からしても、彼の友人たちよりかは賢いと言えるでしょう。創造主である神様と、被造物である自分のどうしようも程の差を、誰よりも認識しているのですから。
9:33 私たち二人の上に手を置く仲裁者が、私たちの間にはいません。
9:34 神がその杖を私から取り去り、その恐ろしさが私をおびえさせませんように。
9:35 そうなれば、私は恐れず神に語りかけます。しかし今、私はそうではありません。
圧倒的な溝。そこにキリストが橋渡しされ、私たちと同じように苦しまれ、そして、勝利された姿に教えられます。