東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ピレモン11-16節「永久に取り戻すために」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2023/01/24

ピレモン11-16節「永久に取り戻すために」

 *** 1/24(日)主日礼拝 説教概略 ***

ピレモン11-16節「永久に取り戻すために」

「人生は出会いで決まる」と言われます。本当にその通りだと思います。特に良い師との出会いは人生に大きいものです。

 少し前に、サッカーW杯がありました。日本は善戦しましたが、残念ながら目標のベスト8には届きませんでした。まだまだ世界との差があると言えます。その差の一つは、選手だけでなく指導者の課題もあると言われます。日本では点を取る選手(フォワード)が育ちにくいと言われます。
 
 例えば、日本ではシュートを外した時に「なぜ、外した!!」ミスを責める指導がなされる傾向があるそうです。しかし、欧州は「なぜ、打たない!!」と、シュートを打たなかったこと、チャレンジしなかったことが問題にされると言います。

 これはだいぶ大きな違いですね。

 日本ではミスにフォーカスしてしまいます。失敗するなという指導をしがちなのです。逆に欧州では、失敗を恐れるな!なぜ、恐れる!チャレンジせよ!と指導されるのです。

 失敗を恐れるあまり、何もチャレンジしないことの問題です。そして、失敗をよくするということは、それだけチャレンジをしているという証しでもあります。簡単なことなら失敗をそもそもしません。難しいことにチャレンジするからこそ、失敗も増えるのです。

 そして、大切なことは失敗をしないことではなく、失敗から学ぶことです。失敗を通してむしろ成長することです。

 この手紙に登場するオネシモという人物も、大きな失敗から学び、立ち直った人です。パウロとの出会い、キリストとの出会いによって人生が180度変えられたと言えるでしょう。 

 パウロはキリストにあって、どんな人でもやり直せると信じていました。むしろ、心底悔い改めた人は、それまで以上に用いられるとさえ、キリストにあって信じていたと言えるでしょう。

 私たちも、誰かのことをあきらめないことを学びたいのです。どん底に陥り関係が壊れてしまうことも時にあります。あの人は救われない、取り戻せないと思ってしまうこともあります。しかし、キリストの十字架には力があります。どんな人でも立ち直らせる恵みの力です。それを信じる私たちですから、一時的に離れた人も、やがて永久に兄弟姉妹として取り戻すための主のご計画であると信じ、あきらめずに主に期待して参りましょう。みことばから教えられます。

 

1.オネシモを推薦するパウロ  

1:11 彼は、以前はあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにとっても私にとっても役に立つ者となっています。 

 パウロは、主人のもとから逃亡してきた奴隷オネシモについてこのように語ります。あなたとは、オネシモの主人ピレモンです。以前は主人ピレモンにとって「役に立たない者」となってしまっていた。でも、今はもう違うのだと言います。今は変えられ、むしろ、私たちにとって、とても役に立つ者となっているのだと、パウロは訴えています。それに加え、12-13節ではこうも言っています。 

12節 そのオネシモをあなたのもとに送り返します。彼は私の心そのものです。
13節 私は、彼を私のもとにとどめておき、獄中にいる間、福音のためにあなたに代わって私に仕えてもらおうと思いました。 

 なんという紹介のことばでしょうか。「彼は私の心そのものです」とまで言います。

 そして、とても忠実で役に立つので、自分のもとで働いて欲しいと思ったほどでした。

 パウロがどれほどオネシモを信頼して、誇りに思っていたかが分かりますよね。

 このパウロの役割がとても大切ですよね。

 本人がいくら悔い改めた、心を入れ替えたと言っても、難しいことがあります。その時に、人々からの信頼の厚い人が間に入って推薦してくれることは大きな助けになりますね。本人の思いも大事ですが、人々から信頼されているかは、それ以上に重要なのではないでしょうか。間に入って「とりなす」人の存在の重要性が分かります。パウロはこのようにして、人の間に立って人々を結び合わせ、お互いに協力して良い働きができるために奮闘した人物でした。

 私たちも、この「人を結び合わせる」パウロ的な働きを、もう少し意識をもって取り組めたら良いと思うのです。 

 実は、パウロ自身が、かつてそうしてもらった人でした。彼はオネシモ以上に、役に立たない、それ以上に「妨げの人」でした。なぜなら、キリスト教会を苦しめ、迫害していた人物だったからです。その彼が悔い改めて、宣教の働きに加わりたいと願っても、多くの人は大反対したでしょう。その時、間に入ったのがバルナバという人でした。慰めの人バルナバが、パウロをとりなし、徐々にパウロは使徒の中に加えられていったのです。

 その結果どうなったでしょう。彼は非常に用いられるようになったのです。過去の罪を心から悔いているからこそ、より一層、主のために働き、用いられたのです。人を倒れさせるのではなく、人を立ち上がらせ、その人が生かされていく道に、私たちも自分をささげたいですよね。

 

2.ピレモンへの配慮  

一方で、パウロは受け入れる側のピレモンに対しても、愛をもって心を配っています。14節。

14節 しかし、あなたの同意なしには何も行いたくありませんでした。それは、あなたの親切が強いられたものではなく、自発的なものとなるためです。 

 「あなたの親切が強いられたものではなく、自発的なものとなるために」、あなたの同意をしっかり得たいのだと言います。パウロの勧めが「強制」にならないように、ピレモンの人格、自主性を尊んでいることを伝えていますよね。

 教会での様々な働きは「仕事」とは言いません。「奉仕」と呼んでいますよね。それは、それぞれが自分の心をささげてする「自発性」を重んじているからでもあります。

 しかし、義務や強制ではないからと言って、自分を甘やかす、いい加減な奉仕のあり方は、主の前に喜ばれない不誠実ですよね。命令ではなく、自発性を尊ぶということは「大人扱い」ですよね。ですから、大人扱いされている者にふさわしく、受ける側も成熟した対応をしたいのです。「何か言われると嫌なので」という動機ではなく、「主がご入り用ならば」と信仰をもって応じたいと思わされます。

 私よりだいぶ上の世代の先輩の先生で、しかし親しくさせていただいている方がいらっしゃいます。その先生もお忙しく、大きな重荷を担っておられる中、さらなる重荷が与えられ・・・。正直、その先生も「困ったなぁ」と。

 でも、神様から「やりなさい」と語られると「はい」とお答えするしかないのでねと。その後、とある先生も、重い奉仕の依頼に対して「主がご入用ならば」と応じてくださる姿に、とても励まされました。

 奉仕ですから、何か会社で上から命令されたというものではない。断る権利もあります。しかし、「主がご入り用ならば」と、その声に自らの意志で応じていく姿は本当に尊いものです。

 パウロがピレモンに期待した応答もそれなのでしょう。

 「主のみこころならば」と応じてくれると信じているのです。このようなパウロの忍耐と愛の中で、ピレモンとオネシモの二人は、主のみこころに自分から立てるようになっていったのだろうと思います。

 

3.永久に彼を取り戻すために  

 さて、15-16節のことばは、私たちに希望をもたらすことばです。

15節 オネシモがしばらくの間あなたから離されたのは、おそらく、あなたが永久に彼を取り戻すためであったのでしょう。 

16節 もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、愛する兄弟としてです。特に私にとって愛する兄弟ですが、あなたにとっては、肉においても主にあっても、なおのことそうではありませんか。 

 普通、私たちは関係が壊れてしまったら、なかなか回復は難しいと考えます。でも、その機会を、むしろ永久に取り戻すための道だったと捉える。このパウロの「信仰による前向きな姿勢」は教えられますね。

 しかも、以前よりも良い関係として回復すると言うのです。もはや奴隷としてではなく、愛する兄弟として。奴隷という制度をも超えて、主にある兄弟という固い絆をもって歩む道です。これは、オネシモが大人しく奴隷として仕えていたままなら、進展しなかったことかも知れません。

 でも、オネシモが問題を起こして飛び出した。それは過ちだったけれども、この失敗を通してオネシモが回心したからこそ、新しい関係性を始められるのです。

 これは人間の目には不思議なことです。

 離れたがゆえに、つまずいたがゆえに、より良い形で回復する。主のみわざなのですよね。これが福音の力。十字架の赦しの恵みです。

この手紙の後、オネシモがどうなったのか。気になりますよね。ピレモンと和解し、良い関係を築けたのか。しかし、聖書中ではそれは明確にされていません。わからないのです。

ただし、伝承において伝えられていることがあります。それによれば、彼はエペソの教会の監督になり、大いに用いられたということです。

Ⅱテモテ3章には監督の職について、このようなことばがあります。

3:1 次のことばは真実です。「もしだれかが監督の職に就きたいと思うなら、それは立派な働きを求めることである。」
3:2 ですから監督は、非難されるところがなく、一人の妻の夫であり、自分を制し、慎み深く、礼儀正しく、よくもてなし、教える能力があり、
3:3 酒飲みでなく、乱暴でなく、柔和で、争わず、金銭に無欲で、
3:4 自分の家庭をよく治め、十分な威厳をもって子どもを従わせている人でなければなりません。 

 どうでしょうか。「逃亡奴隷、役に立たない者」と呼ばれたオネシモが、このような教会を牧会し導く「監督」として用いられたとするならば・・・。なんと励まされることでしょうか。

 いや、むしろ、自分の罪深さ、愚かさを心底自覚し、心から悔い改めた者だからこそ、主に用いられていくのでしょう。

 さらに、伝承では、彼の最期は「殉教」だったと言われています。殉教と言うと、迫害され苦しめられて死んだと否定的に考えがちです。

 しかし、殉教したということは、「最後の最後まで主に従い通した」という意味でもあるのです。死に至るまで忠実に歩んだという証拠です。

 主によって人生が新しくされた時、彼はその名前の意味の通り「役に立つ者(オネシモ)」として、その生涯を終えたのだと思います。

 もちろん、この部分は伝承ですから、どこまで真実なのかは分かりません。

 でも、人を立ち直らせるキリストの十字架の力を私たちは信じています。主が、どんな人をも決してあきらめず、滅びを願わず、どこまでも捜し出して救ってくださる愛の方だと信じています。

ですから、私たちも、あきらめてはいけません。主イエス様がその人をあきらめないからです。キリストの十字架は、どんな破れをも繕う愛の力です。私たちも失ってしまい、もう取り戻せないと落ち込むことがあるでしょう。しかし、私たちが決めてはなりません。それは恵みの視点においては、やがて永久に取り戻すための主のご計画であるのかも知れないからです。 

 神様が今日も親しくお語りになっています。離れた、倒れた、壊れたと思っても、それで終わりではない。あきらめてはならないと。

 「わたしがあきらめないからだ」と・・・

 主は、廃墟を慰め、荒野さえエデンのように、砂漠をも主の園のようになさる方です。破れを繕い、かえって強固になさる方。失われ、倒れている人を永久に取り戻すためのキリストの十字架があるのです。




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