*** 1/18(水)祈祷会 説教概略 ***
ヨブ記6-8章「死を願うヨブ」
多くを失い、悲しみのどん底にあったヨブを励まそうとした友人エリファズ。彼のことばは、確かに正論であり、時に真理なのですが、しかし、この時のヨブにはかえって苦しみを増してしまう追い打ちに思えました。愛のない正論、みこころに沿わない正論は、人を励ますどころか、主のみこころから離してしまうことさえあります。
ヨブは自分の苦しみを理解して欲しかったのであって、冷静に分析されたかったのではないのです。
特に、論理的な男性ほどやってしまいがちで、相手の苦しみを理解するよりも、分析し「こうしたらいいのではないか?」とかアドバイスを並べて立ててしまいます。私にも心当たりがあります。
ですから、ヨブは6章1-7節のところでは、苦しみのゆえに嘆くことは正当な権利であるかのように主張しています。
さて、苦しみがひどすぎるので、ヨブは神様に向かって「死」を願うほどでした。7章に入りますが、15-16節にこうあります。
15節 私のたましいは窒息を、私のからだ(骨々)ではなく、死を選びます。
16節 もういやです。いつまでも生きたくありません。かまわないでください。私の日々は空しいものです。
私のたましいは窒息を願う。そして、からだではなく死を選ぶと。「からだ」ということばには、脚注にあるように「骨」という意味もありますが、実は他にも「痛み」という意味もあります。そこには「苦しみながらこのからだで生きるよりも、いっそ死にたい」という願いがあるのでしょう。
18-21節。21節の最後も「もう私はいません」と、消え入りたいという思いを吐露しています。燃え尽き、落ち込んでしまったエリヤの心情もこれに似たものであったことでしょう。そして、このようなヨブの姿を見ていられない友人のことばが出てきます。
ヨブは必死に主に叫び、もがいて、この苦しみの中でどうにかしたいと必死なのです。これらのビルダデのことばは、しばしば私たち自身にも心当たりがあることでしょう。私たち自身が、死にたいと願ってずっと嘆いている人を見ていられないのです。そんなにウジウジしていないで、恵みを見つめましょう!良いこともある!と。 ヘンリー・ナウェンの失敗談があります。ハリケーンで家を失った老婦人を励まそうとして、失敗したのです。途方に暮れる彼女に、あなたはまだマシな方ですと。家族がすぐに駆け付け、家を修理したり、色々助けたりしてくれている。もっと悲惨な人が多くいる。恵みを見ましょう!と彼は言いました。
しかし、それはかえって彼女を傷つけてしまいました。悲しむべき時に悲しむチャンスをある意味奪ってしまったのです。自分の側に引き込むのではなく、彼女の苦しみに神様と一緒に寄り添うことが必要だったのです。
それはキリストが、人の隣人となり、苦しみと一緒に担われた姿から学べます。 実に、人が苦しみを受け入れるのには時間が必要です。試練を受け止めるまでに必要なプロセスがあります。悲しむべき時には悲しみ、嘆くべき時には嘆く「グリーフワーク」が必要です。
ですから、苦しむ人にヨブ記や詩篇を勧めるのはそういう意味があるでしょう。そこに私たちの代弁者がいます。神様に大いに嘆き叫んでいるのです。神のもとで悲しみ、苦しんでいます。聖書のすばらしい点の一つでしょう。
当たり障りのない綺麗ごとが並べられた書ではないのです。人の魂のうめき声が聞こえてくるのです。そして、実に一番の代弁者はイエス・キリストです。キリストが隣に寄り添い、ともに痛んで下さいます。私たちは主の前に、ヨブのように叫びもがく者であって良いのです。みこころにそって悲しむ時、主の慰めが与えられます。