東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 民数記31章1-20節「神から離すものとの戦い」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2023/01/18

民数記31章1-20節「神から離すものとの戦い」

 *** 1/15(日)主日礼拝 説教概略 ***

民数記31章1-20節「神から離すものとの戦い」

ノルウェーの諺に「北風がバイキングを作った」ということばがあります。厳しい困難な環境が、屈強な勇者を生み出したと言う意味です。確かに温室育ちでは強い人は生まれないでしょう。

聖書のみことばも、私たちにとって受け入れやすい蜜のように甘いことばもあれば、吹きすさぶ北風のように厳しいものもあります。そして、時に厳しいみことばを避けたくなるのが人情です。しかし、その厳しさと向き合うことが、私たちのいのちを救うことがあると覚えたいのです。


ある人の父親は、ギャンブルにハマっていました。パチンコ、競馬、競艇など、様々なギャンブルに手を出していきました。やがて、その父親は借金を重ね、闇金融のようなものにも手を出すようになりました。大切な家の財産が失われ、それが原因で夫婦喧嘩も多くなりました。極めつけは、闇金に返すお金に困り、自分の家庭を守るのに必死の息子にさえお金の工面を求めに来る姿でした。なんとも胸が痛んだのです。

ただ、その父の姿は、彼にとって大きな益ともなりました。これは自分の姿でもある。自分にも同じ弱さがある。きっと自分も賭け事に手を出せば、同じようになる。彼はそう思いました。そして、父親の過酷な現実を見たゆえに、決してギャンブルには手を出すまいと決心できたのです。

本日のみことばも、とても厳しさを感じるものです。字面だけで読むと誤解を生み、つまずきにもなりかねません。しかし、聖書は「霊的な書」ですから、表面的な文字で終わってはいけませんね。その奥にある主のみこころを、神の聖霊の助けのうちに教えられる必要があります。より深い、より大切な真理に目を留めて参りましょう。それがもしかしたら、私たちの生涯を大きく変えるものとなるかも知れません。

 

1. ミディアン人への復讐 そこにある意味

 

モーセの死が迫っていました。その終わりに、神である主はこのご命令をなさいました。

1節 主はモーセに告げられた。 
2節 「あなたは、イスラエルの子らのために、ミディアン人に復讐を果たせ。その後で、あなたは自分の民に加えられる。」 

 モーセの人生の最後に命じられたことは、なんとミディアン人の討伐でした。ここではミディアン人への復讐と語られています。ミディアン人と言うのは、単一の民族ではなく、イシュマエル人、モアブ人、アマレク人などの様々な民族が入り混じっていました。彼らはイスラエルに敵対し、神への信仰を妨げてきた連合軍とも言えます。

 モーセの人生の最期に命じられたことは、イスラエルを神から引き離し、滅ぼそうとする悪意に対峙することにありました。それにしても「復讐」ということばは強いですよね。しかし、これは神様に敵対し、神の民を惑わし、いのちを奪ってきたミディアン人の罪に対する公正な「神のさばき」でした。人間が恨みから行う復讐とは全く違います。ただ、あえて「神の復讐」と語ることによって、神に敵対する罪の深刻さを知ることができたでしょう。

特にミディアン人の中のモアブ人を中心とした女性たちは、少し前にイスラエル人の男性らを誘惑しました。そして自分たちの偶像の神々へと導き、滅びに至らせました。これは25章に起こった「バアル・ペオル事件」と呼ばれるもの。この事件の結果、神の民イスラエルは、神を知る者だからこそ、より厳しいさばきを受けました。神様はイスラエルを通して世界に神の愛も聖さも表そうとなさいましたから、イスラエルが最初に神様から厳しく問われたのです。その上で、それを引き起こした当事者ミディアン人も、こうしてさばかれる事になったわけです。

その折に、神様は、あえてイスラエルの民自身の手によって、このさばきを行わせようとなさいました。もちろん、天からの火で滅ぼすことも、様々な災害をもってさばかれることも可能でした。実際にソドムとゴモラの例もあります。しかし、この時、主はあえて神の民に、神のさばきのわざをさせたのです。

それは、神の民が自分の手で罪への未練と完全に決別するためであったと言えるでしょう。最初にギャンブルや借金依存の例を挙げました。この借金を他の人が肩代わりしてあげると、何も解決しないのですよね。それだと痛みを通らないので、身を切る経験をしないので離れられません。時に自分の手で決着をつけなければ、ずっと引きずってしまう問題というものがあるのです。特に、彼らミディアン人は、様々な機会に神に敵対し、神の民を襲い苦しめてきましたから。

こうして、この戦いは信仰をもってなされました。祭司が戦場に派遣され、指導していることにも現れています。

6節 モーセは部族ごとに千人を戦に送った。また彼らとともに、祭司エルアザルの子ピネハスを、聖なる用具と吹き鳴らすラッパをその手に持たせて、戦に送り出した。

そして、主の命じられた通りにということが大切でした。 7節 彼らは主がモーセに命じられたとおりに、ミディアン人に戦いを挑み、その男子をすべて殺した。 

これが主のさばきであったことは、占い師バラムが死を迎えていることからも分かります。8節の中に「ベオルの子バラム」という名前があえて記録されています。彼は強欲で、自分の利益のために神の側につこうか、敵対しようかと悩み、ただただお金のために道を選ぶ者でした。結果、神に敵対することに加担したので、こうしてさばかれているのです。

 しかしながら、イスラエルの民も他人事ではありません。イスラエルの男性たちには未練があったようです。本来さばきを下すべきミディアンの女性たちを惜しみ、死刑にせず捕虜にしたのでした。それは優しさとか情けではなかったのです。欲のためだと考えられます。

 それでモーセは激怒します。なぜ、主のご命令に従わないのかと。14-15節。
14節 モーセは、軍勢の指揮官たち、すなわち戦いの任務から戻って来た千人の長や百人の長たちに対して激怒した。15節 モーセは彼らに言った。「女たちをみな生かしておいたのか。 

 イスラエルを誘惑し、多くのイスラエルを滅ぼす元凶となったのがミディアン人の女性たちでした。彼女たちは罪深く、イスラエルの男性たちを誘惑し、罪深いカルト的な偶像礼拝に誘いました。神から引き離しました。多くの仲間が彼女たちによって命を失ったのです。そして主が彼女たちをさばこうとしているのに、神様に従いませんでした。 

 おそらく、イスラエルの男性たちは、性欲の神々を拝む彼女たちとの快楽に、未だ心惹かれていたのでしょう。そこで、モーセは16節でこう言います。「このミディアン人の女性たちこそが、イスラエルの子らをそそのかし、主を冒瀆させた張本人たちだ!!その結果、主の罰が会衆に下り、多くの者がいのちを落としたのを忘れたのか!」と。

 モーセは彼らの罪に対する甘さを見抜きました。それで必死に訴えたのです。そして、罪を行わせる偶像礼拝にまだ染まっていない独身女性たちだけを残し、この偶像礼拝の民を滅ぼすよう命じたのです。

 

2. 神様が本当に伝えたいこと

 

 私たちがここから語られることは何でしょうか。

 もちろん、これらの出来事は、旧約時代ですから新約の時代にある現代とは大きく違います。聖戦の理由付けに用いるなど、あってはいけません。文字通りそのまま適用するようなものではないですよね。

 しかしながら、大切な真理が示されています。今日のタイトルにあるように、神から私たちを引き離すもの、私たちを滅ぼしてしまうものとは、明確な線引きをするということです。

 特に偶像礼拝に染まった女性たちを意図的に残した戦士たちの姿勢に、罪をかわいがる人間の性質が示されているように思います。罪を大事に心にしまって可愛がってしまう弱さです。悔い改めているその瞬間にさえ、次の罪の機会の余地を確保しようとする性質です。小さなパン種がパン全体を膨らますように、小さな罪が体全体を滅ぼしていきます。

 これは、性的なことだけではなく、様々な罪の問題について言えることです。偶像礼拝の罪とは、本来神様がいるべき場所に、何かしら別のものが居座ってしまうことです。お金や名誉等を神としてはいけません。それぞれの弱さと結びついて、断ち切れないものとなります。

 「少しぐらいなら」と取っておくことが、滅びへと向かわせることがあります。

イエス様は、私たちを愛するゆえに、本当に幸せになって欲しいゆえに、山上の説教においてこのような厳しいことばをも下さいました。 

マタイの福音書5:29-30 5:29 もし右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨てなさい。からだの一部を失っても、全身がゲヘナに投げ込まれないほうがよいのです。5:30 もし右の手があなたをつまずかせるなら、切って捨てなさい。からだの一部を失っても、全身がゲヘナに落ちないほうがよいのです。 もちろん、文字通り実行せよということではありません。ただ、その意図はわかりますよね。

トルストイ原作の絵本で『人にはどれだけの土地がいるか』というものがあります。元々はあまり欲のなかった農夫が少しずつ欲に覚れてしまうお話です。最初は土地を持たず、借りている地でコツコツ働いて、贅沢はできないものの、夫婦で幸せに暮らしていました。

しかし、少しずつ自分の土地を得始めると、もっともっと欲しくなりました。そして、自分の所有する土地が広がるにつれ、彼の心は反対に狭くなっていきました。彼の欲が非常に大きくなった時、悪魔が人間の姿を取って、彼にうまい話を持ちかけました。

この丘の上から1日歩いて、日が暮れるまでにめぐり歩いて来た土地全部を、わずかな金額で売ってやろうと言います。こんなにうまい話はない!と農夫は朝早くからしるしを残しながら歩き続けました。

日が暮れる寸前まで歩き続け、心臓をバクバクさせながら、汗だくでグッタリしながら、なんとか元の場所に戻って来ました。しかし、そこに倒れ込んだ折に、彼は力尽きて絶命してしまうのです。

卑近な例で恐縮ですが、自身の経験として思い浮かんだのはお菓子の袋詰めサービスでした。欲を出して入れすぎると、袋が破れてしまいますよね。

土地は確かに価値あるものですが、所有する者自身が死んでしまったら意味がありません

  本当に大切なものを決して見失ってはいけません。 

 生活のためにお金が必要です。でも、お金を稼ぐために必死になって、神様の愛と恵みを見失ってしまうなら本末転倒です。

 お金を得るために健康を失い、そうやって得たお金で医者にかかり、薬を買い、健康を買い戻します。なんと愚かなことでしょうか。

 家族のために死ぬほど働いたのに、かえって家族との時間を失い、崩壊してしまうことがあります。なんと空しいことでしょうか。

第一にすべきものを第一にしない時、第一のものだけではなく、すべてを失うことに私たちは気づく必要があるのです。服を着る際のボタンのかけ違いです。一番上がずれたら、すべてがずれていきます。本当に大切にすべきことを大切にできない人は、二番目以降のものも大切にできなくなります。

小さな罪の問題に真剣に向き合い、決別できない人は、すべてにおいてそうなるのです。私たちをイエス・キリストから引き離そうとする何かがあるなら、妥協してはいけませんよね。誘惑になるなら決別しなければなりません。罪に対しての甘い態度。悪魔と仲良く妥協するならば、気が付いた時には大切なものをことごとく失ってしまうでしょう。

本来私たちは、ミディアン人のような者たちであったと言えるでしょう。自分が罪を犯すだけでなく、他の人を傷つけてしまいます。時に、他の人を神様から遠ざけてしまっていることさえあるかも知れません。そして、本来は、それらの罪のゆえに、神のさばき(神の復讐)によって、滅ぼされるべき私たちでしょう。けれど、私たちにあわれみをかけてくださいました。御子イエス・キリストの十字架によって、罪赦されました。

 イスラエルの民は、これから祝福の地へと入ろうとしていました。その祝福の妨げとなる罪と決別し、神様に従い通すことが問われていたのです。

私たちもキリストとともに、神の国に向かう者たちです。まとわりつく罪を捨て、全身全霊をもって主キリストについていきましょう。




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