*** 1/13(水)祈祷会 説教概略 ***
ヨブ記1~6章「極限の苦しみに見舞われたヨブ」
※今回は説教より少し詳しい説明も付与しています
ヨブ記は全体を通して一つのストーリーなので、本来は一気に読んでしまいたいところです。ただ、限られた時間の中では難しいので、何回かに分けて学びたいと思っています。
ヨブ記のテーマは、ざっくりと申し上げると「正しい人、良い人がなぜ苦しむのか」ということでしょう。人間には計り知れないテーマです。一生をかけて悩み、考え、それでも解決しきれない課題です。また、正しさとは何か、信仰とは何かということも考えさせられます。
1章1節によると、ヨブは「誠実でまっすぐな心の持ち主」だと分かります。何よりも「神様を恐れ、悪から離れ正しく歩んでいた」のです。さらに、8節では神様ご自身のことばとして、この点に触れられています。ヨブ以上に主の前に正しい者はいなかったのです。それを神様ご自身がおっしゃっているのですから、最大級の賛辞と言えるでしょう。
さらに、1章2-3節によると、彼には10人の子があり、多くの使用人、多くの財産を所有している大富豪だと分かります。4節では、家族円満な雰囲気も漂います。
ですから、他の人から見たら非の打ちどころのない、完璧な人に見えたかも知れません。実際、それに近い幸いな人物でした。
このような人は罪の世では妬まれます。
何もしてなくても憎まれます。
少しは不幸になればいいのにとさえ思われるでしょう。
その背後にはサタンがいます。私たちはヨブのところに自分を置いて考えがちですが、私たちはヨブほど正しい信仰者とは到底言い難く・・・。むしろ、まっすぐで祝福されている人に対して妬みを抱き、「少しぐらい不幸になればいいのに」、「偽善者!」などとの思ってしまうこともあるのではないでしょうか。
特にサタンは、信仰においても圧倒的にまっすぐなヨブを、神さまから引き離そうとします。サタンの発想、考えに、私たちはギョっとするかも知れません。
彼は「非の打ちどころのないヨブも所詮薄っぺらな偽善者のようなものだ!」と神様に食ってかかるのです。1章9-11節です。
9節 サタンは主に答えた。「ヨブは理由もなく神を恐れているのでしょうか。
10節 あなたが、彼の周り、彼の家の周り、そしてすべての財産の周りに、垣を巡らされたのではありませんか。あなたが彼の手のわざを祝福されたので、彼の家畜は地に増え広がっているのです。
11節 しかし、手を伸ばして、彼のすべての財産を打ってみてください。彼はきっと、面と向かってあなたを呪うに違いありません。」
どうでしょうか。ここはとても考えさせられるところです。
悪魔の言い分をもう少し砕いてお話するなら、こういうことではないでしょうか。
「ヨブのように収入があふれるほどあり、財産も使用人もいっぱいて、家族も円満なら、そりゃあ誰でも神様にお仕えしますよ!いい事ばかりなのだから!
ですから、私に試みさせてください。ヨブだって、さすがにこれらすべてを失ったら、絶対神様をのろい始めますから!」
人間なんて、色々と不幸が続き、多くを失えば誰も神を信じなくなる。自分に利益があるから信じているに過ぎない不信仰者だと。サタンの言い分です。情けないことですが、確かに、その通りかも知れない・・・と思ってしまう信仰の弱い私たちです。
ただ、私たちにはキリストの十字架の勝利がありますね。やはりキリストなしには、難しい。けれど、キリストがいらっしゃるので、十字架の赦しと恵みがあるので、弱い私たちであっても、主とともに歩ませていただけるのです。なんという幸いでしょうか。
それで悪魔はヨブを試したいと申し出て、神様はそれを許可されるのです。
結果、ヨブは子どもたち、使用人、財産を様々な災いで失ってしまうのです。同情を禁じ得ません。ここに私たちは疑問を感じる事でしょう。
20節 このとき、ヨブは立ち上がって上着を引き裂き、頭を剃り、地にひれ伏して礼拝し、21節 そして言った。「私は裸で母の胎から出て来た。また裸でかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」
22節 ヨブはこれらすべてのことにおいても、罪に陥ることなく、神に対して愚痴をこぼすようなことはしなかった。
ヨブの反論が6章にあります。苦しんでいる人というのは、余裕がなく辛い状況なので、ことばがきつくなりがちです。そして、それを聞く周囲も、それに呼応するかのように、強い反応を示してしまいます。ヨブはそのことを6章1-3節で述べています。
そして、彼のことばは苦しむ者を慰める上で、とても参考になります。6章14節です。
落胆している者に、追い打ちは不要だということを教えられます。むしろ、その苦しみに寄り添い「大変だね、よく頑張っているね」と「友情」によって支えて欲しいのです。
しかし、生を呪うヨブを見ていられなかったのもあるでしょう。エリファズはお前にも何か問題があったのだ。しょうがないだろうと言わんばかりです。
ヨブの反論が、25-26節でもこうありますね。
25節 真っすぐなことばは、なんと痛いことか。あなたがたは自分で何を責め立てているのか。
26節 ことばで私を責めるつもりか。絶望している者のことばを、風と見なすつもりか。
まっすぐなことばが悪いわけではないのです。ただ、相応しい時というものがあるでしょう。言い方もあるでしょう。嘆き・叫びの声をあげている時には、その苦しみを理解し、慰めることが先決でしょう。
本人が落ち着き、ここが良くなかったと冷静に話せるようになった時に初めて、「確かにその点は反省すべきかも知れないね」と受け止められるのではないでしょうか。
ご一緒に語られて参りました。苦しみの答えは、安易に出せない部分があることを改めて気づかされます。その真の意味は、神だけがご存知なのだと言えるでしょう。
その中で大切なことは、安易に人間的な答えで自分や人を説得しようとしない方がいいということです。ただただ、神様にまっすぐに助けを祈り求めましょう。
隣人の苦しみに対しても、「何かを言わなければ」とは考えず、まずはともに寄り添う愛を示しましょう。
もちろん、真実を語る必要もあります。しかし、それもまた祈りのうちに、主から示されたことを丁寧にお伝えしていく必要があるのです。人には計り知れないものが、この世界には確かにあるのですから。
引用元聖書
<聖書 新改訳2017>
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