東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ヨブ記1~6章「極限の苦しみに見舞われたヨブ」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2023/01/13

ヨブ記1~6章「極限の苦しみに見舞われたヨブ」

 *** 1/13(水)祈祷会 説教概略 *** 

ヨブ記1~6章「極限の苦しみに見舞われたヨブ」

※今回は説教より少し詳しい説明も付与しています

本日はヨブ記から教えられて参ります。

ヨブ記は全体を通して一つのストーリーなので、本来は一気に読んでしまいたいところです。ただ、限られた時間の中では難しいので、何回かに分けて学びたいと思っています。

ヨブ記のテーマは、ざっくりと申し上げると「正しい人、良い人がなぜ苦しむのか」ということでしょう。人間には計り知れないテーマです。一生をかけて悩み、考え、それでも解決しきれない課題です。また、正しさとは何か、信仰とは何かということも考えさせられます。

11によると、ヨブは「誠実でまっすぐな心の持ち主」だと分かります。何よりも「神様を恐れ、悪から離れ正しく歩んでいた」のです。さらに、8節では神様ご自身のことばとして、この点に触れられています。ヨブ以上に主の前に正しい者はいなかったのです。それを神様ご自身がおっしゃっているのですから、最大級の賛辞と言えるでしょう。

さらに、1章2-3によると、彼には10人の子があり、多くの使用人、多くの財産を所有している大富豪だと分かります。4節では、家族円満な雰囲気も漂います。

ですから、他の人から見たら非の打ちどころのない、完璧な人に見えたかも知れません。実際、それに近い幸いな人物でした。

 このような人は罪の世では妬まれます。
 
 何もしてなくても憎まれます。

 少しは不幸になればいいのにとさえ思われるでしょう。

 その背後にはサタンがいます。私たちはヨブのところに自分を置いて考えがちですが、私たちはヨブほど正しい信仰者とは到底言い難く・・・。むしろ、まっすぐで祝福されている人に対して妬みを抱き、「少しぐらい不幸になればいいのに」、「偽善者!」などとの思ってしまうこともあるのではないでしょうか。

 特にサタンは、信仰においても圧倒的にまっすぐなヨブを、神さまから引き離そうとします。サタンの発想、考えに、私たちはギョっとするかも知れません。

 彼は「非の打ちどころのないヨブも所詮薄っぺらな偽善者のようなものだ!」と神様に食ってかかるのです。1章9-11節です。

9節 サタンは主に答えた。「ヨブは理由もなく神を恐れているのでしょうか。
10節 あなたが、彼の周り、彼の家の周り、そしてすべての財産の周りに、垣を巡らされたのではありませんか。あなたが彼の手のわざを祝福されたので、彼の家畜は地に増え広がっているのです。
11節 しかし、手を伸ばして、彼のすべての財産を打ってみてください。彼はきっと、面と向かってあなたを呪うに違いありません。」 

 どうでしょうか。ここはとても考えさせられるところです。

 悪魔の言い分をもう少し砕いてお話するなら、こういうことではないでしょうか。

「ヨブのように収入があふれるほどあり、財産も使用人もいっぱいて、家族も円満なら、そりゃあ誰でも神様にお仕えしますよ!いい事ばかりなのだから!
ですから、私に試みさせてください。ヨブだって、さすがにこれらすべてを失ったら、絶対神様をのろい始めますから!」 

人間なんて、色々と不幸が続き、多くを失えば誰も神を信じなくなる自分に利益があるから信じているに過ぎない不信仰者だと。サタンの言い分です。情けないことですが、確かに、その通りかも知れない・・・と思ってしまう信仰の弱い私たちです。

 ただ、私たちにはキリストの十字架の勝利がありますね。やはりキリストなしには、難しい。けれど、キリストがいらっしゃるので、十字架の赦しと恵みがあるので、弱い私たちであっても、主とともに歩ませていただけるのです。なんという幸いでしょうか。

 それで悪魔はヨブを試したいと申し出て、神様はそれを許可されるのです。
 
 結果、ヨブは子どもたち、使用人、財産を様々な災いで失ってしまうのです。同情を禁じ得ません。ここに私たちは疑問を感じる事でしょう。

 まさに「真面目な立派な人が、なぜ、こんな災いにあうのか」との問いが生まれます。なぜ、主はそれを許されるのかと。

 そして、人間はそれに対して、様々な理由や原因を探します。「因果応報」という考え方も、その一つなのかも知れません。

 しかしながら、私たちも自由を与えられており、実に他の人を害し、傷つけ、苦しめている張本人ではないでしょうか。自由意志があるということは、良いことだけでなく、悪いことをすることが可能です。サタンがいなくても、人は罪のゆえに悪魔側に立って、他の人のいのちも財産も奪い合っているのではないでしょうか。

 極限のこの苦しみの中にあっても、ヨブの信仰はまっすぐであったことが示されます。

 20-22節にある通りです。

20節 このとき、ヨブは立ち上がって上着を引き裂き、頭を剃り、地にひれ伏して礼拝し、21節 そして言った。「私は裸で母の胎から出て来た。また裸でかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」
22節 ヨブはこれらすべてのことにおいても、罪に陥ることなく、神に対して愚痴をこぼすようなことはしなかった。 

 非常に教えられますね。このようになっても神様に愚痴さえこぼさないというのは、まさに地上に他にはいないのではないか・・・そう思えるほど神様にまっすぐな信仰です。 「主は与え、主は取られる」これはもうその通り、真理です。

 私たちもそのように受け止めて歩みたいと思います。

ただ、この時のヨブは自分が語った告白が、どれほどのものかも分かっていなかったのだろうとも思います(最後までヨブ記を味わうと、そのように思えるかと)。自分の言っていることの意味や重みが分からないという経験は、私たちにもあることでしょう。

大好きな人が出来た時に「一生愛します」と言うかも知れませんが、その重みを知るのは20年、30年先のことでしょう。ヨブもこの時、これらのことばの重みをまだ十分には分かっていなかったことでしょう。

 とはいえ、ここまで至っても神を呪わないヨブは立派です。そして、サタンはさらなる試みを投じようと、神様に許可を願い出ます。神様はヨブがそれでも私を信じるとヨブに信頼し、いのちまでは取ってはならないと制限しながら許可をされるのです。

ヨブは、財産や子どもたちを失ったばかりか、苦しい病に襲われました。27節によれば、足裏から頭まで、悪性の腫物に覆われます。そして29-10節に、ヨブとその奥さんとのやり取りがあります。奥さんは、こんなに苦しめる神様に誠実を尽くすなんて!と呆れます。「神を呪って死になさい」と悪態をつくほどでした。これが一般人の反応のようにも思えます。

ここでも、ヨブの答えはあまりにも正しい。到底マネできるものではないように感じます。ヨブは、幸いも神様が与えてくれるのだから、苦しみも与えられるのは当然だと言います。なお、罪を犯さずにいるヨブでした。

ただ、この後、苦しさのゆえに、ヨブは自分の生れて来た日を呪い始めました。

3章を読むと、ヨブの嘆き叫びが伝わってきます。彼はとことん神様を恐れていますが、それでも苦しさのあまり自分の生を呪うほどだったのです。

そこで、見舞いに来た友人たちが、次々と口を開き「もっともらしいことば」を並べます。「もっともらしいことば」に過ぎませんので、神様の真理の前には、むしろむなしい内容、かえって主の真実を覆い隠してしまうものでした。 

神学生時代の同級生が、かつて友人に対して、ヨブの友人たちのことばを引用して送り、励まそうとしたことがあるという人がいました。ヨブ記を改めて学び、むしろ神様の真理を隠してしまう側のことばだったのか!?とショックを受けていたのを思い出します。

確かに、もっともらしい良いことも書かれています。部分的には「真理そのもの」と見える内容もあります。ただ、どれも「不完全な人のことば」に過ぎなかったのです。

神様のみこころも、また本当に苦しんでいる人の苦しみも、彼らは分かっていないのです。

浅はかで愛の伴わない正論です。

それはかえって人を傷つけることがあります。

主のみこころを求めて愛のゆえに用いるのでなければ、みことばでさえも、人を傷つける道具や正当化の根拠として利用され得るのです。悪魔もイエス様を誘惑する時、みことばを悪用しましたよね(荒野の試み)。

人を立ち直らせるどころか、かえって人を傷つけ悲しませることさえしてしまいます。

例えば友人のひとり、エリファズはパリサイ主義的思想の持主です。

ヨブが苦しむのは、やはりお前が悪いからではないのかと彼を責めます。4-5章に彼の言い分があります。

4:17-18「人は神の前に正しくあり得ようか。その造り主の前にきよくあり得ようか。見よ。神はご自分のしもべさえ信頼せず・・・」と、彼はかつて自分の心に示された声を紹介します。

しかし、神様はヨブほど誠実で真っすぐな心を持つ者、神を恐れて悪から遠ざかっている者は地上に他にいないと言われるのです。ヨブを信頼し、高く評価しています。ですから、エリファズの耳に聞こえた「その声」は、ある種の自分の思い込みでしょう。

こうして、ヨブに罪があるからという理由で、神様が苦しみを与えているのではないことが明確にされているのです。つまり、ヨブほど神様から誠実で神を恐れる者だと言われている者でさえ、苦しみにあうのです(つまり、誰でも苦しみは避けて通れないのです)。

ですから、私たちも苦しむ時に、何でもかんでも自分が悪いからだと責めるべきではありません。

確かに自業自得もあります。でも、誠実にまっすぐ歩んでも試練はあるのです。

安易に自分を責めるのはやめませんか?

5章17節でも「ああ、幸いなことよ、神が叱責するその人は。」と言います。確かにこれも、ことば自体は正しいでしょう。しかし、今のこの状況のヨブに軽々しく言うべきなのでしょうか・・・。エリファズのこの中身のない正論は、結果的にヨブをより苦しめています。それは主の喜ばれることではありませんでした。

ヨブの反論が6章にあります。苦しんでいる人というのは、余裕がなく辛い状況なので、ことばがきつくなりがちです。そして、それを聞く周囲も、それに呼応するかのように、強い反応を示してしまいます。ヨブはそのことを61-3節で述べています。

そして、彼のことばは苦しむ者を慰める上で、とても参考になります。6章14節です。

14節 落胆している者には、友からの友情を。さもないと、全能者への恐れを捨てるだろう。 

 落胆している者に、追い打ちは不要だということを教えられます。むしろ、その苦しみに寄り添い「大変だね、よく頑張っているね」と「友情」によって支えて欲しいのです。

しかし、生を呪うヨブを見ていられなかったのもあるでしょう。エリファズはお前にも何か問題があったのだ。しょうがないだろうと言わんばかりです。

 ヨブの反論が、25-26節でもこうありますね。 

25節 真っすぐなことばは、なんと痛いことか。あなたがたは自分で何を責め立てているのか。 
26節 ことばで私を責めるつもりか。絶望している者のことばを、風と見なすつもりか。 

 まっすぐなことばが悪いわけではないのです。ただ、相応しい時というものがあるでしょう。言い方もあるでしょう。嘆き・叫びの声をあげている時には、その苦しみを理解し、慰めることが先決でしょう。

 本人が落ち着き、ここが良くなかったと冷静に話せるようになった時に初めて、「確かにその点は反省すべきかも知れないね」と受け止められるのではないでしょうか。

 ご一緒に語られて参りました。苦しみの答えは、安易に出せない部分があることを改めて気づかされます。その真の意味は、神だけがご存知なのだと言えるでしょう。

 その中で大切なことは、安易に人間的な答えで自分や人を説得しようとしない方がいいということです。ただただ、神様にまっすぐに助けを祈り求めましょう。
 隣人の苦しみに対しても、「何かを言わなければ」とは考えず、まずはともに寄り添う愛を示しましょう。

 もちろん、真実を語る必要もあります。しかし、それもまた祈りのうちに、主から示されたことを丁寧にお伝えしていく必要があるのです。人には計り知れないものが、この世界には確かにあるのですから。



引用元聖書
<聖書 新改訳2017
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