東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 民数記32章「神の家族として生きる」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2023/02/06

民数記32章「神の家族として生きる」

*** 2/5(日)主日礼拝 説教概略 ***

民数記32「神の家族として生きる」

 聖書は、個人主義的な信仰ではなく、神の民、神の家族としてともに歩むことを大切にしています。「ひとりぼっちのクリスチャン」という考え方は聖書のどこにもありません。実際、神様は、信仰というものを共同体として、交わりの中で保つことを教えておられますなぜなら、神様ご自身が、そもそも「三位一体」という交わりの神様でおられるからです。神様ご自身こそが、「父、御子、御霊の親しい交わり」を常に持って、協力してお働きをされているからです

そのような神様を信じるのですから、すべてのクリスチャンは「神の家族」として「ともに歩むこと」に召されていると言えます。そしてそこに教会の魅力がありますよね。礼拝においても、「礼拝奉仕者」と「観客」という関係ではありません。すべての人が参加者です。たとえ、具体的な奉仕をしていなくても、ともに心からの礼拝をささげているのならば、この礼拝奉仕者の一人でしょう。「神の家族として生きる」ということ、ご一緒に教えられて参りましょう。

 

1. 自分勝手な要望

イスラエルの12部族のうちの2部族、ルベン族とガド族は、非常に多くの家畜を所有していたと1節にあります。そして、彼らは、それを理由に、神様が与えると約束された地ではなく、その手前の土地、ヨルダン川の東側に定住したいと言い出したのです5節です。

5 また言った。「もし、私たちの願いがかないますなら、どうか、しもべどもがこの地を所有地として賜りますように。私たちにヨルダン川を渡らせないでください。」 

丁寧にお願いしているものの、自分たちは約束の地へは「行きたくない」と言うのです。ついでに、マナセ族の半分もこれに便乗しました。そして、結論を先に申しますと、彼らは望み通りの地を得ることになります。

ただし、これらの土地は、後の時代にアッシリアから最初に侵略され、消滅していった地域です。主が与えるという地を感謝して受けず、自分たちの目に良いと思える地に固執した結果でしょう。箴言169節にこうあります。「人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、主が人の歩みを確かにされる」と。

私たちの頑固さ、こういう部分に出てしまうことはないでしょうか。

「主が与えてくださるものは、いつも最高のもの」と歌う賛美がありますが、それは神様への信頼ですよね。

そして、モーセは、彼らのこの言い分が「自分勝手」なだけでなく、民全体に悪い影響を与えるものであるとし、彼らを叱りました。6-7節です。 

6 モーセはガド族とルベン族に答えた。「あなたがたの兄弟たちは戦いに行くのに、あなたがたはここにとどまるというのか。7 どうして、イスラエルの子らの意気をくじいて、主が与えてくださった地へ渡らせないようにするのか。 

これらの部族が離脱すれば、戦力だけでなく、士気も結束力も失われ、仲間たちが苦戦することは明らかでした。それでモーセは、7節で、あなたがたのその態度が、民全体の意気をくじいて、主が与えてくださっている地へ渡ることを妨げてしまうのだと言います。

「意気をくじいて」とのことばは、ほとんどの英訳聖書でdiscourage」と訳されています。「courage」が勇気で、その前に「dis」がつき、勇気を否定する、くじくということ。尚、日本語のスラングで「ディスる」という表現がありますが、それはこの「dis」から来ています。「dis」ではなく「en(強める)」を付ければ、「encourage」ということば。それは「勇気を強める、励ます」という意味になります。私たちは勇気ある信仰、神様に向かう意志を「disる」側ではなく、「encourage」する(励ます)側に立ちたいのです。

最初に礼拝の例を挙げましたが、まさに礼拝はそういう場です。司会者や説教者は、会衆の皆さんによって、強められもするし、弱められもします。 神学生が、皆さんが本当にみことばを求めて聞いておられたので、語りやすかったと分かち合って下さいました。共同体であるということは、自分の信仰の益だけを考えません。他の人の信仰をどう励ませるのか。それをともに考え、祈っていきたい。ですから、月1回の信徒の皆さんのお証しも、すばらしいencourage(励まして)」のチャンスだと思うのです。私も皆さんの証しで強められ、説教が「encourage」されています。

 

2.みことばに従い通す 

モーセは、ガド族、ルベン族らを叱るだけでなく、神のみこころに従う方向に励ます(encourage)選択をしています。そのためにまず、なぜ、自分たちが荒野で40年間も苦しむことになったのか、もう一度思い出させています。8-9節です。

8 あなたがたの父たちも、私がカデシュ・バルネアからその地を調べるために遣わしたとき、そのようにふるまった。9 彼らはエシュコルの谷まで上って行って、その地を見たとき、イスラエルの子らの意気をくじいて、主が与えてくださった地に入って行かないようにした。 

かつて、約束の地に入ることに反対した人々がいました。その影響で、民全体がこの地に向かうことを拒み、その結果40年もの長きに渡り、荒野を放浪することになりました。長く苛酷な日々でした。そして、残念ながらみこころを拒んだ人たちは約束の地に入ることができなかったのです。

ただ、その一方で、約束の地まで入ることを許された人らがいました。12 12 ただ、ケナズ人エフンネの子カレブと、ヌンの子ヨシュアは別である。彼らが主に従い通したからである。』 

モーセは、今こそ、カレブとヨシュアの信仰に立つべきだと励ましているのではないでしょうか。人間的な反対があろうと、主のみこころに立つ信仰です。主に従い通して安息を得よ!祝福を得よ!と神の家族を励ましているのです。実に、モーセは死が目前。彼はこの地には入れない。けれど、民には安息の地で、主の恵みと祝福を豊かに受けて欲しいと切に願っていた。家族を愛する思いですよね。

 

3.神の家族として生きる 

さらに、モーセは14-15節で、明確な警告を加え、彼らの愛のない自己中心的態度が改められるようにと期待しています。15節ではこうありますね。15 あなたがたが背いて主に従わないなら、主は再びこの民をこの荒野に見捨てられる。そしてあなたがたは、この民全体に滅びをもたらすことになるのだ。」 

あなたがたの不信仰な態度が、民全体を滅びに至らせてしまう。しかし、モーセのこの真剣なことばが、彼らに伝わったことは幸いでした。彼らも自分たちなりに考え、悔い改めた部分があったのでしょう。朗読してませんが、16-18節です。

16 彼らはモーセに近寄って言った。「私たちはここに、家畜のために羊の囲い場を作り、子どもたちのために町々を建てます。17 しかし私たちは、イスラエルの子らを彼らの場所に導き入れるまで、武装して先頭に立って急ぎ進みます。子どもたちは、この地の住民の前で城壁のある町々に住みます。 18 私たちは、イスラエルの子らがそれぞれその相続地を受け継ぐまで、自分の家に帰りません。  

相変わらず、ヨルダン川の手前、東側の地を得ることは譲りませんでした。しかし、それでも戦える者たちはヨルダン川を渡り、他の部族が相続地を得るまで帰らないと決断したのです。この決断は、モーセにも受け入れられるものとなりました。実際にヨシュア記を見ると、彼らがそれを実行したことが分かります。

私たちもこの姿勢を大切にしたいと思います。 ほっとカフェの折に、時々クラフトを作ります。その時に、早く作り終わった人が、まだの人を手伝って下さっている姿を何度か目撃しました。自分が終わったからもういい・・・ではなく、まだの人のところに行って一緒に作業する。そのような愛の協力が、私たちの交わりを豊かにするのではないでしょうか。

 

 神様は今朝も、私たちに親しく語りかけておられます。「「あなたがたの兄弟たちは戦いに行くのに、あなたがたはここにとどまるというのか。どうして、イスラエルの子らの意気をくじいて、主が与えてくださった地へ渡らせないようにするのか。」ついつい私たちは、自分の自由や権利ばかりを主張しがちです。しかし、家族はお互いを思いやる心が大切ですよね。

Ⅰコリント8:9 ただ、あなたがたのこの権利が、弱い人たちのつまずきとならないように気をつけなさい。 

Ⅰコリ10:23-24「すべてのことが許されている」と言いますが、すべてのことが益になるわけではありません。「すべてのことが許されている」と言いますが、すべてのことが人を育てるとはかぎりません。だれでも、自分の利益を求めず、ほかの人の利益を求めなさい。

 主は、ひとりぼっちでの歩みではなく、神の家族・共同体として歩むよう私たちを召しておられます。そのためにも、御子イエス様が十字架にいのちをささげられたのです。私たちのことばや行いが、神の家族を主のもとにお連れする「励まし」となるようにしたいですよね。他の人が神様と親密になることを応援する者とならせていただきましょう
 








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