東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ローマ12章14-16節「呪いではなく祝福を」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

最新情報

2025/01/24

ローマ12章14-16節「呪いではなく祝福を」

*** 1/22(水)祈祷会 説教概略 ***

 社会が悪い時、政治が悪い時、この世が平和でない時。実はそのような時の方が宣教自体は前進しやすいと言えます。使徒の働きを見ると、まさに多くの迫害があったゆえに、かえって神の愛と福音が本物であることが証しされ、教会が増えていったと分かります。


 そういう意味では、もし、私たちが信じていない方々との関係の中で、反対してきたり、あるいは迫害をしてこられたりした時は、かえってチャンスかも知れません。本物の愛を示せる機会なのですから。
 以前にも話しましたが、母方の伯父は姉である母の信仰を幾度となく攻撃していました。馬鹿にしたり、反対の声をあげたりしていました。でも、やはりその時の母の応答や信仰の姿勢をずっと見てきたのだと思います。それがあったから最後は救われていったのではないかと思います。私たちは苦しめられた時、呪いではなく、祝福を返す者として召されました。イエス様の弟子なのですから。


 この14節以降は、クリスチャン同士だけでなく、クリスチャンではない教会外の人々にも、少しずつ意識が向けられていきます。14節をご覧ください。

14あなたがたを迫害する者たちを祝福しなさい。祝福すべきであって、呪ってはいけません。 

 この教えの元にあるのはもちろん、主イエス様の教えですよね。イエス様は「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:44と教えてくださいました。それにしても普通に考えたら、不可能だと思えるような驚くべき教えなのですよね。「呪ってはいけない」というだけならまだ分かります。しかし、呪わないどころか「祝福しなさい」、あるいは「愛しなさい」と教えておられるのですから

 でも、だからこそ、この教えって、クリスチャンじゃない方たちでも案外知っている教えですよね。「キリスト教では敵をも愛せ」と言うのでしょと。つまり、それだけこの教えには力があるということです。そうであるならば、これこそは実に「キリスト信仰の強み」であることを覚えたいのです。

 そして9節で語られていた「偽りなき愛」、「アガペーの愛」は、愛しやすい人を愛する時ではなく、迫害してきたり、否定してきたりする相手を愛する本物の愛です。私たちクリスチャンがそこに立つ時、神の愛が宣教され、まさに祝福が私たちを通して、人々に広がっていくのです。

 なぜなら、この世の中においては、この愛をほとんど発見できないからです。この世的には、やられたらやり返していいのですから。ですから、神の愛が現わされる一番のチャンスは、迫害を受けた時、敵対された時なのですよね。敵対する者、迫害する者をクリスチャンが愛しているその姿は、ある意味では何よりも力ある証しになる!!最強の証しです。それを目の当たりにした人は感動し、圧倒されるのではないでしょうか。


 何年か前に礼拝説教で紹介したお話です。太平洋戦争の折、一人の米国人の若い女性が、ある日本兵を救いに導きました。彼女は敵国の日本人捕虜たちに本当に優しく接し、手厚く看護してくれたのでした。なぜ、彼女がそこまでしてくれたのか?? 実は彼女の両親は宣教師でした。そしてフィリピンで宣教していた時に、日本兵にスパイの疑いをかけられ殺されてしまったのです。そこまで聞くと、ますます、「なぜ?日本人を助ける?」と疑問は深まります。実は、彼女自身も最初は憎しみと怒りに囚われていたそうです。けれども、両親が殺される直前の話を聞いたのです。彼女の両親は殺される前に、日本兵に30分だけ聖書と祈りの時間をくださいと頼んだのでした。この時間にどのようなみことばが示され、どう祈ったのかはわかりません。けれど、娘さんは両親が、その間にみことばから愛を示され、日本兵の赦しと救いを祈ったに違いないと思うに至ったのです。「あなたの敵を愛しなさい。迫害する者のために祈りなさい。」主のみこころが示されたに違いないからです。それでこの娘さんも、両親と同じように主のみこころに立ちたいと願い、日本兵に優しく愛をもって接したのでした。このような出来事を知り、後にある特攻兵が主イエス様を信じたということでした。


 また、迫害と言う場合には基本的には「外からの迫害」であろうと思いますが、場合によっては教会内部、キリスト教社会内においてもしばしば起こることかも知れません。イエス様も自分の敵や迫害する者を愛するようにと教えられたのであり、信者・未信者という区別をしているわけではないですね。信者であっても、お互いに敵対し、批判し合ってしまうことは罪人である以上起こりえます。特に、当時のローマ教会はユダヤ人と異邦人が混在し、ユダヤ人たちが、異邦人を見下し、割礼等の細かな要求をし、そうした部分で迫害と感じる人もいた可能性があります。パウロはその間に入って苦労しながら仲介したのでしょう。


続く15-16節でもこう語られています。

15 喜んでいる者たちとともに喜び、泣いている者たちとともに泣きなさい。
16 互いに一つ心になり、思い上がることなく、むしろ身分の低い人たちと交わりなさい。自分を知恵のある者と考えてはいけません。 

 実に、この具体的な教えに従う時に、様々な価値観の違い、立場の違いを超え、対立点をも超えて、ともに歩める者とされていくのではないでしょうか。敵対する者であっても、迫害する者であっても、その人が本当に困っているのならば、私たちは手を差し伸べるべきです。それが愛だと。その人が困難から守られたり、病が癒されたりして喜んでいる時「残念!」ではなく、「良かったですね」と一緒に喜ぶべきでしょう。それは人間的には不可能。神業です。だからこそ、私たちが祈って祈って、御霊の助けを存分にいただいて、一歩ずつでもそのように歩んでいくなら、人々は神のみわざをそこに発見するのです。神の愛を発見するのです。できないと言い続けてしまう私たちです。ただ、それでは私たちが絶えずいただている十字架の愛を隠してしまうことになりますよね。

16節では、身分の低い人たちとも意識して交わりなさいとあります。今の日本では、あまり身分の違いというものを強く意識することは多くないでしょう。でも、学歴による差別意識、職業による差別意識、社会的弱者、ハンディを持つ人に対するそういった意識。やはり、無意識的に持っているのではないでしょうか。それゆえ、「思い上がることなく」そして「自分を知恵ある者と考えてはいけない」と語られているのです。

身分や立場の低い者、弱い者と歩もうとする時、自分の目線も低くしないといけません。小さな子どもたちと話す時、上からではなく、私たちがかがんで、同じ目線で話す必要があります。そうやって友となっていく時、彼らに私たちの愛が届き始めます。

 昨日のほっとカフェで、イエス様があえて「私に水を飲ませてください」と一人の女性にお願いした場面から教えられました。弟子に頼めるのに、井戸の横で座りこんで、彼女を待っていたのです。5度も離婚を経験し、周囲からも見下されていた孤独なサマリア人の女性。イエス様は自らを低くして同じ目線に立ち、「水を飲ませてください」と、わざわざ彼女に声をかけたのです。律法学者、パリサイ人なら、このような女性が差し出す水など決して飲まなかったでしょう。話しかけることもないし、話しかけられようものなら激怒したでしょう。でも、イエス様のこの姿勢から彼女が心を開き、救いに導かれ、この女性を通してこの町の人々が次々とイエス様を信じていったのです。自分は知恵者、あの人々は愚か者と見下すのは、愛とは言えません。呪いではなく祝福をもたらすため、私たちは召されました。ここに堅く立って歩みましょう。




引用元聖書
<聖書 新改訳2017
聖書 新改訳2017©2017 新日本聖書刊行会 

教会へのメールはこちらから

名前

メール *

メッセージ *