東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: Ⅱコリント3:17-18「御霊によって変えられる喜び」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2026/05/31

Ⅱコリント3:17-18「御霊によって変えられる喜び」

*** 5/31(日)主日礼拝 説教概略 ***

 先週は「ペンテコステ」の礼拝でした。洗礼式という恵みの機会でもありました。また、一昨日には姉妹の葬儀もありましたね。個人的にも多くの会合もありましたので、この短期間に、本当に色々なことがあったような気がします。

 その中で、少し落ち着き安らぎたいと願います。皆さんも疲れ果ててしまわないように、「自分の頑張り」ではなく、聖霊から力を十分にいただきながら、恵みの中で歩んで参りたいと思います。


 特に本日は、私たちを自由にし、神様とのより親密な交わりの中に歩み、イエス様に似る者に変えられていく喜びを教えられましょう。御霊にあって変えられる喜びで慰められていきたいと思うのです。御霊は私たちを古い肉のままにはせず、新しく内側から造り変えてくれます。イキイキと輝くひとりひとりへと変えてくださるのです。その成長、その変化は、とても嬉しい恵みです。3つの点から教えられましょう。

1.御霊による自由 
2.ベールを取り除かれること 
3.主の似姿に変えられていくこと

 

1. 御霊による自由  
17節に、このようにあります。

17 主は御霊です。そして、主の御霊がおられるところには自由があります。 

 まず、「主は御霊です」とは、「主キリストは御霊です」という意味です。この「主」とは文脈的にキリストを指すからです。ですから、内容を分かりやすく言うならば、キリストは今や、御霊によって私たちのうちにおられるということ。そして、主キリストの御霊が、私たちに自由を与えるということです。では、この自由とはどのような自由なのでしょうか。聖書全体で、自由という語を調べるならば、それは罪や悪魔の奴隷からの解放だと分かります。肉の思いで生きているうちは、私たちは自分がしたいと願う善が出来ません。愛したいのに愛せない。赦したいのに赦せない。それは不自由ですよね。好き勝手をしたつもりなのに、「後悔する」のです。好き勝手=本当の自由ではないからです。

それこそが罪の奴隷、悪魔の奴隷ということです。しかし、「キリストの御霊」は、自由を与えます。罪の檻から私たちを解放し、悪魔の支配から神の支配へと救うのです。そこに真の自由があります。それは具体的には、愛したい方を愛することができる自由。赦したい方を赦せる自由です。それは、神のみこころを喜んで行える自由だと言えます。本当に大事にしたいことを大事にできる自由でしょう。この自由と解放の中で、平安をいただこうではありませんか。

 

2.ベールを取り除かれること  

 第二のポイントは、顔の前にある覆い=ベールを取り除いていただき、主の栄光を映す者へと変えられるという点です。18節にこのように語られています。 

18 私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。 

 この顔の前にある「覆い」とは何でしょうか。少し前の15節を見ていただくとこうあります。「モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心に覆いが掛かっています」とあります。この比喩の意図は、キリストの御霊なしには、まるでベールが目の前にかけられて、霊的に盲目になっているかのようです。聖書の真理が見えない。神の栄光が見えない。霊的盲目のことです。ですから、14節に「それはキリストによって取り除かれるものだからです」とある通り、キリストの十字架とキリストの御霊によって取り除いていただくものなのです。

こうして、顔の前にあったベールが取り除かれることで、神様との親しい自由な交わりが持たれるようになるのです。しっかりとキリストが見えるようにされました。弟子たちも、聖霊が与えられる前は、イエス様を見ているようでいて、実は本当のイエス様が見えていませんでした。イエス様のことばの意味も、そこにある真理も隠れていたのです。

しかし、先週語られたように、ペンテコステの日に聖霊を受けて以来、キリストの心がわかり、聖書がわかるようにされました。それは本当に大きな感動だったはずです!!こうして、素顔で神様との交わりが始まったのです。顔と顔とを合わせて語り合う真実な交わりです。すると、主の栄光を直接受けるようになります。その顔、その人柄が、主の栄光を反映させ輝くようになるのです。こうして、神の栄光を反映させる者とされることはなんと光栄で、嬉しいことでしょうか。月それ自体では光ませんが、太陽の光を受けて美しく輝くのと同じように、私たちも主の栄光の光をしっかり受け取ることで、美しく輝かせていただけるのです。

 

3.主の似姿に変えられていくこと

第三のポイントは、御霊の働きによって、主の似姿に変えられていくことです。18節にありますね。「栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです」と。

 私たち人間は、創世記において「神のかたち」に造られたのでした。しかし、罪を犯し、神から離れた結果、その似せられていた「神のかたち」を失ってしまったのです。「似た者夫婦」という表現があります。それは、いつも仲良く近くに歩むから似ていくと言えるのではないでしょうか。でも、会話もなく疎遠になるなら、どんどんズレが大きくなります。同様に、人は神から離れたゆえに「神のかたち」を大きく損なってきたのです。神様から離れるほどに、考え・価値観・愛、あらゆる面で主の姿から離れてしまったのです。

 しかし、主イエスを信じる者は、キリストの御霊によって、「神のかたち」を回復していくのだと教えられています。本来のあるべき「人の姿」、つまりキリストの似姿へと変えられるのです。これを神学的には「聖化」と言います。

そして、「変えられていきます」ということばは、「メタモルフォーオー」ということば。それは、何よりもまず内側からの霊的に変えられていくことを意味します。イエス様のように、愛と真実、喜びや平安、誠実さや自制心、穏やかさとやさしさ。そうしたあらゆる美しい良い性質が実っていくのです。それは受身形で書かれていることからも、「自力で変える」のではなく、聖霊によって、変えられていくのだと分かります! 

そして、内側が変えられていくということは、私たちの表情やことば、態度など、外側までも変えられていくことを意味します。実際、このメタモルフォーオーということばには、「内側の変化に合わせて外側が変容する」といった意味があります。内側の変化に合わせ、外側も変容する。外側までも変えられて行くのです。

昔、ある男性青年が恋愛相談を私にしてくれました。「自分は自信がない。魅力がない。容姿にも自信がない。だから自分は結婚できない」と。でも、私にはまったく別の確信があった。クリスチャンは成長するほどに、必ず魅力的になるという点。内側も外側もです。それで、彼に「男女ともに、クリスチャンはとてもカッコよく、また美しく、魅力的になれる」と励ましました。彼とはその後も色々と語り合い、彼もいい意味での自信を持てたようでした。そして彼はやがて結婚し、お子さんも与えられていきました。内側がしっかり変えられて行く時、当然ながら人格から出ることば、目つき、表現の仕方、たたずまいまで・・・どれも変えられていくのです。

自分では分からなくても、周囲の人が気づきます。先週洗礼を受けたお二人も、表情も雰囲気もここ1~2年で変わったなぁと私は感じています。さらに、もう少し説明すると、ここでは現在形が用いられています。それは「一回限り」のことではなく継続的、漸進的な変化です。しかも、御霊に導かれるほどに、神の栄光をますます豊かに反映する者とされていくのです。

 

4.まとめと応答

ご一緒に教えられて参りました。 

①主の御霊は、私たちを真理によって自由にします。罪を犯す道よりも、神のみこころの道に歩みたいと思わせてくれる。そして助けてくれます。

②また、顔の前にあった覆い、ベールを取り除かれ、キリストをまっすぐに見る者となります。神様と顔と顔とを合わせて語り合う者とされました。だから、その栄光で顔を照らされて歩めるのです。

③何より御霊は、私たちを造り変えてくれます。

 確かに私たちは、まだまだ未完成です。未熟でしょう。私自身も、イエス様があんなにも大きな犠牲を払って救って下さったのに、「私はなんでこんなに変われないのだろう」と思うことがあります。同じ過ちも繰り返し、情けなく思います。イエス様に申し訳ないと思うこともある。

天に召された上野姉も「自分はまたやってしまったぁ」と、何度も私にお話し下さいました。でも、一歩ずつ確かに変えられ実を結んでいるのです。葬儀では、お孫さんたちがそれぞれに思い出を話してくれました。どのお話もすごく良くて、姉妹をお孫さんたちがとても大事に思い、慕っているのだと感じ、慰められました。その中のお一人が、「私は10数年間、おばあちゃんと過ごして来て、夢が出来ました」と言われました。その夢とは何でしょうか?それは、「おばあちゃんのような、周りから愛される人になること」だったのです。

おばあちゃんのようになりたい。おばあちゃんのように、「愛される人になりたい」と。孫からそのように思われるとは、なんと幸いなことでしょう。身内だからこそ難しいものです。私は自分の子どもたちや、孫たちから、そう思われる自信はなく、むしろ「ああはなりたくない」と思われてないかと、戦々恐々です(笑)。でも、このキリストの御霊の臨在ゆえに、希望に満ちています。御霊が私たちのうちにおられる限り、私たちは変えられ続けるのです。その働きは決して止まりません。天の御国に行くまで続くのです。あきらめないで良い。嬉しいではありませんか。あなたはこれからも、ますます良くなれるのです。


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