東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: エレミヤ書11章1-17節「語り続ける神の熱心」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2026/06/07

エレミヤ書11章1-17節「語り続ける神の熱心」

*** 6/7(日)主日礼拝 説教概略 ***

 あきらめずに伝え続けるということは、容易なことではありません。少なくとも、相手に対して無関心であるならば、すぐにあきらめてしまうでしょうし、そもそも熱心に伝えることさえしないことでしょう。
 「愛している」と伝えることも容易ではありません。



 ある牧師家庭の娘さんがいました。その娘さんが既に40代の頃。そのお母様に言ったそうです。「私のこと、愛してる?生まれて来て良かった?」。お母様は、非常に驚いたと言います。なぜなら、自分たちが愛して来たことは、十分伝わっているはずだと思っていたからです。ただ、それでも、改めて娘さんに伝えたそうです。「もちろん、愛しているよ。あなたが生まれて来てくれて、こうして出会えて嬉しかったよ」と。その後、娘さんから長い手紙が届いたと言います。「自分が生まれて来て良かったのか、愛されているのか、とても不安だった」と。「でも、愛されていることが分かってほっとした」と。

 神様も、私たちのことを本当に愛しておられます。これ以上ないほどに愛しておられます。しかし、人の罪のゆえでしょうか。この愛を十分に受け取れていないことがあります。人に強い関心を持ち、語り続ける神の熱心は、その深い愛から来ているのです。この愛をみことばから教えられましょう。そして、愛から来る主の語りかけに、心を開きませんか。

 

.契約に立ち返って欲しいと願う神(1-5節) 

 神様は最初に、ご自身が与えた愛の契約を思い起こさせています。2節にあるように、その民に「契約」のことを語るよう命じているのです。それはかつて、出エジプト時に与えられた愛に満ちた「契約」でした。その契約は、約束の地カナンにおいて、イスラエルが祝福され幸せになるための契約でした。4節にこうあります。

4 これは、わたしがあなたがたの先祖をエジプトの地、鉄の炉から導き出したとき、「わたしの声に聞き従い、すべてわたしがあなたがたに命じるように、それを行え。そうすれば、あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる」と言って、彼らに命じたものだ。 

あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる」とは、神の愛を強く示すことばでしょう。「あなたは使用人になる、あなたはしもべになる」ではない。皆さんが、神様の役に立つから、便利だから求められているのではない。主はあなたと親友にように、親子のように、あるいは夫婦のようになりたいのです。まさに、愛の告白なのです。それほどに、神はご自分の民を愛しておられる。だから幸せにしたい。そのための契約でした。契約の内容はとても単純でした。神様の教えに聞き従うなら、神の民は恵みと祝福を受けるのです。約束の地で幸せに長く生きるのでした。しかし、反対に神に背き、離れて行くなら、3節にあるようにのろわれる。つまり恵みも祝福も失い滅びに向かうのです。

 例えば、私たちも愛する人には、幸せになって欲しいと願い助言をします。しかし、それに耳を貸さず、神から、正しい道から、離れたらどうでしょう。不幸がそこに待っているでしょう。この民も、約束の地にある危険、誘惑に関する、神様の愛の助言を無視しました。神から離れ、悪い者たちと付き合い、悪に手を染めたのです。結果、土地も祝福も失っていくのでした。

 それでも神様はあきらめず、この民に契約をもう一度思い起こさせようとしているのです。滅びに向かう悲惨な人生でいいのか?私が与えた幸せへの契約を思い起こせと。エレミヤは、これに対して5節最後で「アーメン」と応じました。「その通り信じます!主よ!」という意味です。私たちもエレミヤのようでありたいのです。主は決して上から命令しているのではありません。救い出した民との良い交わり、その幸いを願っておられるのです。どうでもいい相手なら、滅びようと無視するでしょう。嫌いならむしろ滅びを望むでしょう。しかし、主はこの民を愛し、語り、思い出させるのです

 

2.語り続ける神(6-10節) 

 その上で神様は、エレミヤに命じます。6-8節の『 』内のことばをそのまま伝えるように命じたのです。ユダにいる神の民に、エルサレムの通りで大勢に語るようにと。神様はかつて、エジプトから民を救い出した際に、この恵みの契約を与えました。十戒を中心とした教えでした。これらの教えに従うならば、その恵みは千代に及ぶというものでした。しかし、神を離れて偶像に仕えるなら、その罪への報いが三代・四代にまでということでした。千代と三代・四代では、圧倒的な違いがあります。神様は恵みたい祝福したいと強く願っておられるのです。

 しかし、悪いことをした者は報いを受けなければ、秩序や正義が失われます。ですから、神様は何度も警告もし、この契約に聞き従うように「聞け」ということばを繰り返しました。それでもなお、人の自己中心性は強く、神から離れ邪悪な神々に仕え、暴虐を貪りました。8節にこうある通りです。「しかし彼らは聞かず、耳を傾けず、それぞれ頑なで悪い心のままに歩んだ」と。また、9節では「ユダヤ人、エルサレムの住民の間に、謀反がある」と表現されてもいます。神様に対する反逆、反乱です。

 神様は何度も、「聞きなさい」と訴えて来られました。それでも聞き従わなかったのは、神様が悪いのでしょうか。もちろん、人間の問題ですよね。神様は一度や二度ではありませんでした。三度や四度でさえないでしょう。何度も繰り返し語られているのです。私たちも今日、今、この瞬間にも語られています。この礼拝全体を通して、賛美を通して、兄弟姉妹の交わりを通して、説教を通して・・・ 主は様々な角度から、様々な方法であなたに語りかけておられます。幸せになって欲しいからです。

 

3.愛ゆえの警告(11-17節) 

 11節からは、謀反に対する神様のさばきが宣告されていきます。11-12節。

11 それゆえ──主はこう言われる──見よ、わたしは彼らにわざわいを下す。彼らはそれから逃れることができない。彼らがわたしに叫んでも、わたしは聞かない。12 ユダの町々とエルサレムの住民は、自分たちが犠牲を供えている神々のもとに行って叫ぶだろうが、これらは、彼らのわざわいの時に、決して彼らを救わない。 

 11節最後に彼らがわたしに叫んでも、わたしは聞かない」とあります。人が神の声に聞かないゆえに、ついに神様も人の訴えに耳を閉ざされていくというのです。もちろん、神様は「そうしたい」のではありません。しかし、人があまりにも聞かないゆえに、あえてこの厳しさを示されるのです。

 以前、関東南地区の修養会で豊田先生をお招きしたことがありました。その際に、日本の教会は母性的な愛に偏っているという課題を指摘されました。寛容さやあわれみに偏り、甘えが生まれている。しかし、神様の愛を学ぶとき、父性的な愛、厳しさや譲らず貫く強さもそこにはあるのだと。悪や罪に対する神の厳粛な態度もまた、神の父性愛として受け取りたいのです。「憎いから」ではないのです。助けたいのです。良くなって欲しいのです。弱い私たちだからこそ、さばきや報いがあることで、悔い改めようと思えたり、気を付けようと思えたり、その厳しさが背中を教えてくれることがあるのです。

ここ最近、若い男女による暴行、犯罪によって、人が命を失う凄惨な事件がニュースを賑わせています。10代~20歳そこそこの子たちが、本当に酷い暴力、強盗、殺人を、しかも十分な反省もあるのだろうかと疑わしい報道です。妻とその話をしていた際に、若い世代への「厳しい教育」が少なくなり過ぎたのではないかと話し合っていました。例えば、私たちの世代は、目を背けたくなるような、生々しい戦争映画や本等も学ばされ、戦争は本当にひどく恐ろしいものだと学んだものです。また、親や教師も厳しかったのを覚えています。しかし今や、「叱らない子育て」がもてはやされ、子どもを強く叱り過ぎると、逮捕されることさえある時代です。でも、親が子どもに「ダメなものはダメだ」と厳しく徹底して教えないと、愚かさを切り離せないと聖書の箴言では語られています。

時代によって、厳しさと寛容さの間を、右に左にぶれるのが人間ですしかし、聖書は変わらない。神様は一貫して、深い愛とあわれみに満ち、一方で、罪や悪に対する明確な正義とさばきを持っておられる。このバランスの中にある愛と真実から、教えられ続ける必要があるのです。ですので、優しい、涙の預言者エレミヤにもこう言われたのです。

14 あなたは、この民のために祈ってはならない。彼らのために叫んだり、祈りをささげたりしてはならない。彼らがわざわいにあって、わたしを呼び求めても、わたしは聞かないからだ。 

主は耳を塞がれる。だから、「祈ってはならない」と。エレミヤにも、甘いふわふわした態度を取らず、神の側に立てと命じておられます。それによって甘やかしは取り除かれ、主を恐れることを学ぶのです。この厳しさもまた、愛から来る神の厳しさであることをぜひ心に覚えたいのです。

ご一緒に教えられて参りました。主は今朝、あなたを愛して語っておられます。主が言われるのは、私の契約のことばに「聞きなさい」ということでした。それなのに民は聞かなかったのです。それでも、なお、どこまでも主は語ることをやめませんでした。そこに神の驚くべき熱心があります。そこに、主のあきらめない愛があるのです。そして、その熱心な愛は十字架において鮮明に示されました。神は御子を遣わし、十字架からなお語り続けておられます。

だからこそ私たちは今日、「主よ、お語りください。しもべは聞いております」という心でみことばに耳を傾けたいのです。

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