*** 7/19(日)主日礼拝 説教概略 ***
私は18歳でイエス様を信じた後、「クリスチャンは真面目でなければならないのでは」「冗談も言ってはいけないのでは」という思い込みに縛られて苦しんだのを覚えています。聖書のどこにも書いていないのに、「クリスチャンは、楽しんではいけない」かのような、そんな思いに縛られていた時期があります。しかし、ある時、熱心なクリスチャンの宣教師がこう祈られたのです。「神様、あなたは必要な物を下さるだけでなく、私たちを楽しませてくださるので、感謝します」と。「え?今、なんて言った?神様が楽しませてくれる?そうなの?」と驚いたのです。目からウロコでした。
そして、実際に聖書をよく学ぶと、そう書いてある。主は私たちに『楽しみを与えてくださる神』だと分かったのです。神様とともに歩む生涯は「嬉しい、楽しい、喜ばしいもの」なのです。実際どうでしょうか。クリスチャンが兄弟姉妹との交わりや趣味、様々な出来事を心から楽しみ、神様に感謝して生きる姿は、とっても証しになるのではないでしょうか。
実は、楽しむことは、信仰生活のオプションではなく、神への私たちの応答でさえあるのではないでしょうか。神様がこれほど豊かな世界を造られた。なのにクリスチャンが義務感で縛られ、窮屈で退屈な日々を暗い顔で送る。そうだとしたら、それは創造主のみこころに十分応えているとは言えないでしょう。ですから、「主にあって楽しむ」とことは、単に気分を明るくすることではありません。
創造主の豊かな恵みを受け取り、賛美と感謝をもって生きること
なのではないでしょうか。
本日は、神様とともに楽しんで生きることを教えられて参りましょう。
1.偽物の楽しみに惑わされるな(17節前半)
まず、最初に教えられることは、偽りの楽しみにごまかされないようにという事です。17節をご覧ください。そこでは、「富に望みを置いてはならない」と語られているのです。「富に望みを置く」とは、どういうことでしょう。お金さえあれば、上手くいく!幸せになれる!という生き方でしょう。
しかし、それはむなしさへの道です。確かにお金や様々な物は、生きる上で必要です。でも、お金や物があったら、心が満たされ幸せになれるわけではありません。場合によっては、お金や物質に心が奪われるあまり、そのことで争ったり、人を傷つけたりしてしまうさえあるのです。実はそれは、お金や物、すべてを造られた神を知らないゆえに起こることではないでしょうか。
皆さん、電子レンジをお使いになるでしょうか。便利ですよね。しかし、時間を長くし過ぎたり、ラップをしなかったりして、食べ物が破裂して大変なことになった経験はないでしょうか。あるいは金属が一部入った容器を入れてしまい、発火してしまったというケースもあります。このように、たとえ便利で良い物でも、使い方を知らずに用いると、かえって悲惨な目に遭いますね。同じように、神様が造られたあらゆる物、お金も、ことばも、自由も、家庭も、本来は良いものです。しかし、造り主の示される用い方を無視すると、祝福になるはずのものが、自分や周りを傷つけるものになってしまうのです。
例えば、「刃物」は良いものでしょうか。それとも悪いものでしょうか。人を傷つけるために使えば悪いもの、凶器になってしまうでしょう。でも、神様に従って「愛の動機」で用いるならどうでしょう。美しい包丁さばきで美しく美味しい料理を振舞い、一緒に楽しむなら、なんと幸せな時間になることでしょう!人を笑顔にできますよね。同じ刃物です。でも、罪中心に用いるのか、神中心に用いるのかでまるで別物になるのです。
ですから、この世界の楽しみ方を設計者である神様から教えられることで、本当に心満たされる日々が送れるのです。それによれば富それ自体が望みなのではないと教えられるのです。富や高価な物自体が私たちを幸せにするのではないことを覚えませんか。
2.楽しみを与える神(17節後半)
今私たちは、17節前半で「富自体に望みを置くな」と教えられました。しかし、一方で別の間違いがあり得るのです。しばしば富を初めとして、この世界に与えられたものを楽しんではならないという極端に走るということもあり得るのではないでしょうか。実際、聖書の教えを極端に理解して、「あれもダメ」「これもダメ」と考えたり、「~しなければならない」という「ねばならない信仰」になったりするケースもありますよね。そのような極端が、しばしば人を不自由にしてしまいます。
先週の合同婦人会のお話の中でも、昔の教会では、「女性は長い髪で、スカートをはくべきだ」とか、「日曜に映画館には行ってはならない」とか、そういう風潮があったという話が出ました。その感覚だと、日曜にW杯をガッツリ楽しむ牧師はアウトでしょうね(笑)。
しかし、聖書はなんと教えるでしょうか。17節後半にこうあります。「むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神」に望みを置くのだと言うのです。すべての物を豊かに与えて「楽しませてくださる神」と語られています。
まずここでは、すべての物を与えてくださる神様だと分かります。神様は人間以外のあらゆる物を造り、その上で「さあ、いよいよ人を造ろう」と、最後に喜んで人を造られました。つまり、この世界にある物はみな、私たち人間のために整えられたと言えます。神様は、これらを正しく管理し、豊かに用いよと言われました。しかも、すべてを豊かに与えて楽しませてくださる神なのです。
神様のデザインはなんと豊かでしょう。ユーモアに富み、美しく、あるいは不思議で、驚きに満ちていることでしょう。例えば、神様は花を一種類だけ造られたのではありません。バラ一つとっても300種と言われます。さらに、バラを品種改良できる余地をも神様は与えて下さった。結果、現在では3万種類以上も存在するそうです。バラだけでです。なんと豊かなのでしょうか。海の生物の神秘も美しく楽しいですね。奇抜なデザインの魚、不思議な動きをするタツノオトシゴ。スケルトンボディのクラゲやクリオネ。なんというデザインでしょうか。
神様は、この世界にあるすべてのものを人が見て、飼育して、交配し、あるいは食べて楽しむようにと下さいました。趣味もスポーツもグルメも「するな」ではなく、神様の恵みの中で楽しみなさいということです。
「異邦人」という曲が140万枚を超える大ヒットとなった久保田早紀(現:久米小百合さん)。今でも昔のTV映像を時々見かけます。彼女は芸能界に歩む中で、音楽を心から楽しめなくなっていたと言います。人と比較される競争の日々。期待に応えなければというプレッシャー。売れなくなるかもという不安。自分しか信じるものがない怖さ。しかし、その時に「主われを愛す」という讃美歌を思い出し、教会に通い始めたのです。そこで、自分しか頼るものがなかった苦しみを後にして、イエス様という救い主によって、揺るぎない平安をいただいたのです。そして、変えられました。神様が下さった音楽を楽しみ、賛美の歌を全国の学校や教会等に届ける喜びに歩むようにされました。
どんな才能、賜物も、自分の欲のために用いたり、この世の奴隷にされるとき、本当の輝きも楽しさを失ってしまいます。しかし、神のみこころに従い、人の幸いのために生かせば、それは本当に豊かな輝きを放ちます。周囲の人も自分も楽しめて、笑顔になれるのではないでしょうか。このように、遊びも食べ物も趣味もスポーツも仕事も、神様のみこころの中で、愛の動機でめっちゃ楽しみなさいと主は言われるのです。すべての楽しみは、造り主である神様から来るからです。
詩篇16:11 あなたは私にいのちの道を知らせてくださいます。満ち足りた喜びがあなたの御前にあり楽しみがあなたの右にとこしえにあります。
神様が楽しませてくださるのです。苦しい時、楽しめない時、しんどい時、神様のもとに来ませんか。世界は神によって造られた。だから神を離れては本当の意味で楽しめないのです。神様のもとに消えない喜び、真の楽しさがあるからです。
3.神にあって楽しんで生きる人は与える人になる(応答)
神様が造られたこの世界のあらゆる物を、良い方法で感動しながら楽しむならば、私たちはどうなるでしょうか。楽しめていたら、感動していたら、伝えずにはいられなくなるのです。沢山もらったら、おすそ分けしたくなるのです。嬉しいことがあれば「ねぇねぇ聞いてよ」と伝えたくなります。18節にこうあります。
18 善を行い、立派な行いに富み、惜しみなく施し、喜んで分け与え、
お金によって富むのではありません。神様と楽しむと、行いや生き方が豊かにされ、心から富むようになっていくのです。そして、あふれるので惜しみなく施し、喜んで分け与えるようになります。結局、伝道や宣教というものは、義務感でノルマのようにするものではない。確かに人に救われて欲しい、そのまま滅んではいけないと思うから使命感や責任もあるでしょう。それでも、嫌々伝えることが神様のみこころではありません。私たち自身が、救いを喜び、神とともにあることを楽しみ、信仰生活を有意義に過ごし、良いものだと感じるから伝わるのです。
教会は楽しい場でありたいといつも願います。信仰生活を楽しむことはとても大切だと思います。なぜなら、神の前に喜びが、神の右に楽しみがあるからです。すべてを与えて楽しませてくださる神様とともに歩むからです。世界のあらゆる物から、神様のみわざに感動できます。色とりどりの花を観察し、皆さんが体験している神の奇跡を聞き、季節の移り変わりを楽しみ、人の成長や変化を見守る。それらは、なんと楽しさに満ちていることでしょうか。
主は私たちに語っておられます。「わたしはこの世界にあるすべてをあなたのために造り、それらをあなたが豊かに楽しめるように備えたのだ。わたしとともに、味わい楽しみ、その恵みによってイキイキと喜びに満ちて欲しいと。」しかし、どうでしょうか。私たちは、忙しさや義務感、責任感でいっぱいになり、神様のもとで「ゆったりと楽しむ」こと、「感動と驚きに胸を高鳴らせる」ことを忘れていないでしょうか。楽しむことは、信仰生活のオプションではありません。良いもので満たされる主への積極的な応答ではないでしょうか。そうする時、伝えなければから、伝えたい、伝えずにはいられないに変えられていくと信じています。