東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 詩篇5篇1-12節「望みを抱いて主に身を避けよう」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2026/05/29

詩篇5篇1-12節「望みを抱いて主に身を避けよう」

 *** 5/27(水)祈祷会 説教概略 ***

 私たちは苦しい時、「誰かに分かってほしい」と願います。しかし現実には、理解されないことも少なくありません。誤解され、傷つけられ、ことばにならない思いを抱えることもあります。


 この詩篇5篇の作者も、そのような中にいました。偽りや欺きに囲まれ、敵対する者たちに苦しめられていたのです。しかし彼は、その苦しみの中で、人ではなく主に向かいました。「私のうめきを聞き取ってください」「私の叫ぶ声を耳に留めてください」と。

 そして主は、誰よりも分かって下さいます。そして、助け、慰め、喜びまでも下さるのです。苦しみの中で主を仰ぎ見る信仰を、ご一緒に教えられましょう。

 

1.主を仰ぎ見る信仰 

 1-3節は、神様に「聞いてください」と切に求めて祈っています。1-2節前半まで。

1 私のことばに耳を傾けてください。主よ。 私のうめきを聞き取ってください。2 私の叫ぶ声を耳に留めてください。 

 特に「うめき」と、「叫ぶ声」というのは、困難や厳しさから神様への深い訴えを示すものです。この詩篇が歌われた背景はハッキリとはしません。しかし、偽りや欺きに満ちた敵との関係の中で、神に助けを必死に求める祈りであったのでしょう。私たちも様々な試練や困難の中で、うめき、また叫ぶ者です。それが誰の耳にも届かないとしたら、希望はないでしょう。私たちの叫びは、主の耳に届いているのです。うまく言語化できないような「うめき」や「嘆き」さえ、主は読み取ってくださるのです。

 ある先生が、本当に苦しい時に、明確なことばにして祈ることができなかったと言います。「うーん・・・」といううめきしか出なかった。しかし、そのうめきさえも主は聞いていてくださるのです。ことばにできないような心の叫びさえ、主は読み取ってくださるのです。なんという慰めでしょう。

 だからこそ、私たちは主に望みをかけ、この方を仰ぎ見たいのです。3節に「朝明けに私はあなたの御前に備えをし 仰ぎ望みます」とあります。それは、神様に対する期待と信頼の証しです。神様に叫び訴えるならば、主は速やかに助けてくださるからです。主を待ち望む者は新しく力を受けて、鷲のように空高く舞うことができるとイザヤ書にあります。このような神に、繰り返し「聞いてください」と熱心に求める姿勢は、私たちも見習い大事にしたいものです。福音書の中に、不正な悪い裁判官でさえ、しつこく訴えて来る者がいれば、うるさくて仕方ないので対応せざるを得ないという話があります。まして、愛の神様は、そのような必死の祈りに、ますます聞いてくださるのです

 詩篇作者はこの1-3節において、「聞いてください」と神様に諦めずに求めていると分かります。しかも、望みを抱いて主を信頼して祈り求めているのです。私たちもまた、あきらめず、信仰をもって主に求め続けたいのです。

 

2.悪を喜ばない聖なる方  

 4-6節では、神様が悪を憎まれることが記されています。4節にこうあります。

4あなたは悪を喜ぶ神ではなく わざわいは あなたとともに住まないからです。 

 悪やわざわいは、神様のうちには一切ありません。それどころか、誇り高ぶる悪しき者たちは、御前に立つことさえできません。不法を行う者を神様は憎まれるのです。6節ではさらに強い調子になり、偽りを言う者は滅ぼされ、人の血を流す者、欺く者を、神様は忌み嫌われると分かります。「憎む」「滅ぼす」「忌み嫌う」というとても強い表現が連続で用いられています。神様がいかに聖なる正しいお方であり、悪を赦されない方であるかが分かりますね

 現代は、「何をしても自由」、「正しさは人それぞれだ」という空気があるかも知れません。神を恐れないゆえではないでしょうか。バレなければいいという思いもあるでしょう。しかし聖書の神は、悪を悪として見過ごされません。この正義の神がおられるからこそ、この暗闇の世界においても、なお希望があるのです。


3.神を求める者は主によって勝利する  

 こうした敵対する悪しき者がいる中で、この詩篇の作者は主のもとに絶えず向かうのだと告白します。

7しかし私は あなたの豊かな恵みによって あなたの家に行き あなたを恐れつつ あなたの聖なる宮に向かってひれ伏します。

 神の家が避難所になっているのです。どんな時でも、私たちには逃れる場があるのです。5節では、悪しき者の特徴として「誇り高ぶる者」とありました。しかし、この7節では、詩篇記者の「謙遜さ」が見えます。「あなたを恐れつつ」、また「あなたの聖なる宮に向かってひれ伏します」とあるのです。神を恐れず悪に向かうのか。神の偉大さの御前に恐れつつ、ひれ伏すのか。私たちは問われます。 こうして、主を求める者に主は答え、敵対する者から守ってくださるのです。8-9節にこうありますよね。 

8 主よ 私を待ち伏せている者がいますから あなたの義によって私を導いてください。私の前に あなたの道をまっすぐにしてください。
彼らの口には真実がなく 心にあるのは破壊です。 彼らの喉は 開いた墓。 彼らはその舌でへつらうのです。 

「あなたの義によって」とは、人を救ってくださる神の真実、神の誠実さです。それは、偽りや欺きに満ちた敵対者とは真反対の性質です。敵対者には偽りがあります。しかし主には真実があります。人は欺いても、主は真実なお方です。だからこそ、主を求める者は道を失わないのです。

 

4.主に身を避ける者  

 主に身を避ける者が守られることを教えています。自分で復讐するのではなく、主に求めるのです。10節にこうあります。

10神よ 彼らに責めを負わせてください。 彼らが自分のはかりごとで倒れますように。その多くの背きのゆえに 彼らを追い散らしてください。あなたに逆らっているからです。 

  内容的には強い感情が見て取れます。ただ、それでも、自分で復讐しないのです。神様に求めているのです。その時、公平で完全に正しい主が、相応しくさばいてくださるからです。どうしても人間が報復する時、感情が多く入ります。過ぎた報いを与えてしまうのです。結果、報復合戦が起こります。しかし、さばきも復讐も神様がなさることだと聖書は教えます。この方のもとに持っていこうではありませんか。そして、私たちは復讐や報復に心を奪われず、主とともに生きることにこそ、心を向けたいのです。

 昔、ある働きの中で、苦情を受けたことがあります。ただ、それは私たちの落ち度や問題とは必ずしも言えないものでした。しかし、そうした苦情に反論したり、振り回されることにエネルギーを奪われず、目の前の人々の救いと成長のために集中するよう、皆で一致しました。そこで弁明をせず、ただ主にゆだねました。それからだいぶ時間が経ち、その苦情を言って来られた方から謝罪を受けました。その方の信仰と誠実さは素晴らしいと思いますが、何よりも主がこうして最善をなさり、ご自身の真実を現わしてくださったのです。


11 どうかあなたに身を避ける者がみな喜び とこしえまでも喜び歌いますように。あなたが彼らをかばってくださり 御名を愛する者たちが あなたを誇りますように。
12 主よ まことにあなたは正しい者を祝福し 大盾のように いつくしみでおおってくださいます。 

 主に身を避ける者について、主は「かばってくださる」とあります。12節では「大盾のように いつくしみでおおってくださる」ともあります。「大盾」というのは、体全体を覆うほどの大きな盾。地面につけてガッチリ守るタイプの盾かも知れません。身をすべて隠せるのです。そのように私たちのすべてを覆って、守ってくださる神様です。しかも、いつくしみで覆ってくださるとあります。つまり、守りだけでなく慰めもそこにあるということです。それゆえ、11節では「喜び」、また「とこしえまで喜び歌いますように」と語るのです。「あなたを誇りますように」と語るのです。この方のもとに身を避ける時、守りや助けがあるだけではない。そこには正義があり、慰めがあり、大いなる喜びもあるのです。ですから、「あなたこそ私の主、あなたの他に幸いはありません」と告白し続けましょう。

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