*** 7/1(水)祈祷会 説教概略 ***
「私は何者なのか」、そして「私を造り、救ってくださった神とはどういうお方なのか」。これは人生のテーマではないでしょうか。そして、イエス様によって救われたあなたは、自分を何者だと表現するでしょうか。
ダビデはごく普通の羊飼い、その家で末っ子でしたが、神様に顧みていただきました。それは彼の手柄や能力によるものではありません。ただ神のあわれみでした。神の力が彼の弱さの中に豊かに現れるため、むしろ小さな弱い彼を選ばれたのです。私たちは何者でしょうか。みことばから、教えられましょう。
1節 主(ヤハウェ)よ 私たちの主よ あなたの御名は全地にわたり なんと力に満ちていることでしょう。あなたのご威光は天でたたえられています。
ダビデはまず『主よ、私たちの主よ』と呼びかけますが、最初の「主よ」は太字で「ヤハウェ」という神の御名です。それはモーセに「わたしはある」という者、存在そのものだとご自分を紹介なさった名前です。「私たちの主よ」とは、奴隷たちが自分のご主人様を呼ぶ際の言い方です。さらに「あなたの御名は全地にわたり」とあり、3節では、月や星を造られた創造主として描かれています。つまりダビデは、宇宙を造られた偉大な神様が、『私たちのご主人様』でいらっしゃるとは、なんとスゴイことか!と驚きつつ賛美しているのです。
私たちはこのお方に造られて初めて、今ここに存在する者です。神様なしには存在すらできない者です。まず、私たちの存在の理解はココがスタートです。そう考えるといかに光栄なことでしょうか。宇宙を造られた偉大な神様が、私たちのような小さな者に心を留めてくださるのです。このような小さい者を選んでくださったことは2節でもよく分かります。
2節 幼子たち 乳飲み子たちの口を通して あなたは御力を打ち立てられました。あなたに敵対する者に応えるため 復讐する敵を鎮めるために。
大人の口ではなく「幼子たち」「乳飲み子たち」にとあります。それは、神の力は弱い者のうちに働くからです。小さな者、弱い者が、神様によって強められ用いられる。その時こそ、神の力は現わされます。小さな赤ちゃんのように無力だと思える時こそ、実は神様が最も働いて下さる大チャンスなのです。あなたの弱さは、神の目には、とても強い輝く部分です。ですので、その弱さを卑下するのではなく、弱いからこそ主が働かれる!と喜ぼうではありませんか。神様は、このような取るに足りない小さな者によって、敵対する強い者たちを黙らせるのです。
ダビデは自分の小ささと、神の偉大さを感じながら歩んだ人でした。3-4節です。
3節 あなたの指のわざである あなたの天 あなたが整えられた月や星を見るに 4節 人とは何ものなのでしょう。あなたが心に留められるとは。人の子とはいったい何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは。
ダビデは夜空を眺めて思いを巡らしたのかも知れません。その美しい天体、あまりにも広大な宇宙。それをなんと神様は「指のわざ」で造られたと表現しています。「指先一つで」と言えば、いとも簡単にというニュアンスになりますよね。圧倒的なほど大きく広い宇宙を意のままに整えてしまう力ある主です。その神様を思う時に、「人」とは一体何ものなのかとダビデは自問したのです。実は、ここにある「人」ということばは「エノーシュ」という語です。そこには「死すべき人」という意味があります。永遠に朽ちない神様に対して、あっという間に生涯を終える「人」の弱さが対比されています。こんなに小さく弱い人間に、この聖なる永遠の神様が心を留め、顧みて下さるのです。その深い感動の中でダビデは主を賛美します。
ダビデは一介の羊飼いに過ぎませんでした。傑出した一族、血族だったわけでもありません。しかも、エッサイさんの家の末っ子。「まさか、この子ではないだろう」と家族も本人も思っていた。そんな自分がイスラエルの王に選ばれたのです。それはまさに、無名の取るに足りない者を、ただ神様が愛のゆえに選んでくださったということ。無条件です。
改めて教えられます。私たちは何か立派なことをしたから、顧みられるのではありません。成果を上げたから、主が心に留めて下さるのではない。何もないような無名な私たちなのに、主は愛を込めて造られたゆえに、あなたが可愛くて大切で仕方がないのです。主は、幼子や乳飲み子の口に賛美を授けるお方です。無力な小さな者だからこそ、あなたを選ばれた。むしろ、偉大でなくて良かったですね!ということ。ですから、この弱さを喜ぼうではありませんか。素直に「ありがとう」と受け取ろうではありませんか。
5節 あなたは人を御使いより わずかに欠けがあるものとし これに栄光と誉れの冠をかぶらせてくださいました。
神様は人間を、神に近い存在として造られました。創世記1章では、神に似せて、神のかたちに造られたと語られていますよね。それは、人間にかなり高い価値を置いて造られたということです。光栄です。そしてここでダビデは「これに栄光と誉れの冠をかぶらせてくださいました」と告白します。ダビデは、自身の弱さや小ささ、罪深さを考えたら、とっくに見捨てられても仕方なかったのに、神が自分に国を治める栄光を与えられたと言うのです。そして、キリストによって救われた私たちにとって、これは将来与えられる確かな約束でもあると言えるでしょう。
それは6-8節も同様です。神様はご自身が造られたこの世界を人に治めさせて下さった。そして、これは終わりの時の、新天新地の預言でもあります。私たちは主イエス様と一緒に、この世界を完全に治めるようになります。確かに今はまだ、完全ではありません。でも、主イエス様の支配権、その力ある権威を既に前味として見ています。これはヘブル書2章で説き明かされています。そこではイエス様を見ていれば、私たちの将来の保証があることが分かるという内容が語られています。
私たちは、今の時の様々な痛みや苦しみを通っています。でも、一人ではなく、イエス様とともに通っています。主イエスと私たちはもはや一つとされているのです。そうであれば、終わりの時にイエス様がお受けになる栄光と誉れの冠は、私たちの頭上にも与えられるものです。こんなにも小さな者、罪ある弱き者。そんな私たちに神様はいつも良いものをくださり、最後まで良いもので満たしてくださるのです。
9節は再び、神の御名をほめたたえて終わります。ダビデは、この神様の圧倒的な恩寵を味わい、神様を賛美せずにはいられないのです。それはまるで、神の御前で「幼子」のように、素直で柔らかな心で主を賛美する姿ではないでしょうか。あなたは傷つきやすい自分の弱さを悲観しているでしょうか。自分の無力さに愕然とすることがあるでしょうか。体の弱さ、心の弱さ、意志の弱さに落ち込むでしょうか。しかし、主のみこころは何でしょうか。あなたが弱く小さな者だからこそ、あなたを用いて主の力あるわざをなすことです。そうしてご自身の栄光を現わすことです。ですから、自らの弱さを誇り、このお方をますます賛美し、この方を喜ぼうではありませんか。