東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: へブル10章19-25節「歩もう、イエスが開いた道を」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2026/06/30

へブル10章19-25節「歩もう、イエスが開いた道を」

*** 6/28(日)主日礼拝 説教概略 ***

 先週は、皆さんのご協力のおかげで、ワールドカップ日本戦を、録画でしたが情報を入れずに新鮮な気持ちで観戦できました。途中結果を伝えたかった方も、忍耐深く沈黙を貫いてくださり、ありがとうございました(笑)。



 4年に1度のワールドカップは、選手からすると本当に限られた狭き門です。日本は特に体の大きさや強さといった身体能力ではなかなか厳しいものがあり、長年本大会への出場すらできませんでした。それが出場できるようになり、しかも、強国とも五分に戦えるようになってきた。これは本当に嬉しい。長年の夢であったと言えるでしょう(あくまでサッカーファンにとってかも知れませんが・・・)。

 聖書によれば、本来、人間も神様のもとには近づくことは簡単ではありませんでした。罪があったからです。人の努力では神様の前に立てなかったのです。しかし、今日のみことばは、閉ざされていたその道が、キリストによって開かれたと語ります。「新しい生ける道」によって神様に近づけるようにされたのです。W杯に出られるよりはるかに嬉しいことです。

 せっかく開かれた道です。喜んで神様のもとに飛び込み、その交わりによって強められ、希望をしっかり持って歩みましょう。

 

1.新しい生ける道が開かれた(19-20節) 

 この直前の17節にあるように、神様はキリストの十字架によって罪を完全に赦し、もう私たちの罪を二度と思い出さないと宣言されました。だから、もう旧約時代の動物の犠牲、様々な儀式が不要となったのでした。それで19節からこう始まっていきます。 

19 こういうわけで、兄弟たち。私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます。 

 聖所とは、神様のおられるところ。神様の懐のことです。また、「大胆に」とあります。旧約時代は慎重さが求められました。しかし、イエス様の犠牲のおかげで、堂々と神様のもとに入って行ける保証をもらったのです。今や安心して、それこそ大胆に神様のもとに行けるということです。

 そして20節にこうあります。 

20 イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのために、この新しい生ける道を開いてくださいました。 

 かつては、聖所の前の幕は「冷たい垂れ幕」でした。この幕は大祭司以外立ち入り禁止の厳しい幕でした。しかも年に一度だけです。罪深い人間が入って行くことで、聖なる神によって滅びないため閉じられていたのです。でも、イエス様が十字架で死なれた際、この幕はどうなったでしょう。上から下まで真っ二つに裂けました。代わりに、イエス様が新しい垂れ幕、父なる神様への橋渡しとなられたのです。

 そして、イエス様が開かれた新しいこの道はどのような道でしょうか。「生ける道」だとあります。この道は人を縛り、死んだ行いに歩ませる道ではありません。私たちがいのちを得て、それを豊かにイキイキと保てる道。生かされ輝く道です。

 皆さん、どこかでキリストにある信仰生活を、行儀正しくし神学を学び(勉強し)、正しい道から逸れないようにいつも気をつけ、何をされても怒らず笑顔で居続ける。そんな窮屈な苦行のようなものと思っていないでしょうか。

 クリスチャンの心理学者ポール・トゥルニエは、若い頃に属していた教会を振り返り、「冷たく、人格的でなく、満足を与えない宗教」と表現しました。正しさの議論ばかりで、神との生きた交わりが乏しかったのです。しかし、イエス様がいのちをかけて開いた道は「生ける道」なのです。教えを形ばかり守り、人の過ちをすぐに批判し、窮屈に型にはめる信仰生活ではありません。神とともに、イキイキとダイナミックに生きる喜びの道なのです。

 

2.この道によって神様に近づこう(21-23節)  

 では、イエス様によってこの道を開いていただいた私たちは、どのように歩んで行けばいいのでしょうか。21-22節にこうあります。 

21 また私たちには、神の家を治める、この偉大な祭司がおられるのですから、22 心に血が振りかけられて、邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われ、全き信仰をもって真心から神に近づこうではありませんか。 

 素晴らしい恵みが語られています。嬉しくなります。このみことばが語るのは、「信仰の生涯とは、神に近づくことなのだ」ということです。この道は、単に天国という場所に行く道ではありません。そうではなく、世界を造られた神様のもとに行く道なのだと分かります。「神の子ども」とされて、神様と親子のように生きる道です。

詩編162節にこうあります。「あなたこそ 私の主 私の幸いは あなたのほかにはありません」。神様ご自身が幸いの源なのだと聖書は語ります。

 あるお子さんが、大好きなディズニーランドに家族で行きました。ポップコーンBOXを首から下げ、おもちゃも手にしていました。けれども、この子はわんわん泣いていました。とても悲しいのです。なぜでしょう?迷子になり、家族から離れてしまったからです。どのような場所に行くかよりも、誰と一緒いるかが大切だと分かります。

 天国も綺麗で平和な良い所です。しかし、そこに神様も家族も友だちもおらず、あなた一人ぼっちならどうでしょう。少しも幸せではありませんよね。愛とあわれみに満ち、私たちに喜びをくださる神様とともにあるから幸いなのです

 そしてイエス様もいつも隣で支えてくださいます。21節にあるように、「偉大な祭司」として私たちを見捨てないのです。イエス様は、私たちのどうしようもない弱さ、罪深さをよく理解し、同情してくださいます。そのために絶えず祈り弁護してくださる大祭司なのです。この方がいるから、私たちは失敗を恐れてばかりの縮こまった信仰生活をしなくていい。また、22節に「心に血が振りかけられて、邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われ」とあります。私たちは心もからだも、全人格も、聖霊によってイエス様に似る者へと変えられるのです。それゆえ「全き信仰をもって真心から神に近づく」ことが可能となったのです。特に、真心とは、神に喜んで従う心のことです。人格全体で神様を信頼し、親しい親子のように、時には親友同士のように親しく語り合いともに生きるのです。

 かつては罪の解決ができなかったので、近づけば滅びるしかない者でした。罪深い者にとっては、神様は恐しい存在でもありました。しかし今や、そのままの姿で自由に近づき、「天のお父様」と親しく呼んで歩めるのです。

 そして、23節のことばにとても励まされます。「約束してくださった方は真実な方ですから」と、まず根拠があります。私たちなら、どんなに誠実な人でも偽りが入り得ます。しかし神は真実です。約束を決して破らず、必ず実行なさる方。だから、神があなたを見捨てず見放さないと言われたら、それは100%なのです。それで私たちは、どんな時にも動揺しなくいい。皆さんの中で、「万が一今日人生が終わったら、私は天国に行けないかも」と心配な方はいらっしゃるでしょうか。それは自分の思いや考えを根拠としているから心配なのです。しかし、神は真実、誠実です。信じる者がキリストから捨てられることは決してないのです。この約束ゆえに、揺さぶられなくていい。だから「希望を告白」し続けられるのです!

 

3.この道を愛の交わりによって歩む(24-25節)  

 この道について、もう一つ教えられる大切なこと。それは、この道は決して孤独な道ではないという点です。既にお話したように、この道は神様に近づく道、神様とどんどん親しくなる道。一緒に歩む道でした。しかし、それに加えて、この道は同じ信仰を持つクリスチャン全員と共通の道、信仰の仲間とずっと一緒に歩む道なのです。

24-25節です。

24 また、愛と善行を促すために、互いに注意を払おうではありませんか。
25 ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。その日が近づいていることが分かっているのですから、ますます励もうではありませんか。 

まず24節では、「互いに注意を払おう」とあります。それは、兄弟姉妹たちに関心を持って歩むということです。「あの人最近来ないけど元気かな」、「信仰が弱っていないだろうか」という関心です。教会は、弱いお互いを支え合う場所です。関心を向け合う場所です。

ここでも「愛や善行を促すために」という目的が語られています。さばき合うためではありません。比べ合うためでもありません。愛に一緒に生きて行こうと励ますためです。神様のみこころを一緒にしていこうという励ましです。

そのために、他の人々が集まるのをやめようとも、「私たちは集まりをやめず、むしろ励まし合いましょう」というのです。

コロナ下で、私たちの教会はかなり早い段階から集まりを再開し、対面を続けました。それはコロナの感染も怖いけれど、孤独が人を深刻なほど弱らせることを示されたからです。教会の世代を超え、国籍も超えたこの交わりこそ、世に誇ることのできる教会の賜物です。証しです。私たちの今年度の年間聖句は何だったでしょうか。「互いの重荷を負い合いなさい」です。これこそが、キリストの愛の律法、愛の教えなのです。口先だけではない。「祈っています」という言葉だけではない。何が出来るかを具体的に考える。どうしたらその人の重荷を軽くして差し上げられるかと。

イエスによって結ばれたこの交わりには、いてもいなくてもよい人など一人もいません。

若い人も、高齢の方も、日本人も外国の方も、強い人も弱い人も、ともに神に向かって歩む仲間です。主が結び合わせてくださったのです。この交わり主の召し、主の招きがあってあなたがここに置かれています。

 

 神様は今日も私たちに語っておられます。

「わたしと愛する御子イエスは、あなたのためにこの新しい生ける道を備えた。だから、わたしのもとに来なさい。疲れている者も、重荷を負っている者も、元気で力ある者も、この道を歩み、わたしのもとへ来なさい」と。

さばき合ったり、比較し合ったりではなく、互いに励まし合って、この同じいのちの道を、神様へのふところに向かって一緒に歩んでいきましょう。


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