1-8節では、ダビデが神様に正義による救いを求める内容となっています。1節では、「どうか 追い迫るすべての者から 私を救い 助け出してください」と祈ります。自分に迫って来るサウル王たちを恐れていたのです。2節では、「彼らが獅子のように 私のたましいを引き裂き 助け出す者もなく さらって行かないように」とあります。獅子(ライオン)は非常に獰猛な獣です。しかも、「たましいを引き裂き」と表現しています。ダビデには、サウルの軍団がとても強くて恐ろしい存在に思えていたのです。ダビデはこの恐れの中で、正しい審判者である神様に求めました。
3-5節では、ダビデは自分が間違っているなら、私をさばいてくださいと神様に訴えます。自分が不正をしていたり、親しい友人に酷い事をしていたりするなら、追手が自分に追いつき、いのちと栄光を踏みにじられても文句はないと言います。私たちは自分には「あわれみを」、そしてあの人には「さばきを」と求めます。でも、それ自体不公平な勝手な言い分ですね。ダビデは公平な神様のみこころにかなう祈りをしていたと言えます。そう言えたのは、ダビデが神様の前に良いことを求めて来たからでしょう。もちろんダビデも「完璧だ」とは思っていません。しかし、すべてをご存知の神様に、自分のことも含めて正しい審判をしてくださいと祈ったのです。それは神様への深い信頼があったからではないでしょうか。主は正しい良いお方であると信じていたからです。
しばしば、「赤ちゃんは死んだら天国に行けるのか?信仰告白をしていないのでは?」と尋ねられます。でも、私の答えはシンプルです。「神様は世界一正しい良いお方、世界一愛に満ちた方。その方がなさることを信じている。決して悪くはなさらない」と応じます。主が正しい審判者だと信じるとは、こういう事ではないでしょうか。神様のさばきは、不公平でも節穴でもなく、愛とあわれみと真実と正義に満ちているのです。だから、ゆだね切れるのです。ダビデも「私へのさばきも含めてゆだねます」と祈れるほど、主が信頼できるお方だと考えたのです。
さて6節でこうあります。
6節 主よ 御怒りをもって立ち上がり 私の敵の激しい怒りに対して ご自身を高くし 私のために目を覚ましてください。あなたはさばきを定められました。
私のために目を覚まして敵の怒りにさばきをつけて下さいと言うわけです。残念ながら、人間の裁判官では、サウルの権力に逆らって正義をなすことは難しかったでしょう。ですから、神様に正義を渇望する祈りです。8節冒頭でも「主は諸国の民にさばきを行われます」とあります。それは、神様がこの世界全体の最高の裁判官、世界の審判者であることを示します。サウル王のしていることは、神のみこころに反する明確な「悪」でした。しかし、誰も逆らえない状況です。過ちを諫めたり、諭したりできる人がいなかった。サウルもそれを聞く耳を持たなかったのです。それは本当に残念なことです。ですから、当時、弱い立場だったダビデは、逃亡しながら、ただ神様にゆだねるほかありませんでした。ダビデは8節の続きで、「私の義と 私にある誠実にしたがって 主よ 私をさばいてください」と言いました。神の正義、公正さに対する深い信頼です。
さらに10-11節をご覧ください。
10節 私の盾は神にあり 神は心の直ぐな人を救われます。
11節 神は正しい審判者 日々憤る神。
ここが、この詩篇7篇の中心となるみことばです。この不当な世界、不正がまかり通り、不公平に満ちた不条理な世界にあって、正義の審判者、まことの神がおられるということが私たちの希望なのです。不当な扱い、悔しい思いをすることが確かにあります。以前にも紹介しましたが、ユダヤ人の間で伝えられているこんな話があります。ある人がユダヤ人教師に言いました。「こんな悲惨なことが起きる世の中で、あなたはよく神を信じられますね」と。するとその教師はこう答えました。「これほどひどい世の中で、あなたは神を信じることなしに、よく正気を保てますね」と。正義が捻じ曲げられている不条理な世界だからこそ、正義の神様なしには生きていけない。
皆さんもそう思いませんか。この世の審判者ならば、サウル王には逆らえなかったでしょう。逆らえないゆえに、サウル王は調子に乗りました。神様のみこころに平気で反して、神が油注がれた次の王ダビデを、抹殺しようとしました。その一番の理由はダビデへの「嫉妬」でした。サウルはダビデのように皆から愛される人気者になりたかったのです。明らかに間違った動機、罪深い理由でした。それでもサウルの周囲の人々は、「それは間違っていますよ。みこころに反していますよ」と誰も言わなかった。言えなかった。それが悲劇でした。
しかし、11節にあるように「神は正しい審判者」なのです。この正義は、誰からの圧力も、利権によって歪められることもありません。ですから、礼拝でも触れましたが「復讐は神のもの」という確信に立ちましょう。嫌なものは嫌、違うものは違うと言うことは大切です。でも、「報復」するのではなく主の審判に任せる信仰を大事にしたいのです。しかし、主は確かに正しい審判者です。実際に、私たちも確かに目にしてきた事実があります。15節にあるように、人を貶めようとして穴を掘る者は、自分がその穴に落ちるのです。「墓穴を掘る」とはこのことでしょう。16節にもこうあります。その害悪は自分の頭上に戻り その暴虐は自分の脳天に下ります。 「罪は自滅をもたらす」ということです。
事実、神様はサウルの罪を正しくさばかれました。ダビデは一切手を出さなかったのですが、結局ペリシテ人との戦いの中で矢が当たり重傷を負って、最後は自害したのでした。そこにある真理は、「自分が蒔いた種について、神様が刈り取りをさせる」ということです。良い種を蒔けば良い実を刈り取る。しかし、罪の種を蒔けば、罪への報いを刈り取ることになる。それは、神様が正しい審判者として働いておられる証拠です。
やっぱり、私たちが神様を信頼して種を蒔けば、やがて良い実りを得るのです。時間がかかるかも知れませんが、主は正しいお方なので、良い働きには必ず良い実りを与えるのです。一方で見えないところであろうと、誰からも咎められなかろうと、主は悪い歩みにはやはりそれに相応しい報いを与えます。 このように、不条理なこの世界にあっても、私たちは完全に正しい最高の裁判官を信じることが出来るのです。ここに希望があります。不当にあなたを苦しめる者の罪が、ずっと野放しにされることはないのです。
