東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ヘブル2章5-9節「主イエスを見つめよう」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2025/01/13

ヘブル2章5-9節「主イエスを見つめよう」

*** 1/12(日)主日礼拝 説教概略 ***

 昔、ある宣教師さんに変な日本語(造語)を教えていただきました。「種内果樹園見人(たねうちかじゅえんけんじん)」ということばです。種の内に果樹園を見る人という意味です。例えばリンゴの種を植える時に、将来、芽が出て美味しいリンゴの木が育つ。それだけでなく、果樹園になる姿を信じて種を蒔く人という意味です。未来のことですが、神様がそうしてくださると信じて、種を蒔き続ける人になって下さいという意味でした。



 ヘブル人への手紙の「信仰」は、まだ見えない将来に対する信仰が強調されています。特に11-12章では顕著です。ただ、これは本当に励まされる信仰のあり方です。私は恵みの先取り特権とも表現します。今の時の苦しみから、やがて平安に満ちた美しい実りが生まれる。そう信じて歩むのです!主イエス様を見つめるとは、まさにそのような信仰をもって見つめ従って行くことです。ご一緒に教えられましょう。


1. 始まっているが、まだ完成していない神の国


 1章から24節までは、御子イエス様が神々しい御使いたちより、はるかに優れた方であると教えられてきました。だからこそ、御子イエス様によって与えられた救いを拒むならば、もうそれ以上の救いは存在しないということでした。この5節からは、それほど優れて神のご性質を持つイエス様が、私たちと同じ人間となられたという意味とその恵みを語っています。

 神様は人を愛しておられるので、御子イエス様に「天使になりなさい」とは命じませんでした。人の救いのために人となる使命を与えたのです。5節にこうあります。

5  というのも、神は、私たちが語っている来たるべき世を、御使いたちに従わせたのではないからです。 

 「来たるべき世」とは、キリストが治める世です。旧約から見ればキリストの時代こそ「来たるべき世」でした。それは同時に、キリストによって始まってはいるものの、まだ完成していない世です。それはやがて、キリストの再臨の時に完成します。そして、救われてキリストと一つにされているクリスチャンたちも、キリストと一緒に世界を治めるのです。始まってはいるものの、まだ完成していないので、私たちは毎週祈ります。「主の祈り」の中で「御国が来ますように」と祈り続けているのです。こうして御国の完成を信じて待ち望んでいるのです。この待ち望んでいる御国の完成を、主イエスを通して見る信仰について6節以降で語られていくのです。

 

2. 将来の完成をイエスにあって見る信仰


 6-7節の「」内は年末感謝礼拝で味わった詩篇8篇の引用です。そこでは、「圧倒的に偉大な神様が、小さな吹けば飛ぶような人間に心を留めてくださった」と語られていました。そして、このヘブル書の著者は、この箇所を、私たちと同じ人間となられたイエス様を指し示すものとして説き明かしています。 

 神様は人にこの世界を治めさせようとなさいましたが、今話したようにそれはまだ完成していません。それで、キリストは人間に神がお与えになった本来の統治権を完成させようと、御使いよりも低くされました。そして十字架の死と復活を通られ、やがて万物をその足の下に完全に置かれ、栄光をお受けになるのです。そして、8節にこうあります。

神は、万物を人の下に置かれたとき、彼に従わないものを何も残されませんでした。それなのに、今なお私たちは、すべてのものが人の下に置かれているのを見てはいません。

 本来与えてくださったはずの世界の統治権。しかし、「今なお私たちは、すべてのものが人の下に置かれているのを見てはいません」とあるように、それが実現されていない現実を私たちは見ているのです。しかし、実に9節ではその中でも、人が見ることのできる真実があることを教えています。それがイエス様です。

9  ただ、御使いよりもわずかの間低くされた方、すなわちイエスのことは見ています。イエスは死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠を受けられました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。 

 この書で初めて「イエス」という名前が登場します。ようやくイエスという名を見ることができました。しかも「キリスト」ではなく、あえて「イエス」です。「イエス」とは人間としてのお名前ですから、それは、私たちと同じ人間となられたという真理を強調してるのです。イエス様は、人の罪のせいで失われた本来のあり方を回復するため、一時的に天使よりも低くなられました。人を救うために神の栄光を脱ぎ捨て、人の弱さを着てくださり、十字架の死にまで従われたのです。

さらに死を打ち破って栄光のからだを持ってよみがえられ、信じる者すべての先駆けとしなられました。そのイエス様の生涯のすべてを、私たちは信仰によって見ることが許されているのです。実は8節と9節の「見る」は異なる語句が使われています。8節の「見てはいません」は、何もしなくても「見えている」というニュアンス。しかし9節の「イエスのことは見ています」は、「注意を払って見つめる」という意味です。それは信仰によってイエス様を見つめるということで、その時に将来の栄光と希望も見え始めます。信仰の目によれば、将来、万物がイエス様の足元にひれ伏す姿を、先取りして見ることができるからです。

これがヘブル書の信仰です。

 111をお開き下さい。「さて、信仰は望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」 イエス様を信仰によって見つめれば、望んでいる保証がそこにあり、まだ起きていない見えないものを確信させていただけるのです。最初にお話しした「種内果樹園見人」とは、そういうことでした。一つの種から、将来の果樹園を見ながら種を蒔く信仰です。涙とともに種を蒔くならば、やがて喜び歓喜しながら刈り取る日が必ず来るとを信じて歩む信仰です。子どもたちの泣いて騒ぐ声が、反発するあの声が、やがて神様を賛美し、イエス様の愛を伝える声へと変わる。それを信じて祈り続け、福音を語り続けるのです。打っても響かないあの人も、やがて変えられて主を涙ながらにあがめる者となる。その姿を、信仰の目で見ながらみことばを伝えるのです。主イエス様はいつも、そのようにして歩まれたのです。

 

3.苦しみを耐え忍んで、栄光を受けるという確信


 私たちには、このように先を歩まれた先駆者、信仰の創始者なるイエス様がいるのです。この世界に正義と平和が樹立されるのを見られていない。一方で、人のために十字架の死と復活を通られ、栄光を受けておられる信仰の先駆者イエス様を見つめることができるのです!このイエス様のことが見えていれば、そこに希望が満ちています!復活の保証、御国の保証がそこにあります!

 昨年来ていただいた岩渕まことさんの楽曲に「父の涙」という曲があります。ご自身が娘さんを失った辛い経験から生まれた曲です。まだ小学1年生だった娘さん亜希子ちゃんは、脳腫瘍で天に召されました。病状が悪化して、ほとんど言葉を話せなくなった頃です。岩渕さんは話しかけました。「アッコ、イエス様が見えるか」と。すると寝たきりの娘さんがこっくりとうなずいたのです。応えてくれるとは思っていなかったので、岩渕さんは驚きましたが、イエス様が今娘の心を照らし、支えてくださっている。いや娘だけじゃなく私達の中にイエス様がいて、支えて下さっていると、心から思えたと言います。その後意識がなくなり、天に召されたのです。しかし、イエス様を信仰によって見えていることが、幼い亜希子ちゃんにとっても、岩渕さんご夫妻にとっても大きな希望、励ましとなったというお証しです。そこには復活の希望と天で再会できるという励ましが満ちているからです。 

 私たちの目の前にある現実も過酷です。涙なしには語れない事もあるでしょう。教会も色々な問題が起こり、傷つきながら歩むでしょう。しかし、みことばの約束によれば、キリストの教会は美しく飾られた花嫁として、イエス様の再臨をお迎えすることになるのです。その将来の美しい姿を、そして迎えてくださるイエス様の栄光に満ちた姿を、私たちは信仰をもって見るようにして歩むのです!!必ず美しく飾っていただけるのです!なんという慰め、励ましでしょうか。主は苦しみを通りましたが、その苦しみは後になって圧倒的な栄光を生むのです。私たちも主と一つとされた者として苦しみは通るのですが、その先にある栄光と誉れの冠をも必ず受け継がせていただけるのです。

 ですから、私たちも苦しみを見て怯えていてはなりません。信仰の目でイエス様を見るならば、その苦しみは、完成と栄光にたどり着くための道、Victory Road だからです。イエス様は、言われました。人々があなたがたを憎むとき、あなたを排除する時、あなたをののしり、あなたを悪く言う時、踊りあがって喜びなさいと!(ルカ6:22-23)。御国での報いが大きいからです。 第一ペテロ413節 むしろ、キリストの苦難にあずかればあずかるほど、いっそう喜びなさい。キリストの栄光が現れるときにも、歓喜にあふれて喜ぶためです。 

 私たちはどのように歩んでも、この世では必ず苦しみを通ります。必ず通るのならば、栄光と誉れにつながっている道を歩みませんか。どうせ悩み苦しむなら、人の救いのために、神の国のために苦しむ者でありたいのです。昨年秋、星野富弘さんのアート展の後、富弘美術館を訪れました。そこで「野ばら」という作品に心が留まりました。「茨にも、ほのかにかおる花が咲く あの花が好きだから この道を行こう」という詩が添えられていました。富弘さんも茨の道は行きたくなかったのでしょう。でも、行ってみたら「ほのかにかおる花が咲く」と知り、案外いい花、いい香りだと知って、その後も茨の道を行こうと告白しているのではないでしょうか。私たちの目に茨の道、苦しみの道は避けたい道です。しかし、その道には神の助けと励まし、慰めも満ちている何よりそこがキリストの通られた道ならば、私たちは、一見苛酷に見えたとしても、その道を行こうではありませんか。真の栄光はそこにあるのですから。

 神様はあなたに親しく語っておられます。信仰をもって主イエスを見つめなさいと。御子とあなたは一つにされている。だから、御子が苦しみを通って救いを成し遂げ、栄光と誉れの冠を受けたように、あなたもやがてそれらを受けるのだ。だから、今、涙しながらも良い種を蒔き続けなさい。やがて、喜び踊りながらその実りを見る時が来る。痛み忍耐しながら、あなたの家族を、あなたの友を愛しなさい。やがて歓喜して、その収穫の栄光を受ける時が確かに来るのだから。




引用元聖書
<聖書 新改訳2017
聖書 新改訳2017©2017 新日本聖書刊行会 引用元聖書

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