***1/8(水)祈祷会 説教概略 ***
このローマ書は11章までが基本教理についての教えであり、12章からは、いよいよ信仰生活の実践編であるとお話しました。それゆえ、頭でっかちの信仰ではなく、行いの伴った信仰生活を教えているということでした。
その実践編ですが、私たちは一人では弱いので、励まし合っていく必要があります。例えば、聖書通読なども一人では挫けてしまうので、他の方と同じ速度で励まし合って読んでいくなど。支え合っていく必要があるのです。ですから、一人で山に籠って歩むのではなく、教会に集い、交わりの中で一緒に信仰生活をしていくのです。
先週の新年礼拝の後に、ある方から「本日の説教で、大変勇気付けられたと、夕飯の時に家族で話題になった」とのお証しを伺いました。まさに、このように、各自がいただいた恵みを分かち合う交わりによって、さらに教えられたことが補強され、深まり、定着していくわけです。独り言のように恵みをつぶやいても、あまり深まらないですよね。お互いの存在によって、私たちは支えられており、何よりもそれを神様が与えてくださっているのです。ゆえに、慎み深い信仰を持って歩んでいきましょう。
3節 私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがた一人ひとりに言います。思うべき限度を超えて思い上がってはいけません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深く考えなさい。
「思うべき限度を超えて思い上がってはいけない」とあります。むしろ、慎み深い考えをするようにと教えられています。「思うべき限度を超えて」と断っているので、限度を超えない程度に自分を肯定することは、決して間違いではないからです。主の恵みによって与えられている賜物は、とても豊かで良いものだからです。また、恵みのゆえに、神の子、義なる者、聖なる祭司の国民、御国の相続者もとされているのですから。それを喜ぶことは良いことです。しかし、思い上がらないように、つまり高慢にならないよう、慎み深く歩みなさいというわけです。慎み深く考えるべき理由について教えられましょう。
第一に、それらは神様が相応しく分け与えてくださったものであるからです。誰も自分で賜物を生み出していません。だから「賜物」と言いますね。神様からのプレゼントです。6節でも語られており、「与えられた恵みにしたがって、異なる賜物を持っている」とあるのです。これらはすべて神様によって与えられた恵みであることを忘れてはなりません。ついつい自分ができること、得意なことがあると思い上がり、それをもって他の人を見下したり、さばいたりしてしまいがちです。しかし、私たちが生み出したものではなく、主からの恵みの賜物であることを覚え、慎み深く考える必要があります。
第二に、私たちは共同体の交わりの中で支えられているのです。ゆえに思い上がらず、慎み深い信仰で生きるべきです。自分一人では何もできないのです。3節では「神が各自に分け与えてくださった」と語られていましたよね。「各自に分け与える」とあるように、神様はたった一人の人に賜物をまとめて全部与えるというようなことをなさいませんでした。多くの兄姉に分けて与えておられるのです。なぜでしょう?人が一人ではなく、互いに協力し合って、一緒に神の国を建て上げていくためですよね。
それについて、より踏み込んで具体的に教えられているのが4-5節です。
4節 一つのからだには多くの器官があり、しかも、すべての器官が同じ働きをしてはいないように、
5節 大勢いる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、一人ひとりは互いに器官なのです。
皆が異なる賜物を与えられており、互いの益となるようにそれを生かし合うからこそ、総合的により豊かな働きができます。5節に「一人ひとりは互いに器官」なのだと語られているように、助け合う交わりの中で、お互いが生かされるのです。バラバラの「キリストのからだ」ではなく、世界中でただ一つのキリストのからだ、歴史全体を通してただ一つのキリストのからだを、みんなで建て上げており、そこで欠けてもよい人など一人もいないのです。
さらに、6-8節においては、具体的な「賜物」の違いと、それだからこそ良いのだということを教えられます。
6 私たちは、与えられた恵みにしたがって、異なる賜物を持っているので、それが預言であれば、その信仰に応じて預言し、
7 奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教え、
8 勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は喜んでそれを行いなさい。
6節に「異なる賜物を持っている」とありました。同じ賜物を同じ量だけ与える方が、神様も楽なのではないかと思いますが、そうはなさらなかった。一人一人性格や個性に沿って、ふさわしい異なる賜物を豊かに備えてくださった神様なのです。同じだから良いのではなく、異なるから良いのです!
ここでは、預言の賜物、奉仕の賜物、教える賜物、勧めをする賜物、分け与える賜物、指導する賜物、慈善を行う賜物が語られています。「預言」は、神のみことばをまっすぐ大胆に語る説教の奉仕に近いでしょう。
次の「奉仕(ディアコニア)」の賜物は、やや分かりにくいかも知れません。神様のために働くあらゆることを「奉仕」という総称で呼ぶことが多いからです。ただ、ここではそうした総称よりも、教会の物理的な必要のために仕える働きを指しています。ですから、教会事務とか管理の奉仕、あるいは給仕・執事といった内容です。
そして「教える」というは、福音の真理、神学や教理を分かるように教える奉仕でしょう。「勧め」の場合は、慰めの人、励まし手という意味もあります。単に教えるというよりも、信仰者が福音に実際的に生きていけるように励まし勇気づける賜物でしょうか。
「分け与える」賜物は、資源や物資をより多く所有している人が、分け与える賜物でしょう。経済的だけでなく、技術や体力といった資源を提供することも含まれるかも知れません。「指導する」賜物とは、「導く賜物」です。リーダーシップ、司会、様々な交通整理のような奉仕でしょうか。最後の「慈善」については、弱者などに寄り添い支える福祉的な賜物でしょう。そのような関心を持ち、学んでいる人々いますね。
こうして見ると、物理的な必要に応える賜物もあれば、霊的な必要に仕える賜物もあると分かります。また、教え導くにしても「みことばの説き明かし」を中心にする者もあれば、みことばに歩めるように「隣で励ましていく者」も必要だとわかります。あるいは、教育的視点で教える人も必要です。しばしば、牧師や宣教師がこれら全部をやろうとすることがありますが、少しも良いことではないと思うのです。異なった賜物がそれぞれに与えられているのですから、皆で協力して行うべきです。そうであれば、神の国の働きは、一部のスーパーマンのような人がなすのではなく、お互いの異なる賜物を分かち合っていく働きであると言えます。
だからこそ、私たちは誰も、思い上がってはならないのです。お互いの存在がどれほど大切なことでしょうか。皆が出し惜しみせず、賜物をささげ合えば、本当に豊かな良い働きができる。何度か分かち合っていますが、教会債を返済できる頃には、新しい教会を生み出していきたいのです。それも、皆の賜物が生かし合える教会です!保育施設、老人施設、ホスピスなどが教会を中心に共存するような施設、教会。ともに働き、ともに生活し、ともに礼拝できる教会。多くの賜物が主にあって一つにされる時に、豊かに生み出せるのではないでしょうか。きっとこうした教会自体が証しになります。
引用元聖書
<聖書 新改訳2017>
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