*** 5/7(水)祈祷会 説教概略 ***
この手紙の終わりの部分で、パウロは様々な兄姉への愛を示しています。一言ずつではありますが、兄姉の労苦を感謝し、よろしく伝えて欲しいと書いています。それは、取るに足りないような小さな者にまで深い関心を注ぎ、その一人のために喜んでいのちを与えてくださる主ご自身に倣う姿にも思えます。
愛をもって一人一人に関心を持つことの大切さを教えられます。
3節 キリスト・イエスにある私の同労者、プリスカとアキラによろしく伝えてください。
4節 二人は、私のいのちを救うために自分のいのちを危険にさらしてくれました。彼らには、私だけでなく、異邦人のすべての教会も感謝しています。
プリスカが奥さんで、アキラがご主人という夫婦です。パウロは彼らを「同労者」と語り、ローマにいるこの二人によろしく伝えて欲しいと記しています。実は彼らは、少し前までコリントにいて、パウロと一緒に過ごしていた夫妻でした。
使徒の働き18章で、この背景が語られています。この二人は元々ローマに住んでいました。しかし、ローマ皇帝クラウディウスによる「ユダヤ人退去令」にて、ローマを追われたのです。それでコリントに移住することになり、パウロと親しくなったのでしょう。そして、一緒に天幕作りの仕事をしながら福音を伝えていたようです。それどころか、この夫妻は自分たちのいのちを危険にさらしてまで、パウロのいのちを救うため労してくれたのです。ただ、今はローマに戻ることができ、自分たちの家を献げて教会活動をしていたようです。5節にこうあります。
5節 また彼らの家の教会によろしく伝えてください。キリストに献げられたアジアの初穂である、私の愛するエパイネトによろしく。
「彼らの家の教会」とあるように、プリスカとアキラ夫妻は、自分の家を主の働きに献げて、教会開拓をしていたのです。このような献身的な信徒が起こされる時、教会は成長し、宣教が前進していきますよね。牧師や宣教師はごく少数ですから・・・このように信徒ひとりひとりが人の救いのために労していくことが重要です。
特に、彼らは「天幕作り」を仕事にしていましたから、自分たちの家を教会の集会に相応しく整えることができたあろうとも推測されます。与えられた仕事やそこで得たスキルもまた、主の働きに大いに役立てることができるのです。
そして、アジアで初めてキリスト者となったエパネイトにもよろしくと伝えています。このアジアとは、現代の西アジア地域です。トルコやその周辺でしょう。アジアでの「初穂」と呼ばれる人がしっかり教会に留り続けていたことは、パウロにとって非常に嬉しく皆の励みになったことでしょう。私自身、この教会の最初の受洗者ですから、この者がここで牧会をさせていただいているということは、教会として非常に意味のあることだと思います。多くの方々の祈りと支えがずっとあるということでもあります。感謝しかありません。
6節では「あなたがたのために非常に労苦したマリアによろしく。」と伝えています。この女性の犠牲的な労苦を彼はよく知り、それをほめて労っているのです。さらに、7節にはこうあります。
7節 私の同胞で私とともに投獄されたアンドロニコとユニアによろしく。二人は使徒たちの間でよく知られており、また私より先にキリストにある者となりました。
パウロの信仰の先輩として、この二人を紹介しています。おそらく、この二人は夫婦ではないかと思われます。そして、彼らもパウロと一緒に熱心に宣教していたゆえに、逮捕され、投獄されたようです。
このところから、二つの点を教えられ、理解を深めたいと思っています。
第一に、多くの女性の名前が挙げられている点です。ここには少なくとも9名の女性の名前が挙げられていると指摘されます。女性たちが大変活躍していたことが分かります。
特にユダヤ人のコミュニティでは男尊女卑の価値観が強くあった時代です。ユダヤ人のラビは、公の場で女性と挨拶すらしませんでした。女性から話しかけるのは無礼だという価値観さえあった。パウロはそういう価値観の中で育って来た人です。けれども、パウロはキリストによって大きく変えられたのです。今や、異邦人や女性といった、ユダヤ社会では軽んじられる人々を主にあって受け入れ、その仲介役さえ買って出ているのです。
それは、世の価値観ではなく、ユダヤ社会の価値観ではなく、主のみこころという価値観に立っていたということです。何よりもその各人の人格を見つめ、ひとりひとりを愛するという意識から生まれるものです。地位や立場、功績ではない。もっと奥にある人格、信仰、心根を見つめる大切さを教えられます。しかし、現代の教会でも世の価値観を無条件に受け入れ、教会に持ち込むということが起こりえます。学歴、社会的な地位、財力・能力等を無意識のうちに重視しがちです。この世のやり方をみことばに照らすことなしに、取り入れすぎることもあります。しかし、私たちが拠って立つべきところは、みことばです。教会のリーダーシップは、地位の高いから、能力があるからといった理由で安易に選ぶべきではないと「信徒の手引き」にもあります。より大切なことは忠実な人、主に信頼して歩む人、いつでもみことばの価値観に立つ姿勢ですね。
第二は、パウロがローマの兄姉たち一人一人に愛の関心を持って歩んでいたということです。パウロはローマの教会を未だ訪問できていないわけですが、パウロはこの後も、様々な人の名前をあげています。16節に至るまで、実に多くの人の名前が挙げられ、直接的に名前が挙げられている人だけでも26名ほどいるようです。今の時代のように、TV電話も写真もない時代です。すると会ったことがないなら、顔もわからない、声もわからないはずです。それなのに、ローマの教会にこれほど知り合いがいるのは驚くべきことではないでしょうか。
私たちは会っていてさえも、顔と名前が一致しないということも少なくない。忘れてしまいますし・・・難しいものです。しかし、パウロはなぜ、行ったことがないローマ教会の人々について、こんなにも多くの名前を挙げて語ることができたのでしょうか。いや、名前だけでなくそれぞれの苦労など、より詳しい情報も持っていることがわかります。
それは、パウロがローマの兄姉たちに強い関心を持って関わっていたからであり、そのために祈っていたからではないでしょうか。彼は様々な犠牲を払い、人を送り、またローマから来た人々と多くの時間を取って詳しく話を聞いていたのでしょう。離れていながらも、今置かれている場で愛をもって関わっていた証拠でしょう。「愛の反対は憎むことではなく、無関心である」とのマザー・テレサのことばは有名です。パウロはまさに、愛ゆえに強い関心を抱いて、ローマの兄姉たちをケアし、彼らのためにできることをいつも考えていたのではないでしょうか。この手紙そのものに、彼の愛が満ちているのです。
私たちも、「互いに関心を持つ」ということを大切にしていきましょう。やはり、関心を持たれているということは愛の証しです。嬉しいことです。嬉しいだけでなく、「あの時自分に関心を持って声をかけてくれたから、今ここに私がいる」というケースさえあるのです。私自身、面倒な人間なので、決して話しかけやすい者ではなかったはずです。それでも、関心を持って声をかけ、祈ってくださり、誘ってくださり、そうやって見出され、育てられた。それらなしには牧師への道はありませんでした。こうした「愛の関心」が、埋もれていた人々を見出し、主にあって用いられ輝いていくことを覚えたいのです。
引用元聖書
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