東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 第一コリント12章12-27節「一つのからだ ~ 教会 ~」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2025/05/11

第一コリント12章12-27節「一つのからだ ~ 教会 ~」

 *** 5/11(日)献堂記念主日礼拝 説教概略 ***

 献堂から丸6年が経ちました。早いものです。皆さんの祈りとささげ物を神様が祝され、この会堂が豊かに維持され、用いられています。この会堂があることが「当たり前」ではない。それをいつも胸に刻み、感謝して歩むなら、残り半分を切った教会債もすぐに完済できるでしょう。

 特に今日は、この会堂において4名の洗礼式が持たれます。この新しい会堂で、イエス様を信じる方々が起こされていること。実は、誰よりも神様が大喜びなさっていることです。神様の願いは滅びてよみにくだる者をゼロにし、天の御国を満員にすることだからです。



 ルカの福音書15章には、次のような二つの喜びの表現があります。

一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人のためよりも、大きな喜びが天にあるのです。
一人の罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちの前には喜びがあるのです。」 

 「一人の罪人」とあるように、神様は大勢だから喜ばれるのではありません。ひとりの人が悔い改め、救われたことを天使たちと一緒になって大喜びしておられるのです。世界でただ一人のあなたが救われたこと、そのことだけで天に、神様と天使たちの間に喜びが満ちあふれるのです!!あなた一人のための喜びの宴です!

 これこそ、神様に最も喜ばれる会堂の用い方ではないでしょうか。これこそ、主の御前にかぐわしい香りなのです。なお、4名のうち3名は、新しい会堂になって集うようになられた方々です。主がこの地にお建てくださったゆえの出会いもここにあり、感謝いたします。こうして、信じて洗礼を受けた方々は、「キリストのからだ」と呼ばれる「教会」の一員とされました。13節です。

13  私たちはみな、ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によってバプテスマを受けて、一つのからだとなりました。そして、みな一つの御霊を飲んだのです。 

 「バプテスマ」というのが「洗礼」です。キリストを信じた人は、同じ御霊によって新しくされ仲間に加えられます。このキリストの御霊とは、キリストの心とも表現され、「キリストの心」を持つ者とされたのです。クリスチャンはキリストの愛に心に生きる者とされ、キリストのからだ、つまり教会の一員とされたのです。でも、それは単なる教会の構成員ではありません

 血の通い合う仲間、「同じキリストのからだの一部」なのです。そこには国籍の違い、立場の違いもありません。総理大臣であろうと、国の王様であろうと、牧師であろうと、信徒であろうと、同じ尊さ、お互いに必要とされる存在なのです。15-16節。

15  たとえ足が「私は手ではないから、からだに属さない」と言ったとしても、それで、からだに属さなくなるわけではありません。
16  たとえ耳が「私は目ではないから、からだに属さない」と言ったとしても、それで、からだに属さなくなるわけではありません。 

 私は手になりたいけど、所詮、足の爪だからあまり価値がないとか、パッチリな目が良かったのに、私は耳だから価値が低いとか・・・そんな考えは正しくないのです。「どうせ私は何もできない、役に立たない」と考えることは、断じて神様のみこころではないのです。神様はあなたを本当に高価で尊く、必要な存在として造られ、こうして助け合う仲間と出会わせたのです。17-20節をよく味わってください。同じ器官ではないから、素晴らしいと分かります。手だけでも、目だけでも、生きていけません。違うから良いのです。違うから助け合い、輝きを引き出し合えるのです!優劣などありません。

 それゆえ、「弱さ」を抱えていることは、教会では卑下することではありません。むしろ、あなたの弱さは必要な弱さでさえある。例えば、心が繊細で傷つきやすい方がいらっしゃる。そういう方がいらっしゃることで、「ひどいことばを使わないようにしよう」と、あの人のために祈ろうと思わされ、優しさや思いやりが育つのです!!もし、鈍感な強い人だけの交わりであれば、私たちはどんどん優しさを失うのではないでしょうか。ですから22節にこうあるのです。

22 それどころか、からだの中でほかより弱く見える部分が、かえってなくてはならないのです。 

 なんという交わりを主は造られたのでしょう!弱さは、他の方が活躍できる機会さえ提供するのです。私は手足の筋力や神経がゆっくりと失われていく病を発症しています。でも、それゆえに、力持ちの皆さんに「活躍の場を差し上げている」ことになります。手先が器用な方々に、出番を提供する弱さともなっています。24節にこうあります。

24節 神は、劣ったところには、見栄えをよくするものを与えて、からだを組み合わせられました。 

 「組み合わせられました」の部分は、実は先週説明した「結びつける」と同じことばです。それは「別々の異なるものを混ぜて一つにしていく」ということばでした。キリストがおられなかったら、出会うことさえなかった全く異なる者たちが、ここに集まり結び合わされたのです。同じ趣味、同じ郷里で集まったのではありません。神様のご計画、神様の導きがあって、結び合わされ一つとされたのです。

偶然ではありません。だから、ここに集められたことに意味があります。この出会いには意味があります。誰かの助けになり、誰かの活躍の場を提供するのであり、それを見た人々にキリストの愛を証しするチャンスとなるのです。こうして神様は、異なる私たちを組み合わせて、より良いものを生み出されます。だから他の人と同じにならなくていい。いや、同じになってはいけません。なろうとしないでください。違うからあなたは素晴らしい。あなたがいい。あなただからいい。あなたの個性が必要なのだと、主は言われるのです。

この会堂ができて6年。建物は少しずつ老朽化します。やがて壊れます。でも、この会堂の中で生まれる友情や愛はいつまでも残ります。神様によって結び合わされた交わりは、むしろ時間とともに深まり豊かにされます。やがて26節のようになることを目指して。

26  一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。 

 教会の求める理想の姿です。苦しむ者とともに苦しみ、喜ぶ者とともに喜ぶ。4人の方が洗礼を受け、神様の祝福を受ければ、それ以外の私たち全員は、自分のこのように喜ぶのです。神様がこの出会いのために、この会堂をくださった。それを心から感謝しましょう!どうか、孤独で苦しむ人、失望している方々の「本当の居場所」となれる会堂、そして教会の交わりを目指し続けていきましょう!



引用元聖書
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