東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ローマ16章10-16節「福音の力」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2025/05/16

ローマ16章10-16節「福音の力」

 *** 5/14(水)祈祷会 説教概略 ***

 先週に続いて、パウロが多くの人物の名を挙げて挨拶を書き送っています。10-11節に登場する名前は、世的な意味ではかなり身分の高い家に関わっていた者たちです。


10  キリストにあって認められているアペレによろしく。アリストブロの家の人々によろしく。11  私の同胞ヘロディオンによろしく。ナルキソの家の主にある人々によろしく。 

 まず、10節に出て来る二人の名前についてです。最初に出て来るアペレは、ローマ皇帝に仕えていた人物と推測されています。そして、そのすぐあとのアリストブロは、キリストを殺そうとして、周辺の赤ちゃんを皆殺しにしたヘロデ大王の孫である可能性が高いと言われています。さらに11節には「ヘロディオン」という人物の名前が出て来ます。パウロは彼のことを「私の同胞」と紹介していますので、彼がユダヤ人だったということでしょう。なお、この名前は、「ヘロデ」に由来するものだと考えられます。ですから、ヘロデと親戚関係であるなど、何らかのつながりのあった人物だと考えるのが自然でしょう。そして、11節後半の「ナルキソ」は、奴隷から解放されて自由市民となった人物とされていますが、彼も皇帝に仕えた人物として有名な人だと言われます。

 ですので、この10-11節は、社会的に言えばかなり高い地位にある人々の名前が挙がっていると言えます。また、イエス様に反対し、攻撃するような立場の側の人々、その家系や関係者であったと考えられます。けれども、それでもキリストの福音がそこにも入り、救いが起こっていたということです。

 これらのことから、福音の力の豊かさを感じないではいられません。キリストを迫害した大王の子孫の家系、また、ローマ皇帝のもとで仕えている者の家系においても、福音が届けられ、また救われる者が起こされているのです!!少なくともその家の中に複数のキリスト者が生まれていたとするならば、それは大変興味深いことです。キリストの救いの知らせが、このような高い地位の者たちやその家系にまで入り込んでいたということになるでしょう。多くの学者はそのように分析しています。本当に「すべての人のための福音」であることがわかります。

 そして、12節で登場する名前は3名とも女性です。いずれも労苦したことが語られており、先週話したように、女性たちが熱心に奉仕し、様々な試練を通りながらも主に仕えていたことがわかります。さらに注目したいのは、13節です。

13  主にあって選ばれた人ルフォスによろしく。また彼と私の母によろしく。

 ここでパウロは、主にあって選ばれたルフォスと、「彼と私の母」によろしくと言っています。誤解を生みそうな訳なので説明しますと、この意味は、ルフォスの母がパウロにとっても自分の母親のような存在であったということです。それほどに、主にある良い交わりがここにあったということですよね。

 ところで、主にあって選ばれたこのルフォスとはどういう人物なのでしょうか。実は彼自身よりも、彼の父親がまず、不思議なかたちで「主にあって選ばれた人」であるとも言えます。彼の父は、ほぼクレネ人シモンという人であると考えられます。そう言われてもピンと来ないかも知れません。

 彼こそは、イエス様の十字架刑の際に、イエス様に代わって、ゴルゴダの丘まで十字架を担いで行くことになった人物です。マルコの1521節をお開きください。

マルコ15:21  兵士たちは、通りかかったクレネ人シモンという人に、イエスの十字架を無理やり背負わせた。彼はアレクサンドロとルフォスの父で、田舎から来ていた。 

 ここにルフォスの名が出てきます。特にマルコの福音書がともにローマ人宛てに書かれた書でありますから、本日読んでいるローマ教会のルフォスと同一人物でしょう。そして、このルフォスのお父さんがクレネ人シモンでした(クレネは現代の北アフリカ)です。

 十字架刑は自分が磔にされる十字架の横木を担いで行くところから始まります。しかし、激しくムチで打たれ、不眠不休で疲労し切っていたイエス様の体力は、既に限界でした。そこでローマ兵は、イエス様の代わりに、たまたまそこにいたクレネ人のシモンに十字架を運ばせたのです。「無理やり背負わせた」と語られているように、彼の意志ではありませんでした。本人が望んだことではありませんでした。ですから、一見すると「たまたま」だったように見えます。しかも半ば強制的に・・・やむを得ずということです。しかし、この出来事さえも神様はお用いになったと言えます。神の摂理、神の導きがあったと言えるでしょう。

 彼は結果的に、イエス様の代わりに十字架の重みに耐えて運んだことになります。主の痛み、苦しみをいくらか味わう機会となったのです。もしかしたら、「俺はあのキリストと言われるイエスの十字架を担いだんだぜ」と、周囲に自慢したかも知れませんね。こうして彼は、成り行き上、自分の意志とは関係なく福音に触れることになったのです。それによって、イエス様のことを真剣に考える機会となったことでしょう。

私たちの中にも、自分から求めてではなかったけれども、福音に触れる機会が与えられ、その時は「たまたま」「偶然」と思えたケースがあるでしょう。けれども、後になって、それらもすべて主のご計画であったのだと知るのです。

ローマの1613節に戻ります。ここでシモンの息子は「主にあって選ばれた人ルフォス」と紹介され、パウロはその母親を自分の母親のように慕っていると分かるのです。彼らがローマ教会で熱心に仕えるクリスチャンとなっていることを見るのです。しかも、パウロとも非常に親しい間柄であることが分かります。 

不思議な神様の導きですよね。ここに「福音の力」の豊かさを発見するのです。

キッカケはあまり重要ではない事が分かります。最初は嫌々教会に来ていたという人もいるでしょう。イエス様を求めてではなく、別の動機で来たということもあるでしょう。日曜日に洗礼を受けた4名の方も、それぞれ別の導かれ方でしたね。でも、それでいいのではないでしょうか。

時々、自分にはドラマティックな救いの証しがない、劇的な改心体験がないと嘆く人もいます。けれども大事なことは、どんな背景によせ、どんなプロセスにせよ、福音に触れて変えられたという事実です。今、イエス様を信じて、イエス様について行っていることが大切ですよね。 逆に自分から求めて来たのであっても、どんな奇跡体験があるにせよ、主イエス様に従う姿勢がなければ、それらは何の誇りにもなりません

ルフォスのきっかけも、もしかしたら、お父さんがイエス様の十字架を無理やり背負わされたことだったかも知れません。しかし、どんなキッカケであれ、イエス様と出会い、そこから恵みによって変えられているならば、それで良いのです。

 

 ご一緒に教えられて参りました。特に今日は、福音の力の豊かさを教えられました。

 たとえ敵対する者たちであっても、その中に福音の種が入る時に、不思議に変えられていく者たちがいるのです。呪われた邪悪な家系であっても、そこにも福音が入り、信じる者を造り変えるのです。親がどうあれ、祖父母がどうあれ関係ない。あなたはあなた。この福音を受け入れ、救われ、また造り変えていただけるのです。自分から求めてでなかったとしても、良い動機で求めたのではないとしても関係ない。その人もまた、みことばに生きるなら、御霊によって歩むなら、主にあって豊かに変えられて行くのです。これが福音の力です。どんな環境の人であれ、どんな国の人であれ、福音の力が入れば、その人は変えられるのです。私たちは、この「福音の力」を信じて福音の種を蒔き続けましょう。




引用元聖書
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