東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 毎日の聖書【10月】
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2025/10/20

毎日の聖書【10月】

 

1日(水)使徒17章10-12節
 ヤソンたちの犠牲的な助けによって、パウロとシラスは夜のうちにテサロニケから逃れ、ベレアに向かうことになった(10)。しかし、彼らはそこでも恐れることなくユダヤ人の会堂に入ってみことばを説き明かした。この町のユダヤ人は、テサロニケの人々よりも素直で、そして非常に熱心にみことばを受け入れ、自分たちでも聖書をよく調べたのだ(11)。そういう中で、多くの者たちが男女ともに信仰に入った(12)。私たちも「素直さ」、「熱心さ」をここから教えられる。神のみことばに対しては、知識や経験よりもはるかに重要なのが「素直さ」である。みことばは心で聞く必要があるのだから当然だ。それとともに、熱心に探し求める心が必要だ。求める者には真理の扉は開かれ、与えられるのだから。私たちもこの人たちのように、受け身で聞くだけでなく、本当かどうかを自分から聖書を調べて学びたい。彼らは毎日聖書を調べたのだから!私たちも素直な心で自分から求め、熱心に聖書を調べ学ぼうではないか。

2日(木)使徒17章13-15節
 テサロニケで騒ぎを起こしたユダヤ人たちは、ベレアにもやって来て、群衆を扇動して騒ぎを起こした(12)。ここでも群衆を扇動しており、考えさせられる。扇動された群衆の声によってピラトも押し負け、バラバを釈放してイエスを十字架につけることになった。一部の者が強い悪意を持つが、多くの民は無関心に流され、揺るがされ、一緒になって悪に染まってしまう。これは、「群衆心理」ということばだけで片づけるべきものではないだろう。やはり善か悪か、各人も声をあげなければならないただ、保身をしたくなる。誰もが大きな力には抗いたくない。損をしたくない。結果、皆が揃って流されていく。教会では起こって欲しくないことではないか?弱い私たちではあるが、正しいこと、良いことを愚直に大事にしていきたい。それにしても、この迫害を、またも神は用いている。一番危険にさらされたパウロは、アテネまで連れて行かれるが、その影響でアテネのアレオパゴスでのパウロの説教が生まれるのだ。迫害のゆえに、次々と新しい地に福音が広がっている。

3日(金)使徒17章16-21節
 先にベレアを出てアテネに来たパウロは、シラスとテモテを待っていた。しかし、アテネの町が偶像でいっぱいであることに気づき、パウロの胸にフツフツと憤りが湧いて来たのだ(16)。そのためパウロは、会堂ではユダヤ人たちと論じ合い、この町の広場ではそこにいる人々と毎日論じ合った(17)。様々な哲学者もいてパウロと議論した。とはいえ、パウロの熱い思いは、あふれ出てしまっている。「彼は他国の神々の宣伝者のようだ」と言われた。というのは、パウロは相手を論破したいのではなく、イエスの十字架と復活を宣べ伝えていた。だが、確信を持って語られるその新しい教えは、アテネの求める者たちの心に響いた。19-20節で、彼らはその新しい教えに非常に興味を抱いて、「知りたい」と願ったのだ。それで、21節にあるように、アテネ人も他国人も「みな」毎日語り合って過ごした。パウロは憤りを覚えるほどに本気だったし、頭ではなく、心で伝えたのであろう。私たちも憤りを覚えるほど本気で、心で福音を伝えていくものでありたい!

4日(土)使徒17章22-25節
 パウロはアレオパゴスの広場の中央に立って語り始めた。彼はまず、アテネの人々があらゆる点で宗教心にあつい方々であると自分が見ていることを伝えた(22)。それは「敬意」として伝えたのであろう。その上で、「知られていない神に」と刻まれた祭壇まで存在することを知ったのだ。アテネでは数えきれないほど多くの神々があるとされていた。だから、自分たちが知ってさえいない神の怒りを買わないために、念のため自分たちが知らないような神にも、供え物をしていたということだ。だから、そこには神と語り合う「交わり」が存在しないのだ。知らないのだから・・・。パウロは、彼らが、自分たちで「知らない神がある」と認めていることを知り、彼らが知らない大いなる神を教えよう!と言ったのだ。それが、世界の造り主なる神、天地の主である。天地万物の造り主なので、小さな宮に住むのではなく、いのちや万物を与える方なので、お供え物も不要であった(24-25)。私たちの主は偉大な神、すべての創造者、すべてを保っておられりお方だ!この神が、私たちを知り尽してくださり、私たちに明確にことばをもって啓示してくださるのだ

5日(日)使徒17章26-29節
 神が人を造られたことが語られている。それを初めて聞いたアテネの人々には、非常に印象的であろう。多くの神々の像を作る彼らにとって!新島襄が初めて創世記1章1節を読んだ時、衝撃を受けたと読んだことがある。神が人を造り、そこから増え広がり、世界の全面に住むようにされたのは、人々が神を求めるようになるためであったとパウロは言う(27)。なぜなら、神は確かに、我らから遠く離れてはいないからだ。神はご自分が造られたこの世界に生きてくださり、そこで働き、その中に存在し続けておられるからだ(28)。そして、私たち人間を「神の子孫」であると彼は言う(29)。なぜなら、神に似た者、神のかたちに意図的に造られたからだ。人が自分の子を生むと似た者が生まれるのは、神からいただいた性質だ。だから、神の子孫であるなら、父である神を金、銀、石などにしてはならない。私たちは人格を持って、愛を知り、意志を持って善悪を判断するのだから。神はもちろん、その上位互換であると言えるだろう。神をいのちなき、人格なきむなしいものにしてはならない

6日(月)使徒17章30-34節
 神はいつの時代でも、人の罪のあまりの多さと重さに「滅ぼすべき」との思いを抱かれたであろう。しかし、愛とあわれみがそれにまさるゆえに、「無知の時代を見過ごして」くださった。主のあわれみだ!だが、今は、どこででも「悔い改め」を命じておられる(30)。それは、主イエス・キリストが十字架で死なれ、よみがえられ、主キリストの義が啓示されたからである。特に、「神は日を定め」、「義をもって世界をさばこうとしておられる」と語られている(31)。最後の審判があることを伝えているのだ。信じる者はいのちを得、信じない者は滅びの結末が待っている。だから、復活の主の姿から確証を得て信じて欲しいとパウロは伝えるのだ。だが、死者の復活をあざ笑い、もう一度別の機会にしようと考える者がいた(32)。そして、「パウロは彼らの中から出て行った」と続く・・・。機会を逃すべきではない主のあわれみゆえに、この日まで生かされ、滅びないでいるだけなのだから。今日という日に、キリストをしっかり告白しよう!

7日(火)使徒18章1-4節
 人生における出会いの大切さを私たちは知っている。あの人と出会えなかったら、まるで違った人生であっただろう!ということは少なくない。パウロにとっても大きな出会いがあった。アテネを去ってコリントに行った時であった。そこでアキラとその妻プリスキラに出会ったのだ。実はパウロは、弱さと恐れを抱きながらコリントに赴いたことが、彼の手紙からわかる。だが、同じようにコリント人ではないこの夫妻が、ちょうど同じ時期に、皇帝のユダヤ人退去令でやむなくローマから移ってきたのだ(2)。神はこの世の皇帝の判断さえも用いて、大いなる働きをなさると分かる。パウロとこの夫婦は天幕作りの同業者で、一緒に仕事をしながら彼らは良い関係を築き、これから宣教においても良い関係を築いて行くのだった(3)。主がくださる出会いは本当に貴重で大切だ。私たちは決して、偶然出会ったのではない。何かがずれていたら、出会えていないのだ。主がくださった出会いのひとつひとつを大切しよう!!

8日(水)使徒18章5-11節
 シラスとテモテが、コリントにいたパウロに遅れて合流した。そのおかげで、パウロはみことばを語ることに専念できるようになり、キリストを大胆に証しした(5)。チームで働くことの恩恵である。しかし、コリントにいたユダヤ人は反抗し、口汚くののしったので、パウロは衣のちりを振り払い、異邦人への宣教に進むことにした。どこに行っても強く反対し、迫害する者もいる。それゆえ、時に心が折れそうになる私たちだ・・・。だが、主はある夜に、幻でパウロに語られた。「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるので、あなたを襲って危害を加える者はいない。この町には、わたしの民がたくさんいるのだから。」と(9-10)。コリントは宣教が難しい地だったと思われる。それでも、会堂司のクリスポと家族はみな主を信じた(8)。また、多くのコリント人も聞いて信じバプテスマを受けたのだ。黙っていれば、反対も受けないが、同時に彼らが救われることもなかった。私たちはどうするべきだろうか?黙ってはいけない。福音を聞いたら救われていく主の民が、あなたの住む町にも必ずいるのだから

9日(木)使徒18章12-17節
 コリントで1年半ほど腰を落ち着けて宣教をしていたパウロだったが、ガリオがアカイア地方の総督であった時、ユダヤ人が一斉にパウロに反抗し、彼を法廷に引っ張って行った。そして、パウロは我々に、律法に違反するような方法で、神を拝むようそそのかしていると訴えた。彼らの言い分はこうだ。旧約聖書の教えは許可されているが、イエスの十字架と復活の教えは許可されていない新しい教えなのだ!だから、取り締まってくれ!と。総督ガリオは、ユダヤ人の信仰の問題だから関係ないと言って、この問題を扱わなかった。それは、ローマ法的に問題はなかったことを示している。主イエスは、ヨハネの福音書6章45節でこう言っておられる。「父から聞いて学んだ者はみな、わたしのもとに来ます。」旧約を正しく学ぶのならば、キリストのもとに来ることになるというのだ。旧約預言は、キリストと別の話をしていない。むしろキリストご自身とそのみわざを指し示しているのだ。私たちもいつでも、どこでもキリストを指し示す歩みをしよう。みことばの通りに、素直にキリストのもとに生き続けよう!

10日(金)使徒18章18-22節
 どのような時にも、自分の思いに引っ張られず、最終的には「神のみこころ」を第一として決断したい。コリントを後にしたパウロは、船でシリアに向けて出発した(18)。その際、コリントで知り合ったプリスキラとアキラも同行した。この夫妻とパウロが良い関係を築いていたことがわかる。そしてエペソに到着すると、パウロはこの夫妻を残して会堂に入って行き、いつものようにユダヤ人たちと論じ合った。人々は興味を抱いたようで、彼に長居するように伝えたようだ(20)。その時のパウロの答えは、「神のみこころなら」というものであった(21)。それは自分の計画を手に握りしめることをやめた者のことばだ。来年生きていることが「当たり前」だと考える高慢さを取り扱われている者の姿だ。みこころなら生かされていて、またここに来ることもできるだろう。彼はそう考えた。彼にはまだまだ多くの人のところに福音を携えて行く使命があった。そしてまた、多くの危険があった。だから、「神のみこころなら」といつも考え、また表明していたのだろう。私たちも「当たり前」をやめよう神のみこころならあの計画やこの計画を、主の手によってさせていただこう!

11日(土)使徒18章23節
 パウロは本当にあちこち巡っている。そして、その地に着くと福音を語り、また信じたキリスト者たちを励まし、勇気づけていることがわかる。彼はアンティオキアにしばらく滞在した後、ガラテヤ地方のフリギュアを次々に巡回した。そして、そこで出会うすべての弟子たちを「力づけたと語られている。このことばは「堅くする、確かにする」という意味を持つ。ユダヤ主義者からの攻撃、あるいは異教文化の惑わし、そうしたものによって揺るがされないためには、真理によって確かな信仰とされることが必要不可欠だ。パウロはただの精神論で、メンタルだけを励ましたのではない。聖書の真理、キリストの救いの確かさをしっかりと教えることで、彼らの土台が揺るがぬ確かなものとなるようにした。それが、ここでの「力づける」ことだ。私たちの人々に対する励まし方、力づけ方はどうだろうか?表面的な言葉で励ましていないだろうか。「祈ってます」という一言しか言えてないこともあるだろう。だが、みことばによって力づけること、真理によって励ますことが大切であることを知ろう!

12日(日)使徒18章24-26節
 アレクサンドリア生まれのアポロは、雄弁なユダヤ人がいた。また、彼は聖書に通じており、霊に燃えてイエスについてもかなり正確に語る力があった。ところが、彼はバプテスマについては、ヨハネのバプテスマしか知らず、その部分の理解が足りなかった。彼は会堂で大胆に語り教えていたが、プリスキラとアキラ夫妻は、アポロにバプテスマの知識が足りないことに気づいたのだ。さて、その時彼らはどうしたのだろうか。
 「彼をわきに呼んで、神の道をもっと正確に説明した」というのだ(26)。非常に教えられることは、会衆の前で行わず、「わきに呼んで」、その上で正しい知識を教えたということだ。正義感のあまり、人前で恥をかかせるようなことをせず、愛の配慮に満ちた関り方である。非常に賢明で、謙遜な夫妻であるとわかる。人を育てるためには、相手の人格を尊びながら、より良いものを教えていく必要がある。そのためには教える側にも知恵と謙虚さが必要だ。正義感だけでは人は育たない。どのようにして人を育てるのか。よく考えていこう。

13日(月)使徒18章27-28節
 神は一人一人に個性豊かな賜物を与えておられる。それぞれが、相応しいところで、十分に用いられたなら、神の栄光がさらによく現わされるだろう。アポロという人物も、雄弁さという賜物が確かにあった。彼が埋もれたままなら、なんともったいないことだろう。プリスキラとアクラ夫妻は、彼を見出した。彼にさらなる知恵と理解を提供して育てた。さらに、他の兄弟たちもアポロがアカイアに渡りたいと願っていることを知り、彼を激励し、彼のために紹介状を書いたのだ(27)。こうして、人は見出され、励まされ、活躍の場をもらえると用いられていく。「彼はそこに着くと、恵みによって信者になっていた人たちを、大いに助けた」と語られているように、アポロを通して多くの信者が大いに助けられたのだ。彼がイエスこそがキリストであると証明し、ユダヤ人たちをも力強く論破したからである(28)。私たちも周囲の兄姉たちの賜物を見出し、紹介し、豊かに活躍できるよう励ましていこう!

14日(火)使徒19章1-7節
 パウロがエペソに下って行った時、そこで何人かの弟子と出会った。とは言っても、彼らは聖霊を知らなかった。聖霊がおられるのかどうかも聞いたことがないと言う(2)。彼らもまた、過去のアポロのようにヨハネのバプテスマしか知らなかったのだ。そこで、パウロはそのヨハネが伝えていた主イエスの名によるバプテスマを教え、この弟子たちはこのバプテスマを受けた。そして、パウロが手を置くと、聖霊が彼らに臨んだのだ。
 私たちは信じて救いを得ていても、実際には聖霊が与えられているとしても、それを正しく理解できておらず、知らないままであるということは起こりえる。私たちは体験だけでなく、知る者から教えられる必要がある。聖書から、またそれを学んでいる者から、いつでも心を開いて教えられる姿勢を大事にしよう。

15日(水)使徒19章8-10節
 エペソにおいても、パウロは会堂に入って神の国について論じ、人々を説得しようと努めた(8)。私たちは彼ほどの熱意をもって、しかも説得しようという思いをもって関われているだろうかと考えさせられる。「何かを言わなければ」と、自分の責任を果たすことに精一杯になり、相手に十分に伝わるために最善を尽くすということが、意外に出来ていないように思わされる。そして、9節によれば、このように奉仕してさえも、心を頑なにして聞き入れない人々がいる現実も伝えられている。それどころか、他の人々の面前で「この道のことを悪く言った」ので、パウロは彼らから離れて、ティラノの講堂という場で論じた。 これはいわゆるユダヤ人の会堂で妨げられたので、異邦人が多く出入りする講堂で話したということだろう。それもまた主のみわざである!10節にあるように、ユダヤ人だけでなく多くのギリシア人たちが主のことばを聞けたのであった。どこででも、どのようにしたら人々の心に届いていけるかを大事にし、また、すべての人に伝える大切さを教えられる。

16日(木)使徒19章11-16節
 神はパウロを豊かに用いられた。なんと、パウロが身につけていた手ぬぐい、前掛けさえ、それに人が触れると病気が去り、悪霊も出て行くほどだった(12)。そこで、ユダヤ人の祈祷師たちは、試しに「パウロの宣べ伝えているイエスによって、おまえに命じる」と言い、悪霊追い出しを試みた。面白いことに、悪霊は彼らに答えたのだ。15節で「イエスのことは知っているし、パウロのこともよく知っている。しかし、おまえたちは何者だ」と。こうして、悪霊につかれた人々に襲われてしまうという出来事が起こった。この安易な真似事をした者たちは、必死に逃げて行った。悪霊にとっても、イエスを信じることなく、イエスの名を語るだけの存在は、恐くも何ともないのだと分かる。それどころか、「おまえたちは何者だ」と、そもそも眼中になく、認識すらされていないのだ。一方で、パウロのように、イエスを心から信じ、その御名を高く掲げて歩む者に与えられる力の大きさを教えられる。私たちはどうだろうか?悪霊が恐れる相手になっているだろうか。それとも、平然と襲われてしまうような不信仰な者であろうか。

17日(金)使徒19章17-20節
 パウロとイエスの名を使って、信仰なしに悪霊追い出しをしようとした者たちは、悪霊によって反撃を受けた。イエスの名を利用すれば力が得られると安易に考える者たちは、いつの時代でもいるだろう。だが、それはイエスの御名を軽んじる行為であるだけでなく、悪しき存在からも蹴散らされる愚かな行為であった。このことを通して、ユダヤ人もギリシア人も皆恐れを抱き、イエスの御名をあがめるようになった。悪霊のことばを通して、かえってイエスの権威が現わされることになったことは皮肉である。この出来事によって、人々は自分たちのしていた行為を告白した。19節にあるように、これまで魔術を行っていた者たちも、その書物を燃やしている。その書物の総額は銀貨五万枚とあり、相当な額だ(現代日本の価値では、五億円ぐらいか?)。彼らなりの悔い改めの姿勢であると言えよう。このような告白、悔い改めが起こる時、主のことばを力強く証しされていく(20)。私たちも主を軽んじることなく、自らの過ちを正直に告白し、歩みを改めていきたい。神のみことばが力強く広まるために!

18日(土)使徒19章21-32節
 パウロはテモテとエラストをマケドニアに遣わし、一方で自分はアジアにしばらく留まった(21-22)。その頃、ある事件が起こった。デメテリオという銀細工人がパウロたちの活動を批判したのだ(26)。なぜなら、パウロの宣教によって、銀細工での偶像制作の利益が減ってしまい、収益にダメージが出ていたからだ。デメテリオは、営業妨害の問題に加え、女神アルテミスも軽んじられていると批判して、多くの人を巻き込もうとしたようだ(27)。こうして町は大混乱となり、パウロは騒ぎの中に入っていこうとするが、他の弟子から止められたのだ(30)。だが興味深いことに、32節によると大多数の人たちは、何のために集まったかさえ知らなかった」とある。いい加減なものである。本気でキリストやその教えを憎む者は多くはない。群集心理や人々の手前ということも大いにある。私たちはこの事実をしっかり受け止めておきたい。キリスト信仰や聖書を調べ、正しく理解した上で「あれは悪だ。酷い内容だ!人間をダメにする」などと言う者はほとんどいないのだ。歴史の中で大切にされ、多くの人を救い、素晴らしい道徳基準をもたらした聖書とその救いの知らせは、むしろ全世界で道徳の教科書のようにされ、多くの者がそれを信じているのだ。胸を張ろう!

19日(日)使徒19章33-40節
 エペソにおいて、銀細工人による扇動があって、パウロたちに対する反対する騒ぎが大きくなった。ただ、本気で反対する者が多くいたのではなく、ほとんどの者は騒ぎの理由さえわからずに、扇動されていたのであった。ユダヤ人たちは、アレクサンドロを前に出して会衆をどうにか静めようとした。ところが、彼がユダヤ人だとわかると、「偉大なるかな、エペソ人のアルテミス」と人々は騒ぎ立てた(34)。このように騒ぎは止まらず、混乱していた。だが、これは神の働きである。パウロらは何もできなかったのだが、この騒ぎは勝手に収まって行くのだ。その際に用いられたのは、町の書記官であった。彼は冷静に人々を説得し、騒ぎは沈静化していったのだ(35~)。教えられるのは、未信者が勝手に騒ぎ、そして未信者がこの騒ぎを鎮めたということだ。神のなさることは不思議である。キリスト者の外側からは反対者も起こるが、同じように助けも起こされるのだ!神のみわざである!パウロは何もできなかった。だが、神は未信の者を用いて、この騒ぎを収束させたのであった。いつでも、神のなさることに信頼しよう。

20日(月)使徒20章1-6節
 エペソでの大混乱が収まると、パウロは弟子たちを集め、彼らを励ました。そして別れを告げると、マケドニアに向かった(1)。その道中に通る地域でも、多くのことばを伝えて弟子たちを励ましながらギリシアに着いた(2)。厳しいイメージもあるパウロだが、彼がいつも「励ましの人」であったことに気づかされる。様々な危険を冒してでも、各地域に行っては弟子たちを励ましていた。また、身動きの取れない獄中であっても、手紙を通して多くの弟子たちを励まし育てている。主の働きは必ず「人を通して」なされる。主は人を用いてくださるのだ。だから、それぞれの賜物が引き出され、勇気づけられるように励ましていく働きはいつでも重要である。私たちはしばしば、育てようとする思いはあるものの、否定的なメッセージによってそれをするために心を萎えさせてしまう。パウロの厳しさのすぐ脇には、愛があって、またフォローがあって、常に励まし支える気遣いがあったのだ。

21日(火)使徒20章7-12節
 週のはじめの日、パウロやルカたちは日曜日にパンを裂くために集まった。いわゆる「聖餐式」である。その翌日にはパウロが出発するということで、皆で夜中まで語り合ったのだ(7)。場所は屋上の間(アパルーム)で、それは空が見える屋上ではなく、屋根裏部屋だった(8)。その狭い空間に多くの者が集まり、ごった返していたのだろう。その際、ユテコという青年が窓に腰かけていたが、眠気がさして三階から落ちて死んでしまったのだ(9)。彼の不注意なのだろうか?そうではないだろう。狭い空間に多くの者が集まっていた。彼は若いゆえに、年長者に良い席を譲っていたのではないか。彼の優しさと理解する方が状況に即していると思われる。それゆえに起きた悲劇だ。だが、それは神のみわざが起こる機会となった。パウロは身をかがめ、彼を抱きかかえ、「心配することはない。まだいのちがあります」と言った(10)。既に死んでいたはずだが、彼は生き返り、人々はとても慰められたのだ(12)。私たちが主を真剣に求め、隣人を愛して生きる時、神もそれを応援し、支え励ましてくださるのだ!

22日(水)使徒20章13-16節
 パウロは何をするにしても、神のみこころを第一として、特に宣教のためにどうするかについて、優先順位をもって臨んでいたことがわかる。13-16節を読むと、一見ただの移動に関する情報のように思われる。しかし、22節で「私は今、御霊に縛られてエルサレムに行きます」とあるように、神のみこころを常に求めて行動していたのだ。だから、陸路を使うのか、海路を使うのかも、自分の気分や便利さでは選ばなかった。16節によると、パウロは愛する兄姉のいるエペソをあえて避けている。それは、アジアで時間を取られて、エルサレムへの到着が遅れてしまわないようにするためであった。彼は感情で動いていない自分の思いを優先していないただ、神の御霊が望まれる道を選び続けた。私たちも盲目的な自分の感情を神とせず、生けるまことの神、全能なる主を自分の神とし、この方に従って行こう。

23日(木)使徒20章17-21節
 私たちは、他の人の事はなぜか強そうに見える。できる人に見える。パウロも非常に強そうに見える。だが、彼もまた涙しながらここまで来たごく普通の人だ。パウロはエペソの長老たちをミレトスに呼び寄せて語った。どのように苦労しながら歩んできたかを。19節によれば、彼はユダヤ人の陰謀による数々の試練の中で、謙遜の限りを尽くして歩んできたと語る。「謙遜の限りを尽くす」というのは、ただの謙遜ではない。それはキリストが十字架にまで従われた謙遜をモデルとしている。それが楽な道のはずがない!それは簡単ではなかった。彼は「涙とともに主に仕えてきました」と語る。涙なしには乗り越えられない日々であったとわかる・・・。パウロも苦しんできたのだ。しかし、彼は自分のためにではなく、キリストのために苦しんだ!パウロでさえ、福音の苦しみに涙してきたことを忘れてはならない!誰もが弱く、誰もが苦しみながら歩んでいる。ただ、涙とともに「主に仕える」とき、主はその苦しみの涙、悲しみの涙を、やがて喜びの涙に変えてくださるのだ

24日(金)使徒20章22-27節
 「御霊に縛られてエルサレムに」行くとパウロは表現している。23節によれば、聖霊が自分に示しているのは、どの町に行っても「鎖と苦しみ」が自分を待っているということだ。それは決して、明るい未来とは言えない。あなたならどうだろうか?誰でも歓迎できないだろう。けれども、パウロは何のために苦しむのかをよく知っている。24節で、神の恵みの福音を証しする任務を全うできるなら、自分のいのちも惜しくないと彼は語る。彼は人生の目的が明確なので、揺るがされることなく歩んでいたのだ。しかも、伝えるべき福音の価値をよく知っていたのだ!!パウロは、だれの血に対しても自分にはもう責任がないとまで語る(26)。それは、彼が精一杯福音を伝えてきた事実を示している。神のご計画のすべてを余すところなく伝えたと言う。これは簡単なことではないが、私たちも聖書全体を学び、味わい、そして聖書のあらゆる恵みをどんどん人々に紹介していこう!!求める人には、惜しみなく提供していこう!

25日(土)使徒20章28節
 パウロのエペソ長老たちへのメッセージは続いている。28節で「あなたがたは自分自身と群れの全体に気を配りなさい。神がご自分の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、聖霊はあなたがたを群れの監督にお立てになったのです」と語られている。第一に、自分自身に気を配ることがまず教えられた。それは、自分の霊性やからだのケアを怠らないようにとのことだろう。自分のコンディションが悪ければ、結局良い働きは一切できなくなるからだ。あなたの霊性、信仰の状態、体調はどうだろうか。第二に、神がご自身の血をもって買い取られた教会の群れ全体に気を配ることを、忘れてはならないということ。教会は主のものである。人のものではない。そして、全体なのだから、自分が好きな人だけではないということ。あなたは教会に来ている人をどれだけ覚えているだろうか。第三に、牧会の働きに任じたのは神ご自身であって、聖霊の助けなしにはできないということだ。たとえあなたが牧師ではないとしても、これらの真理は心に覚える必要がある。そういう人が増えていけば、教会はなんと豊かな良い場所になるだろうか・・・

26日(日)使徒20章29-31節
 パウロが去った後に狂暴な狼がエペソの交わりの中に入り込み、容赦なく群れを荒し回るとパウロは警告している(29)。どの国、どの時代でも起こりえることである。それだけでなく、エペソの長老たちの中からさえ、曲がったことを語り、弟子たちを神にではなく、自分に引き込もうとする者が起こって来ると告げている(30)。敵対する狼だけでなく、羊の中からも、他の羊を間違った方向に引っ張ってしまう羊が起こると伝えたのだ。人は、自分に他者の心がなびくことに快楽を覚える場合がある。自分の信奉者を増やしたいのだ。私たちも自分に人を引き寄せたくなる誘惑がある・・・それは心地よいからだ。ファンがいるのは嬉しいのだ。だが、私たちではなく、主に人々の心を向けさせたい。そのためにも、しっかりと霊的な目を覚まし、備えておくようにとパウロは伝えた。特に、3年の間、夜も昼も涙をもって教え導いてきたことを思い起こし、信仰の目をしっかり覚醒させておくようにと。

27日(月)使徒20章32節
32節 今私は、あなたがたを神とその恵みのみことばにゆだねます。みことばは、あなたがたを成長させ、聖なるものとされたすべての人々とともに、あなたがたに御国を受け継がせることができるのです。  パウロはもしかすると二度とは会えないかも知れないという思いを抱いており、それゆえに神と、そのみことばにゆだねると明言した。それしかないと同時に、それが最善であるからだ。パウロという人間ではなく、神のみことばこそが人を成長させ、御国を受け継がせるようにするからだ。私たちはいつまでも生きているわけではない。関わりたいと思っても、離れ離れになることもある。できない日も来る。だから、いつでも神ご自身と、そのいのちのみことばにゆだねる姿勢を大事にしよう。いや、むしろ、聖書のみことばある限り、人はどこででも、そのみことばによって豊かに成長できるのだから、なんと安心なことであろうか。

28日(火)使徒20章33-38節
 パウロは自分の生活の必要を自分で稼ぎながら宣教した人物で、それは並大抵のことではなかったと思われる。彼は、自分の過去の所業を強く悔いていたゆえに、経済支援を受けることなく、自身で糧を得ながら宣教者として歩もうとしたのかも知れない。そして、彼の使信としてのイエスのことばが紹介されている。「受けるよりも与える方が幸いである」と(35)。これはパウロが別れ際最後に伝えたことばだ。二度と会えないとの思いの中で伝えたことばだ。パウロはこの大切なことばを、長老たちにいつも覚えて歩むように励ました。彼らはともに祈り、声をあげて泣き、何度もパウロを抱きしめ、そしてパウロを送り出した(36-38)。私たちもいつもこのことばに心を留めようではないか。受けられていない不満に満ちてはいないだろうか。自分の祝福ばかりを考えていないだろうか。足りないところばかりを見るのをやめよう。主があなたに与えられている豊かさに目を開かれ、それを他の人に分かち、与える者となっていこう。神はそこに、さらなる恵みを増し加えてくださる!

29日(水)使徒21章1-6節
 パウロの第三次宣教旅行は終わりに近づいていた。エペソの人々と別れた後、マケドニア地方を経由し、いよいよエルサレムに向かっていく途上、一行はツロに入港した(2)。そこでキリストの弟子たちを探し、彼らのもとに七日間滞在した。そこでパウロは、御霊によって示された兄弟たちから、エルサレム行きを止められたが、それでも進んで行くのであった。さて、この地には、ステパノの殉教によって散らされた人々や、その人々から伝道されて救われた人々がいたと考えられる。そうであるならばこれはすごい場面でもある。パウロは、ステパノ殺害に加担した人物。パウロのせいで散らされ、止む無くここまで逃げるようにして来た人々。彼らがパウロを迎え心配してくれている。それは、クリスチャンの赦しの姿ではないか。彼らは別れ際にも家族総出で海岸まで見送りに来て祈った。イエスに従う者は、このように赦しの人である。私たちも和解の福音を信じたのであるから、赦しの恵みをに生きていこうではないか!

30日(木)使徒21章7-14節
 カイサリアに着くと、信徒伝道者のピリポの家に滞在することになった(8)。そこで長く滞在している間に、ユダヤからアガポという預言者が来てパウロのこれからについて預言した。パウロの帯を取った彼は、この帯の持ち主がユダヤ人に縛られ、異邦人の手に渡されると言うのだ。それを聞いた弟子たち、またこの地域の人々もパウロにエルサレムには行かないようにと懇願したのだった(12)。ところがパウロは言った。「あなたがたは、泣いたり私の心をくじいたりして、いったい何をしているのですか。私は主イエスの名のためなら、エルサレムで縛られるだけでなく、死ぬことも覚悟しています」(13)。かつて、ペテロがイエスを止めようとして、「あなたは神のことではなく、人のことを思っている」と注意された場面を思い出す。ともすると、その人のことを思って止めることが、主に仕え献身する者の覚悟を惑わし、神への反乱のようになることもある。人の思いではなく、神の思いを最優先にしていきたい。人のことは一時的で、神のことは永遠に残るのだから!

31日(金)使徒21章15-26節
 エルサレムにパウロ一行が到着すると、兄弟たちはパウロを喜んで迎え入れた(17)。そして、リーダー的立場のヤコブを訪問した。彼はイエスの実の弟のヤコブであろう。パウロは彼らにこれまでの異邦人宣教の報告をし、彼らはこれを聞いて神をほめたたえた(20)。だが、パウロの心配もしている。なぜなら、20-21節にあるように、パウロがモーセに背く教えをしているとして批判するユダヤ人が多くいたからだ。それで、ある対策を立てることにしたのだ。それは、パウロが律法に反して生きようとしているわけではないことを、ユダヤ人に見える形で示すことであった。律法に従って誓願を立てている4人の者を連れて行き、一緒に清めの儀式をし、彼らの費用までも出すことによってであった(24)。パウロがこれに従ったのは、保身のためではない。むしろ、宣教のためであろう。ユダヤ人にはユダヤ人のようになって、宣教する姿勢だ。この世と調整を合わせてはいけない。だが、相手の価値観を理解し、それに対する理解と敬意を示しながら、証しをしていく知恵は大切である。相手の価値観を否定するだけの宣教にならないようにしよう。




引用元聖書
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