*** 10/19(日)主日礼拝 説教概略 ***
先々週、元カルト宗教の信徒で、現在牧師をなさっている方の講演を視聴させていただき、とても教えられました。若い頃に感じていた空しさに付け込まれ、偽りと上辺の優しさに騙されたということでした。マインドコントロールが進むと抜け出すのも大変です。
しかし、そこから救い出してくださったのは、本物の神様との出会いであったのです。「人の心には神の形の空洞がある」とのパスカル言葉を引用されつつ、カルトでは決して埋められなかった心の空洞が、神様との人格的な愛の交わりによって埋められたと言うのです。
本物の愛だけが、その空洞を埋めることができるのです。
今日のみことばでは、偽物の神・偶像で心を満たそうとして、目も当てられない酷い姿になっている神の民があります。神様は、そこからどうしても救い出したくて、厳しい怒りを示しながらご自身との交わりへの回復を訴えておられるのです。
1.神の拒絶(祈りの拒絶16–20節/ささげ物の拒絶21節~)
① 祈りの拒絶
16節はとても珍しい個所です。なぜなら、神様が預言者エレミヤに「この民のために祈ってはならない」と命じた場面だからです。なぜなら16節の最後で「わたしはあなたの願いを聞かないからだ」と告げられているからです。つまり、この民のためにどんなに祈ろうが、私はその祈りを聞くつもりがない、だから「もはや祈るのをやめよ」と主は言われたのです。これは衝撃的です。神が祈りを拒絶するという前代未聞の惨事です。
一体何があったのでしょうか。
それは、神様が唖然とするほど、この民が邪悪な偶像礼拝を続けていたからです。もはや、こんな邪悪な者のために祈るのもはばかられる。そんな状況だったのです。
18節に「天の女王」という偶像に、家族総出でささげ物をしている様子があります。子どもたちは薪を集め、父たちは火をたき、女たちは麦粉をこねて「天の女王」のための供え物をせっせと用意しました。天の女王とは、響きはいいですが、いかがわしい偶像。アッシリアやバビロンの女神イシュタルのことでした。これは、性愛と戦いの女神です。なので、売春と暴力を正当化するものでした。つまり、人の醜い欲望を正当化させるために生み出された都合の良い偶像なのです。それは儀式として性行為を行い、戦場での殺戮がイシュタルへのささげ物とされるのでした。性的不品行と殺戮を神が喜ばれるものだと言うわけです。
さらに、少し先の31節では、「自分の息子や娘を火で焼く」という偶像礼拝儀式がなされていたことが分かります。これはモレクという偶像の儀式でしたが、狂気の沙汰ですよね。神様はそこで、「思いつきもしなかったことだ」と唖然としたことを伝えています。だから神様は、本気でお怒りになったのです。祈りを拒絶するとの主張をするほど。その本気度が伝わります。主は深く悲しみ、怒りに燃えておられたのです。
20節 それゆえ、神である主はこう言われる。「見よ。わたしの怒りと憤りは、この場所に、人と家畜、畑の木と地の産物に注がれ、それは燃えて、消えることがない。」
主はなんとかして、人々を立ち返らせたいと願うゆえに、厳しいことばもくださるのです。
② ささげ物の拒絶
このような酷い偶像礼拝が盛んでありながら、当時の神の民、南ユダ王国の人々は、神様への礼拝も行っていました。なんという偽善、裏切りでしょうか。21節は、この偽善を痛烈に皮肉る神のことばです。
21節 イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。「あなたがたの全焼のささげ物を、いけにえに加え、その肉を食べよ。
16節では、神様が祈りを拒絶されましたが、今度はささげ物を拒絶しているのです。神様は「あなたがたのささげ物なんて受け取らない、いらない。だから自分で食べよ」と言われました。なぜなら、彼らのささげ物には愛がなかったからです。ご機嫌取りの偽りのささげ物です。この課題は、創世記の最初から神様が示されていたことでした。創世記4章3-5節を開きましょう。
3節 しばらく時が過ぎて、カインは大地の実りを主へのささげ物として持って来た。4節 アベルもまた、自分の羊の初子の中から、肥えたものを持って来た。主はアベルとそのささげ物に目を留められた。5節 しかし、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それでカインは激しく怒り、顔を伏せた。
ささげ物をした二人の兄弟でした。アベルは受け入れられ、カインは受け入れられなかったのです。何の差でしょうか。穀物がダメで動物はOKとは聖書は言っていません。では何の違いでしょうか。こうあります。4節で「主はアベルとそのささげ物に目を留められた」。5節では、「カインとそのささげ物には目を留められなかった」と。「アベルのささげ物」「カインのささげ物」とは記されていません(原語もそうです)。
そして、どちらも人が先に出て来ます。神様は物より人を見ているのです。アベルに目を留めたので、そのささげ物を喜ばれ、カインには目を留めなかったので、そのささげ物も受け取らなかったのです。神様がご覧になっているのは物じゃないのです。常に、人とその心、その姿勢をご覧になっているということです。ゆえに、神様を愛するゆえにささげた物なら、たとえそれがこの世では価値が低いものであったとしても、主はそれを何より喜ばれるのです。
例えば、同じ1000円をもらってもその背後に何があるかで、全く意味が違うものです。ずっと昔の話ですが、忘れられないことがあります。日曜の帰りが遅くなり、妻も私も疲れきって夕飯を用意する気力ゼロ。その時に外で食べる話をしていたら、小学校低学年ぐらいだった子どもが、自分のお小遣いから出すと言い出しました。
出してくれたお金は1,000円。大人からしたら大きな額ではありません。しかし、その子の当時の小遣いは月400円。献金の分を除くとさらに手元に残る額は小さくなります。1,000円は、およそ3ヶ月分です。
でも、誰からも言われることなく、家族のために出したいと言うのです。食事をご馳走になったことは少なからずありますが、この1,000円は忘れられません。どの1000円より重い。金額ではないとわかります。その背後にある心を私たちも感じるからです。私たちを元気づけるための気持ちです。この気持ちが嬉しいと感じられるのは、私たちが愛の神様に似せられたからではないでしょうか? ここに立ちませんか。
2.主が本当に求めているもの
神様が求めているものを知りましょう!エレミヤ7章に戻ります。22節で神のことばとして驚くべきことが語られています。
22節 わたしは、あなたがたの先祖をエジプトの地から導き出したとき、彼らに全焼のささげ物や、いけにえについては何も語らず、命じもしなかった。
神様は供え物が欲しいわけじゃないのです。正直言えば、いらない。なぜなら食べなくても永遠に生きられる方なのだから。神様は一貫しています。それらの物自体ではなく、私たちがどのような心でそれをするのかをご覧になっているのです。ハートを求めているのです。それゆえに、神様が具体的な姿勢として求めていることが一つあります。23節です。
23節 ただ、次のことを彼らに命じて言った。『わたしの声に聞き従え。そうすれば、わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。あなたがたが幸せになるために、わたしが命じるすべての道に歩め。』
「わたしのことばに聞き従いなさい」というただ一点です。主が命じたことは「いけにえ」ではない。物ではない。形ではない。神への愛です。愛している相手の話は聞きたいですよね。マリアが姉妹のマルタのように忙しく奉仕するより、イエス様の話に聞き入っていたように。神様との人格的な交わりを絶えず持ち続けること。これこそが、神様が一番喜ばれることです。それは、機械的な従順ではなく、神様との人格的な交わりのことです。
Ⅰサムエル15章22節にこうあります。「主は主の御声に聞き従うことと同じほどに、全焼のいけにえやその他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ、聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。」 「聞き従うことは、いけにえにまさる」とはっきり語られています。そして、ホセア書 6章6節ではこうもあります。「わたしが喜びとするのは真実の愛であって、いけにえではない。」 ここでもいけにえではない!そして、主が喜ばれるのは「真実の愛」だと分かります。神様は贈り物を求めていない。あなたとの人格的な愛の交わりを求めているのです。お互いを思い合い、親しく語り合い、一緒にいることを喜ぶ関係です。
主イエス様は、このホセア書6章6節を引用して外面ばかりを気にするパリサイ人らに教えました。形式的・外面的な宗教行為ではなく、愛とあわれみに生きることこそ、神に喜ばれるささげものだと。あなたが献げる物ではなく、形式的なお務めではなく、あなたの真実な愛を喜ばれるお方。
エレミヤ7章23節に、こうあります。『わたしの声に聞き従え。そうすれば、わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。あなたがたが幸せになるために、わたしが命じるすべての道に歩め。』 神の声に聞き従う時、神様と私たちは一つとされていくのです。ここに「そうすれば、わたしはあなたの神となり、あなたがたはわたしの民となる」とあるではありませんか。それはまるで「彼女は私の妻、彼は私の夫です」と紹介する夫婦のようです。自分がされて本当に嬉しいことを、神様にするべきではないでしょうか。
主が求めているのは形じゃない、物じゃない、成果ではない。あなたの真実な愛です。嘆きも叫びも率直にする交わりです。あなたとの心が通じ合う人格的な交わりです。ここに歩む時、私たち自身の心の空洞も、神様との愛の交わりによって満たされていきます。先週学んだように、満たされるまで、主に求めるのです。偽物の偶像では絶対に満たされない心の隙間。ここに入るべき愛をいつも求め、私たちも主を愛していきましょう。
引用元聖書
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