東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ピリピ1章6-8節「愛の共同体」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2025/10/18

ピリピ1章6-8節「愛の共同体」

*** 10/15(水)祈祷会 説教概略 ***

 日~月曜にかけて教会のリトリートが持たれました。時間としては決して長くはありませんでしたが、それでも普段よりゆっくり皆で過ごすことができ感謝でした。私たちのほとんどは普段は別々の場所で生活しています。教会で会うとしても、多い時で週3ぐらいでしょうか。限られた時間です。だから、ほとんどの時間、私たちは離れた別の地で過ごしています。



 ところが、この手紙を味わうと、パウロとピリピの兄姉たちが離れた地にありながらも、主の愛によって結び合わされ、喜びも苦しみもともにし、祈り合って歩んでいたことが分かります。私たちの強みは、キリストによって結び合わされていることなのです。それは物理的な距離を超えられる繋がりです。離れた地に置かれても、帰って来る場所があります。そして、このキリストの愛の結び目は誰にも破壊できないものです。その上、私たちがやがてたどり着く場所も同じ主のみもとです。キリストの愛によって結び合わされた共同体について、ご一緒に教えられましょう。

 

6節 あなたがたの間で良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださると、私は確信しています。 

 神様がピリピのクリスチャンたちの間で良い働きを始めてくださり、キリストの再臨の日に完成すると語られています。その良い働きとは何でしょうか。

 それは、人が救われて新しく造り変えられ、キリストの似姿になっていくことです。それがキリストの共同体に主がなさっている良い働きの中心です。事実、ピリピで救われた最初の人々の中に、自害しようとした看守がいたことをお話しました。絶望して自ら命を終わらせてしまおうとした死の淵にあった人物です。その人と家族が絶望から希望に満ちた救いに入れられました。死のうとしていた人が、人々を死から救い出す愛の働きの最前線に立つ者となりました。5節にありましたように、彼らは救われた最初の日から、今に至るまで、パウロたちと心を一つにして「福音を伝える」働きを一緒にしてきたのです。それゆえの恵みが豊かにありました。どんな困難があろうとも、この良い働きを続けるように励まされているのです。

 そして、この良い働きは必ず最後に完成に至るのです。この確信は、同じ手紙の320-21節でこのように語られています。
 
3章20節 しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。
3章21節 キリストは、万物をご自分に従わせることさえできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださいます。 

 ここに完成図が示されていますね。最後は私たちのこのからだが栄光に輝く主イエス様と同じ性質のからだに変えられます。ですから、ゴールは用意されています。それは本当に希望です! 

 私たちもまた、神によって始められた良い働きを一緒にしている共同体です。その場所や働き方は違っても、何のために働いているのかは同じです。力をくださる方も同じです。主のため、人の救いのために労しています。主によって力を与えられての愛の働きです。ですから、同じキリストによって絶えず守られ、結び合わされている共同の働きです。

そうであれば、私たちは一人で奮闘しているようでも、孤独ではないのです。

同じ主の働きをする仲間が多くいるのです。
そして、ピリピの兄姉姉妹の全員について、パウロはこの確信を持っているといいます。

7節 あなたがたすべてについて、私がこのように考えるのは正しいことです。あなたがたはみな、私が投獄されているときも、福音を弁明し立証しているときも、私とともに恵みにあずかった人たちであり、そのようなあなたがたを私は心に留めているからです。

 パウロはピリピの兄姉たちを「福音宣教の同士・戦友」だと考えていたのでしょう。この働きを一緒にしてきた、だから、同じ恵みを受ける仲間である。

 でも、これは、この世の価値観では言えないことです。なぜかと言えば、パウロとピリピのクリスチャンたちは、離れて歩んでいるからです。同じ場所にいないのです。パウロは多くの地域を行き巡り、彼らから離れていました。この手紙が書かれた際も、パウロは牢の中。彼らは一緒にいないし、一緒に働きをしてもいません。その場合7節にあるように「私とともに恵みにあずかった人たち」と語るには、普通は無理でしょう。

 しかし、キリストにある者は違うのです。リトリートで歌った賛美にOne Familyという曲がありました。昨年3名の姉妹たちが作ってくれた曲です。その歌詞に「たとえ遠い地にいても たとえつらく苦しいときも 主によって一つとされる」とあります。離れて遠い地にいても、主によって一つとされる共同体です。それが「キリストのからだ」、「神の家族」なる教会です。しかし反対に、たとえ一緒に同じ空間にいても、互いに関心を持たず、愛し合わず、手を取り合わなければとは一つではないのです。同じ場所で礼拝をし、奉仕をしていても心がバラバラなら、それは同じ恵みを共有する仲間とは言えません。だからパウロは8節で、愛の心で歩むことを教えています。

8節 私がキリスト・イエスの愛の心をもって、どんなにあなたがたすべてを慕っているか、その証しをしてくださるのは神です。 

 イエスの愛で、ピリピの兄姉たちを慕っているのです。どんなに離れていようとも神の恵みをともに受ける一つの共同体になれるのは、「キリストの愛」によって結ばれるからなのです。キリスト・イエスの愛がどんな時でも私たちの中心です。この愛が結び目なのです。

 これが失われれば、どんなに教会の制度やルールが整備され、会堂が立派に整えられていても、その群れは一つになれません。このキリストの愛はどのような愛だったでしょう。イエス様が示されたのは、仕える愛でした。弟子の足をひざまずいて洗い、罪深い私たちのために喜んで死んでくださる愛でした。パウロは、ピリピの兄弟姉妹のためなら、イエス様に倣って喜んで膝をつき、汚れた足を丁寧に洗い、喜んで自分を犠牲にするでしょう。

 そして、この愛を証しして下さるのは神ご自身だと語られています。愛を押し付けたり、自慢したりしません。愛を証しし、分かるようにしてくださることも、神のみわざなのです。伝える努力は最大限にしても思うように伝わらないことが多くあります。「親の心、子知らず」という諺もあります。親の心配、陰での涙、そして祈り。それらは決して目に見えて、分かりやすいものではないのです。愛は見えませんから。けれども、神様が証しして下さるのだと知る時、「それでいいではないか」と思わされます。今は分からないかも知れない。完全には伝わらないだろう。けれども、神様は相応しい時に、相応しい方法で示して、その人に分からせてくださる。信じてゆだねていきたいのです。愛がそこにあるなら、主はご存知なのですから!大丈夫です。

 ご一緒に教えられて参りました。私たちの多くは、普段はそれぞれ異なる地で生活します。その労苦や困難も異なるでしょう。しかし、その本質においては、私たち誰もがキリストの愛に生きようとしています。家事をしても、学びをしても、掃除をしても、何かを作っても、販売しても、教えても、同じキリストに愛に生きるのです。人の救いを願い、神の栄光のために!ですから、キリストの愛にとどまり、その愛によって結ばれて歩みましょう。 



引用元聖書
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