*** 10/12(日)主日礼拝 説教概略 ***
以前、日光の「いろは坂」を車で登っていた時のことです。ガソリンを入れ損ねて登り坂に突入したため、燃料ランプが点灯しながら、長い坂道をクネクネと登っていました。登り坂の途中で燃料が切れたらと思うと、気が気ではありませんでした。前に進み続けるためには、燃料が十分になければならないのです。そして登り坂ほどより多くの燃料が必要でしょう。
人生においても試練の坂を幾度となく登る必要がありますね。それでも前に進みたいなら、神様からたましいのタンクを満たされて、力をいただかなければ進み続けられません。私たちの信仰生活は、自力ではすぐに枯渇し、進めなくなります。神様との親しく豊かな日々の交わりによって、しっかりとたましいのタンクを満たされながら、前に進んで参りましょう。
1.離れていく者がいないように
4節 一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかる者となって、
5節 神のすばらしいみことばと、来たるべき世の力を味わったうえで、
6節 堕落してしまうなら、そういう人たちをもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、さらしものにする者たちだからです。
ドキっとする鋭いことばです。天からの光に照らされ、その賜物もみことばも存分に味わった上で、それでも救いを放棄し堕落するなら、その人を悔い改めに立ち返らせることはできないと語られています。
7-8節では、それを農作地にたとえています。実りを生む良い地は祝されるが、実りを全く生まない雑草だらけの地は、最後は焼き払われると言うのです。
こうして、キリストから決して離れずに歩むよう励ましています。キリストから離れては実を結べないからです。しかし、人に自由な意志がある以上は、理論的にはキリストを捨てる道を選ぶこと自体は可能でしょう。ただ、理論上は可能だとしても、実際にそうする人がいるかどうかは別の話です。ですから、著者も実際にそういう者がいたとは言っておらず、「そうならないように」と警告するにとどめています。私も、キリストの恵みの強さ大きさのゆえに、一度心から信じたなら、そこから完全に離れる者などいないと信じています。
けれども、人は弱いからこそ、こうした警告を真剣に受け止める姿勢は大切ですよね。「何でもいいよ。何をしても平気だよ」というのは、まるで偽預言者。一見優しいようですが、本当に心配していることばでしょうか。むしろ、「離れてはダメですよ」、「退かないで、ぜひ来てくださいね」と言い続ける愛をお互いに大事にしたいのです。時に煙たがられるでしょう。しかし人は弱い。一歩離れたら二歩、三歩はもっと簡単です。キリスト信仰を捨てるまでは行かないにしても、恵みの場から離れている時、人は弱くなり、未信者と何ら変わらない日々になることもあり得るでしょう。
それで著者は、6節にあるように、恵みを体験した上で尚、キリストに敵対するなら、それは「神の御子をもう一度十字架にかけて、さらしものにする行為」だと警告しているのです。主イエス様を、再び、あの惨い十字架にかけ辱めるようなことを、私たちは決してしてはらない。そう思いませんか。ですから、互いの信仰のために祈り続けることを辞めてはなりません。キリスト信仰には、カルトのような強制も洗脳もマインドコントロールもありません。それゆえに、祈りと愛によって人々を励まし続け、忍耐深く声をかけ続けるのです。
2.過去も今も、これからも・・・
しかし、著者がより積極的に伝えたいことは、9節以降にあります。
9節 だが、愛する者たち。私たちはこのように言ってはいますが、あなたがたについては、もっと良いこと、救いにつながることを確信しています。
著者はむしろ、読者たちが、離れて堕落することではなく、救いの恵みの中で豊かにされることを確信しているのです。神の愛に立ち、神にあって期待し、心から祈ってこの手紙を書いているのでしょう。色々な課題を抱えた読者たち。中にはキリスト信仰をやめて、ユダヤ主義に戻る誘惑を覚える者もいたはずです。しかし、イエス様を信じたならば、最後は必ず戻って来ると確信し、そのための主のみわざに自分も参与しているのです。この手紙を通して恵みに気づかされ、より熱心に主イエス様に従えるよう願い語りかけるのです。
信じるか信じないか、そんなところで悩み続けて、それで人生を終えて欲しくないのですよね。この直前で語られていたように、「成熟目指して、イエス様目指して」前に進んで欲しいのです。そこで、10節で、これまでの歩みをしっかり認めながら、神様に目を向けさせています。
10節 神は不公平な方ではありませんから、あなたがたの働きや愛を忘れたりなさいません。あなたがたは、これまで聖徒たちに仕え、今も仕えることによって、神の御名のために愛を示しました。
このことばに本当に励まされます。読者たちが、未熟ながらもこれまで聖徒たちに仕え、今も仕え続け、神の御名のために愛を示してきたことを、神は決して忘れないのです。「仕える」という動詞の時制を使い分けることによって「過去も仕えたし、今も仕え続けていますよね」と表現されています。歪みや未熟な私たちの歩みです。奉仕も不十分で、失敗もあるでしょう。しかし、神様は未熟なその愛のわざにも心を留めてくださっているのです。「よくやったね。よくやっているね」と見ておられます。この優しく公平に見てくださる神様がおられるからこそ、信じて前に進みたいのです。
最初に「不公平な方ではありません」と語られています。完全な公平さの実現には、人の目に見えない部分をも見えなければいけません。神様には、賄賂もお世辞も二枚舌も通用しません。すべてを知って公平に判断できるのです。調子がいい人、上辺を繕う人もいる中で、見えない苦労も努力も見ていてくださるのです。こうして、主の見守りの中で、過去から現在まで来たのです。だから、この先の未来についても、最後に至るまで、後ろに下がることなく、主に信頼して忍耐深く歩むようにと励まします。11-12節
11節 私たちが切望するのは、あなたがた一人ひとりが同じ熱心さを示して、最後まで私たちの希望について十分な確信を持ち続け、
12節 その結果、怠け者とならずに、信仰と忍耐によって約束のものを受け継ぐ人たちに倣う者となることです。
4-8節では厳しいことが語られていました。でも、その厳しさは愛からのものなのですよね。箴言に、自分の子にむちを控える者は、その子を憎む者だとあります。そして、愛するゆえに、幸いな道を示し励ますのです。著者と神様が何よりも切望していることがここにあります。11節にある通り、「これまでと同じ熱心さを示し、私たちの希望についての確信を最後まで持つこと」です。著者が伝えたいことは、これまで聖徒たちに愛をもって仕えたあの熱心さを、これからの将来への前進のため、霊的成熟のためにも同様に注ぎ続けて欲しいということです。 怠け者とならず忍耐深く続けることも、12節で触れられています。現代で言えば、聖書をしっかり学び続けること。礼拝、祈祷会をはじめ、教会の集会・交わりに集い続けること。そこで教えられ、育てられ続けること。批判され、反対され、笑われても続けること。その先に、12節にあるように、約束の報酬を受け継ぐ人たちに倣うことになるというゴールが待っています。
3. 主との交わりのうちに、熱心さを最後まで
そして、ここで問われていることは「熱心さの継続」です。熱意を正しい方向に向けて継続することです。一瞬なら、一時的なら熱い時があります。ある時は燃えて熱心に学び、奉仕する。キャンプに行った時、大会に参加した時、奇跡を経験した時は燃える。しかし、それを継続することが最も難しいのです。あの時の感動、あの純粋な初めの愛、まっすぐな信仰。どこに行ったのでしょうか。なぜ、続かないのでしょう?それは、私たちの気持ちや思いを拠り所にしているからです。「熱心」とは、「熱い心」と書きますが、その燃える熱はどこから来るのでしょうか。
イエス様の死に絶望し、エマオに向かう途上にあった二人の弟子の話がルカ伝にあります。彼らの心が再び燃やされたのは、何によってだったでしょうか。主イエス様とともに過ごし、みことばを語り合ったからです。イエス様とみことばを語り合ったからです。そして気が付けば、心が燃えていたのです。燃やされたのです。主イエス様との交わりによって。
祈りとみことばによって孤児院を運営し続けたジョージ・ミュラーはこう言います。「私の一日の最初の務めは、自分のたましいを神の喜びで満たすことであった」と。自分のたましいが、主のみことばと祈りによって満たされるまで、ディボーションが終わらなかったのです。主を離れなかった。離さなかったのです。満たされるまで!! 創世記のヤコブが、「私を祝福して下さらなければ、あなたを去らせません」と、必死に主にしがみついた姿を思い出します。満たされるまで、祝されるまで、主から離れない離さない。そのような求めに神様が答えてくださらないはずがありません。
ところが、私たちは満たされようとしません。50Lの燃料容器に、毎朝わずか1Lしか補充しないので、スカスカです。ごく短い時間、神との時間を慌ただしく過ごし、「今日も行って来ます!」と離れてしまう。霊的には、極めて貧しい食生活です。やせ細ります。倒れます。
私たちの思いや感情による熱心さは、すぐに枯渇するのです。しかし、祈りとみことばによって、主との交わりのうちに、たましいのタンクを満たしていただくならば、熱心さを保って走り続けることができるのです。そして、私たちは一人では弱いのです。ですから、この手紙は集まることをやめてはいけないとも語ります。こうして集まり、交わり、祈り合い、声を合わせて賛美します。薪は一本ならすぐ消えるでしょう。しかし、多くの薪が組み合わされなら簡単には消えません。
主は今日、私たちに親しく語りかけておられます。11-12節を再度お読みします。
11節 私たちが切望するのは、あなたがた一人ひとりが同じ熱心さを示して、最後まで私たちの希望について十分な確信を持ち続け、12節 その結果、怠け者とならずに、信仰と忍耐によって約束のものを受け継ぐ人たちに倣う者となることです。
主はこう言われるのではないでしょうか。「わたしの恵みは小さくない。わたしこそが、あなたのたましいを満たし、熱い思いを与えてあなたを進ませるものだ。あなたを堕落させるどころか、より豊かな祝された日々へと進ませるものだ。臆病になって退いてはならない。信じて前に進みなさい。神の恵み座へと大胆に進みなさい。あなたを全生涯に渡ってわたしが守り、祝福しよう」 信じて希望を告白しつつ、前に進もうではありませんか。
引用元聖書
聖書 新改訳2017©2017 新日本聖書刊行会