*** 5/18(日)主日礼拝 説教概略 ***
私たちは忙しすぎても、神様との時間を持てなくなります。一方で平和過ぎても、それはそれで神様に求めず、恵みも感じられなくなりやすいものです。そういった意味ではとても「繊細」であり、なんとも「わがまま」な私たちと言うべきかも知れません。特に、平穏に満ちた順風満帆な日々に、私たちは心を込めて祈ることが意外に難しい。
非常にうまくいっている日々に「今日、この日食べる物をください」、「仕事をください」、「家族を支えてください」と心を込めて祈ることが難しいのです。それらが当たり前に「今日もある」と無意識のうちに思っているからです。
でも、表面的に順風満帆ですが、それは信仰面では危うい時を迎えているのかも知れません。いつの間にか目に見える物、目に見える人に拠り頼んでいるかも知れないのです。
ですから、本日は、エレミヤを通して語られた主のことばに耳を傾け、順調な時こそ「主のことばに心すること」、そして、いつでも主にのみ拠り頼む信仰を教えられて参ります。
1.今こそ神のことばに心せよ
31節 あなたがた、この時代の人々よ。主のことばに心せよ。わたしはイスラエルにとって荒野であったのか。あるいは暗黒の地であったのか。なぜわたしの民は、「私たちは、さまよい歩きます。もうあなたのところには行きません」と言うのか。
「あなたがた、この時代の人々よ」と語りかけられています。まず「この時代の人々」とは、どのような人々でしょう。エジプトでの奴隷生活で超苦しんでいた時代の人々ではありません。不毛な荒野で超不便な時代を過ごした人々でもありません。
この時代の人々は、立派な領土があり、繁栄しており贅沢していた時代の人々。また、脅威だと思われていた北国のアッシリアが弱体化し、束の間の平和に酔いしれている時代の人々です。
だからこそ、本当は危なかったのです。
窮地ならば主に求めます。でも、平和だと思い込んでいるので祈りもせず、感謝もせず、自分を誇り始めるからです。すると、いつの間にか、神様から離れ、あらゆる歯車が狂い始めます。
それゆえ「主のことばに心せよ」と語られるのです。「人の歩みを確かにされるのは主である」とのことばを忘れているからです。
昨日の青年キャンプでメッセージされた先生は、ご自分のお父様が牧師でしたが、教会で色々あって、ある日、礼拝の最後に急に辞任を発表されたそうです。まだ学生だったこの先生は、まさに「青天の霹靂」でした。そして、その後、教会にほとんどの人が来なくなりました。当たり前のように集えていた場所が急に失われたのです(結果的に、このゆえに福音自由に集うことになり、献身に導かれたことは、主の不思議なご計画でした)。
ただ、安心して主のもとに集える場があることは、決して当たり前ではないのです。
私たちも、会堂返済が順調に進み、先週は4名の洗礼式も持てました。ただ、そのような時こそ、「主のことばに心せよ」という時です。「成功につける薬はない」と言われるように、順風満帆に見える時こそ、私たちの信仰を静かに弱らせるサイレントキラーであるからです。
神様は、「平安だ!平安だ!」と言って離れていく者に、このようにおっしゃいました。31節の続きです。「わたしはイスラエルにとって荒野であったのか、暗黒の地であったのか?」と。違いますよね。
むしろ、今ある生活はすべて主が備えてくださったものでした。何も持たなかった民に、多くを失った者たちに、土地も仕事も与え、食べ物を与え、安心できる場所を備えてくださったのです。それならば、本来、与えてくださる神様にいつも感謝して、ずっと親しく歩めば安心ですよね。ところが、31節最後にあるように、神の民は「もうあなたのところには行きません」と、自ら出て行ったのです。苦しみや困難が去ったら、もう不要ですと神を捨てたのです。この行為は、32節で皮肉られています。
32節 おとめが自分の飾り物を、花嫁が自分の飾り帯を忘れるだろうか。しかし、わたしの民はわたしを忘れた。その日数は数えきれない。
若い女性や花嫁が愛する人に会う時、化粧を忘れるとか、飾る事を忘れるなんてあり得ないでしょう。同様に、神様なしの幸せなどないのです。しかし、彼らは長きに渡って主を忘れたのです。それは、むなしい他のものに浮気をしているからでした。33節にこうあります。
33節 あなたが愛を求める方法は、なんと巧みなことか。そのようにして、あなたは悪い女にさえ、巧みに自分の方法を教えたのだ。
イスラエルの民が、神様から別の相手に乗り換える仕方は、実に巧妙でした。それは男性を手玉に取る悪女にも指導できるほどで、いとも簡単にそうしたのです。そうやってこの民は神様から、神様以外のものに乗り換えて行ったのです。
2.本当に平安なのか
さらに、34節では、神から離れているゆえに、普段の生活が「非道なもの」になっていることを指摘しています。
34節前半 あなたの裾に見つかるのは、咎なき貧しい人たちの、いのちの血。彼らが押し入るのを、あなたが見たわけでもないのに。
「咎なき貧しい人」とは、罪が全くないという意味ではありません。道徳的に真面目に生きている貧しい人です。不正をせず、真面目にコツコツ働いている人たちです。そのような人々の血がこの時代の人々の袖についているのだと。それは、力のある者たちが、貧しい者たちを虐げ、彼らから搾取している現実です。彼らの繁栄は、貧しい者たちの血の上に成り立っていたのです。それは神様のみこころから大きく外れた愛なき歩みですよね。そして、「彼らが押し入るのを見たわけでもないのに」とは、実際に悪事をしていないのに、悪者に仕立て上げ、不当に傷つけるということです。無実のイエス様に濡れ衣を着せ、十字架につけた人々とも重なります。
しかも、これらの悪事よりもなお悪いことがあります。それは34節後半から35節にあることです。それは「自己正当化」です。
34節後半 しかも、これらすべてのことにもかかわらず、35節 あなたは言う。「私は潔白だ。確かに、御怒りは私から去った」と。あなたが「私は罪を犯してはいない」と言うので、今、わたしはあなたをさばく。
自分たちでは、「私たちは選ばれた民だ、神が守ってくれるから大丈夫。アッシリアも弱ったし、神の我らへの怒りは去った!もう安泰だ!平安だ!」と言うのです。しかし、34節前半にあったように、証拠はその袖についた血です。神が愛している小さな者のひとりに、彼らはあわれみを示さなかったのです。いや、虐げてさえいたのです。どんなに立派なことばを並べようとも、その歩みを隠そうとも、袖の血がその人の罪を雄弁に語っているのです。主はその血を見ておられるのです。だから、「今、わたしはあなたをさばく」と主は言われました。私たちも愛すべき人を愛することなしに、失われゆく人に手を差し伸べることなしに、「平安です」と胸を張れるのでしょうか。隠した袖のわずかな血をも知っておられる方の前に、私たちは誰もが罪人なのです。
3.主にのみ寄り頼め
ですから主だけに救いを求め拠り頼みましょう!神ではなくエジプトに求めるなら搾取され、恥を見させられます。
36節 あなたはなんと簡単に自分の道を変えることか。アッシリアによって恥を見たのと同様に、あなたはエジプトによっても恥を見る。
ここでは、神様ではなく、エジプトに言い寄るならば、最後はかえって搾取され、恥をかかされ捨てられることを指摘しているのです。 同じような出来事として・・・マタイの福音書27章で、イエス様を裏切ったユダが、イエス様の死刑確定の報を耳にし、非常に後悔している姿があります。彼は祭司長たちと長老たちとの取引で受け取った銀貨30枚を、実は返しています。そして「私は無実の人の血を売って罪を犯しました」と言うのです。ところが、祭司長たちは「われわれの知ったことか。自分で始末することだ」と突き放しました。自分たちがユダをそそのかし、銀貨30枚で取引させたのに。しかも、「祭司長」「長老」といった神に仕える指導的立場でありながら、罪悪感に苦しむ者に手を差し伸べず、平然と見捨てました。このように、私たちに良くない道を選ばせ、神から引き離す者は責任など取ってくれないのです。
しかし、神様はどうでしょうか。100%の純愛であなたを愛しています。そこに損得勘定や不純な思いがないのです。だから、私たちの身を案じて、正しい道を示されるのです。嫌われようと、煙たがられようと。余計なお世話だと言われようと、キリストはあなたを愛しているので、どんなに拒まれようとも、あなたのために十字架で死なれるのです。見捨てないのです。ゆえに、イエス様は自分を3度も否定したペテロのためにも、喜んで十字架で死なれました。いやユダのためにも主は死なれたはずです。彼を愛していたのですから。
だから私たちは、神様からの37節後半のことばを真剣に受け取りたいのです。
主が、あなたの拠り頼むものを退けられるので、あなたが彼らによって栄えることは決してない。
神抜きにして本当の繁栄はないとハッキリと語ってくださる神様です。ある時は異性に依存します。ある時は親や子に依存します。ある時はカリスマ的な誰かに依存します。でも、その相手は、本当にあなたを滅びから救い出せるでしょうか。あなたのためにいのちも人生のすべてもささげて、救ってくれるのでしょうか。何があろうとも、どんな酷い目に遭おうとも、あなたに裏切られようとも、その人はあなたを見捨てず、見放さないのでしょうか。むしろ、その依存がその相手を潰すことにはならないでしょうか。
地位や権力、武力に拠り頼む者もいるでしょう。しかし、地位や権力、武力がかえってその人を滅ぼすものなのです。「剣を取る者は、剣で滅びる」と主イエスは言われましたですから。
神様ご自身が、「あなたの寄り頼むものを退ける」と言われているのです。「彼らによって栄えることは決してない」と釘を刺されたのです。神の代わりは誰にもできないからです。牧師も宣教師も神学生も神の代わりにはなれません。
ご一緒にみことばに聞いて参りました。主はあなたに語っておられます。今こそ、「主のことばに心せよ」と。その袖の血を知るわたしの前に、あなたは「平安だ」と言えるのかと問われます。真の平安は、神に身を避けることです。このお方のもとに平安も幸いもあるのです。
引用元聖書
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