東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ローマ14章13-23節「平和と霊的成長に役立つことを求めて」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2025/03/14

ローマ14章13-23節「平和と霊的成長に役立つことを求めて」

*** 3/12(水)祈祷会 説教概略 ***

 これまで自分と異なる人をさばかないことを教えられてきました。それよりも、生きるにしても死ぬにしても、すべてをキリストのためにすべきであるということでした。今日の個所はそれをまとめつつ、より神様に喜ばれる具体的な歩みが教えられていいます。

それは17節にあるように、御霊による義と平和と喜びに関することです。また、今日のタイトルにあるように、19節で平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つことを追い求めようということです。実は、昨日のほっとカフェも、人の成長に役立つことばを語る者になる、というテーマでした。隣人の成長に役立つことを求め、そのために献身し合っていく教会となれたら、なんと素晴らしいことでしょうか。自分だけが成長し、他の人はどうでも良いではなく、お互いの霊的成長に貢献し合う、促し合う交わりです。一緒に成長していけるというのは、とても嬉しいことですよね。

 さて、パウロはまず、13節で消極面のおさらいとして、「さばき合わないこと」と「妨げやつまずきになるものを置かないこと」を決心しましょう!と言います。

13節 こういうわけで、私たちはもう互いにさばき合わないようにしましょう。いや、むしろ、兄弟に対して妨げになるもの、つまずきになるものを置くことはしないと決心しなさい。 

 私たちは無意識のうちに人をさばく部分があります。気が付いたらしてしまっている。ですので、このように心に決めてしまうのだと言うのです。実は、パウロ自身は14節にあるように、「それ自体で汚れているものはない」と確信していました。そういう意味で、クリスチャンとして自由な価値観、強い信仰に立っていました。しかしながら、弱い者をつまずかせないために、その自由を野放しにしないでおく愛の決断をしているのです。15節にあるように、たかが食べ物のことで、他の兄弟をつまずかせないようにとの愛の配慮なのです。

 以前ある方が、とある宗教の僧侶の飲み屋での飲み食いが派手な姿を見て(泥酔していた姿を見て)、とても幻滅したというお話を伺ったことがあります。そういうことでつまずきをもたらすのは非常に残念です。それは飲み食いに限りませんね。私が金髪・ロンゲ・ピアスで外車を乗り回さないのは、小さなつまずきを避けるためです(笑)。もちろん、それが悪いと言うのではなく、宣教のためにそれらをする方もいらっしゃる。それが愛から出てしているのなら問題ないでしょう。ただ、私の場合は、それをしないことが愛だと考えているのです(お金もかかりますし 笑)。 

16節にこうあります。 

16  ですから、あなたがたが良いとしていることで、悪く言われないようにしなさい。

 私たちには様々な自由がありますが、その自由をもって人を建て上げるのか、それとも人をつまずかせるのか自由の行き先を「愛」によって制御する必要があります。自分の目に良いと思ってしていることが、しばしば他の人には悪いものになってしまうことがあるからです。士師記17:6にこうあります。「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた。」と。それゆえに、非常にハチャメチャで混乱した社会になっていました。自分の目に良いことが、神の目には悪いものとなっていました。それは、結果として、人々に悪いものをもたらすのです。

 今日のみことばの最後、23節を見ていただくと、そこに「信仰から出ていないことは、みな罪です。」とあります。少し極端な表現に思われるかも知れません。ただ、信仰から出てないというのは、ようは神様のみこころを無視して、自分の肉の欲から出ていることです。神から出ていないこと、つまり自分の目に良いと見えることを勝手にしているなら、それは人をつまずかせていく罪となり得るのです。ですから、「自分の目」ではなく、「神の目」に良いこと、神様に喜ばれる尊いことに生きて参りましょう。17節です。

17  なぜなら、神の国は食べたり飲んだりすることではなく、聖霊による義と平和と喜びだからです。 

 神の国の本質は飲み食いや外見などにありません。その本質的なところは、より霊的なことです。

 聖霊による義と平和と喜びだと語られています。「義」とは、神のみこころにかなっていることです。「平和」とは、神様との良い交わりのうちにある状態(ヘブル語では「シャローム」)です。そして、そこには心からの「喜び」が生まれます。これらは肉の行いによって得られるものではありません。聖霊によって満たされていくものです。

ですから、私たちは神の国の本質を求めていきたいのです。それらは神様を知った者、キリスト者にしかできないことだからです。19節に何を求めるべきか語られています。

19  ですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つことを追い求めましょう。 

 「追い求める」と訳されたことばは、かなり強いことばです。それは切迫感や決意をもって、熱心に目標に向かって突き進むことです。決意して、真剣に追い求めて行くのです。何をそこまでして求めよう!と語られているのでしょうか。「平和に役立つこと」と、「お互いの霊的成長に役立つこと」です。

 第一に「平和」に関しては、17節と全く同じことばが使われています。「シャローム」のギリシャ語版です。それはとにかく、神様との良い交わりにある状態です。つまり、人々がいかに神様との交わりを回復できるか、そこに心を注いで熱心に献げていくということです。あるいは、お互いの交わりが神様中心の平安に満ちた交わりになるように決意をもって熱心に求めて行くのです。

そして、もう一つ。「霊的成長に役立つこと」の部分、原語には「霊的」ということばがなく、新改訳聖書はそれを補っていると脚注にあります。おそらく、17節で聖霊のうちにある義、平和、喜びとして語られていたことを意識しているでしょう。何しろ、これらは世的な努力で得るものではなく、御霊に満たされて初めて得られていくものだからです。また「成長」ということばは、建築を意味することばでしたが、新約聖書では特に「内面の成長」を指すことばとして使われます。その意味でも「信仰の成長」や「人格的な成長」ですので、「霊的成長」と言っても差し支えないでしょう。

ですから、お互いの「霊的な成長のために役立つことは何か」、そこに私たちの心を注ぎ、献身し合っていきたいのです。その結果どうなるのでしょうか。18節にあるように、神にも人にも喜ばれ、また認められるようになるのです。神様に喜ばれる器は人をつまずかせません。それどころか、神様に喜ばれる人ほど、人々からも良い者であると認められ、尊敬されます。

 使徒の働き2章の最後で、救われた者たちが、毎日のように集まって交わりをし、食べ物も財産も共有する平和な交わりを築いていました。それによって、周囲の民から好意を持たれたのです。これは、いったいどのタイミングだったでしょうか。ペンテコステの時でした。聖霊が信じる者に注がれた時です。滅びゆく世の物を求めるのではなく、御霊がくださる実りを求める時、そこに主にある平和、平安がもたらされます。そこに、霊的に成長したキリスト者の交わりが生まれ、人々への本当に良い証しになります。人が救われます。

 ですから、20節以降でもありますが、小さな食べ物のことで、神のみわざを台無しにすることがないように。むしろ、私たちはそんなことを求めるのではなく、御霊による平和、互いの霊的な成長を熱心に真剣に追い求めるのです!!語ることばが、人を神に近づける恵みのことばとなりますように!


引用元聖書
<聖書 新改訳2017
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