東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: エレミヤ書2章1-13節「初めの愛に立ち返る」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2025/03/17

エレミヤ書2章1-13節「初めの愛に立ち返る」

*** 3/16(日)主日礼拝 説教概略 ***

 「あの素晴らしい愛をもう一度」という曲をご存知でしょうか。若い世代の方はあまりご存知ないでしょうか。多くの人の心を打った有名な歌です。合唱コンクール等でもしばしば歌われます。その内容は、命をかけて愛し合うと誓った二人、思い出を重ねて来た二人が、今はもう心と心が通わなくなってしまった。だから、『あの素晴らしい愛をもう一度』」と願う歌です。この曲が多くの人から支持されたのは何故だろうかと考えました。



 おそらく誰もが「永遠に変わらない愛」を求めているからでしょう。そして、求めているのに、そうできない自分たちの現実をよく知っているのです。だから、私たちはそういった願いを歌に込めるのでしょう。

今日のみことばは、まさにイスラエルの民が、神様に対する誠実な愛を約束しながらも、そこから離れてしまった現実について語られています。同時に、神様はいつでも変わらずに、永遠の愛の誓いを果たし、そして待ち続けておられるのです。ですから、私たちはしばしば迷い、神様を見失い、その愛を失ってしまうのですが・・・それでも、主の変わらぬ愛を思い出しては立ち返り、私たちも主をまっすぐに愛し、信じてついて行く者でありたいのです。信じた時のあの信仰の原点、主へのまっすぐな愛を思い出し、立ち返って参りましょう。

 

1.初めの愛を覚えている主 

エレミヤに、主のことばが示されました。1-2節をご覧ください。

1 次のような主のことばが私にあった。
2 「さあ、行ってエルサレムの人々に宣言せよ。『主はこう言われる。わたしは、あなたの若いころの真実の愛、婚約時代の愛、種も蒔かれていなかった地、荒野でのわたしへの従順を覚えている。 

 神様は、まず、イスラエルの民の最初の頃の「純粋な愛」に目を向けさせています。「あの初めの愛をわたしは覚えている。あなたがたは全部忘れてしまったのか?」と問いかけているのです。「真実な愛」と訳されたことばは「ヘセド」というヘブル語です。

 この「ヘセド」は、「誠実で裏切ることのない愛」を示すことば。対人では、契約した相手に対して裏切らない誠実な姿勢を示す時に使われました。神様と神の民とは、そのような契約関係における誠実な愛で結ばれた両者でありました。

 それは、しばしば婚姻関係に例えられます。神様とイスラエルの民が結婚した夫婦であるように。それで「婚約時代の愛」という表現も登場しているのです。

 それに続いて語られているのは何でしょうか。「種も蒔かれていなかった地、荒野でのわたしへの従順」です。荒野での従順とは、エジプトを出て、シナイ山で十戒を授かった頃の話です。神様はイスラエルと「シナイ契約」を結ばれました。その際、主は言われたのです。「わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施す」と(出エジ20:6)。神の破格の約束、恵みに満ちた契約です。三代、四代ではない。千代とまで言われるのですから。

 当時は神の民なりに精一杯従っていたのでしょう。それゆえ神様は、3にあるように、最愛の妻を大切にするようにこの民を大切にされ、「聖なるもの」、「収穫の初穂」と呼ばれたのです。聖なるものとは、俗なるものから区別して選び分けるという意味です。結婚相手として特別に選んだ相手なのです!また、収穫の初穂は神のもので、誰も手出しできません。手出ししようものなら厳しい罰を招くほどでした。
それほど大切なパートナーとされたのです。

 しかし、イスラエルはこの契約を自ら破棄してしましました。神ご自身とその教えを捨て、この愛の契約から離れたのです。あろうことか偶像の神々に浮気をしました。神様との婚姻関係は人間の手によって一方的に破棄され、破綻したのです。

 神様はそれを、とてつもなく嘆いておられるのです。
 
 それは特に、約束の地に入ってからひどくなりました。なぜでしょうか。何もなかった荒野の時代と違って、土地と財産を手に入れ、裕福になったからではないでしょうか。

 自分たちで手に入れたと思いあがったからです。神様をまことの王とすることをやめ、人間の王を立て、好き放題に歩みました。ダビデの頃はまだ良かったですが、その後どんどん悪くなり、分裂していきましたよね。

 私たちも自分を支えてくれた家族や友の愛、祈り、支えを忘れてしまう時、その人々を裏切り、傷つけてしまうのではないでしょうか。驕り高ぶってはならないのです。

 

2.愚かすぎる裏切りをした民  

それで主は訴えておられるのです。5節にこうあります。

5 主はこう言われる。あなたがたの先祖は、わたしにどんな不正を見つけたというのか。わたしから遠く離れ、空しいものに従って行き、空しいものになってしまうとは。

 あなたがわたしを捨てた理由は何か?なぜなのか?と問うのです。神様が不正を犯したからなのでしょうか。神様が裏切ったのでしょうか。違いますよね。それなのに、この民は離れて、動かないむなしい偶像に心を奪われたのです。それどころか、6節にあるように、「主はどこにおられるのか」と思い出して捜し求めるとことすらしなくなりました。求めない罪です。エジプトから脱出させてくださったのに。草木も生えないような荒野で、毎日マナ等の糧を与え、片時も離れず守ってくださったのに。「思い出すこと」すらなくなって行ったのです。

 私たちもしばしば、主への愛を失って「形ばかりの信仰生活」になることはないでしょうか。クリスチャンとしての体はなしているものの、心が神様と通い合っていないなら空しい信仰ですよね。8節では、リーダーたちがこぞって神を求めなくなったことを指摘します。祭司も神を捜し求めない。律法の専門家牧者たちも預言者たちも神を知らない。あろうことか偽預言者に惑わされ、バアルの神々に仕えて行きました。神様は変わらない愛で花嫁を愛し続けたのに、花嫁である人間が、花婿なる主を忘れて浮気をし戻って来なかったのです。

 これらの行為を神様は皮肉を交えて、10節以降で糾弾しています。10-11

10 キティムの島々に渡って、よく見よ。ケダルに人を遣わして見極めよ。このようなことがあったかどうか、確かめよ。
11 かつて、自分の神々を、神々でないものと取り替えた国民があっただろうか。ところが、わたしの民は自分たちの栄光を役に立たないものと取り替えた。

キティムとはキプロス諸島ことです。キプロスの島々に行ってよく観察せよと言います。キプロスはイスラエルの西側、地中海にありました。一方でケダルというのは、イスラエルより東側、アラビア砂漠北部に住む民族でした。

西へ行き東へ行き、あるいは、海へ行き砂漠へ行き・・・そこでよく見極めよと言われます。何をどう見極めるのでしょうか。実は、キティムもケダルも、交易が盛んだったようです。ですから、彼らの目は肥えていました。

ゆえに、騙されて本物と偽物を交換するなんて考えられなかったのでしょう。そんな愚かなことはしないのです。ですが、イスラエルの民はそれをしたのです!本物の神を偽物と交換したのです。だから、彼らから学びなさいと言います。まことの神のみ栄を、役に立たない偶像と交換するのがなんと愚かなことかを学んで来いと言われるのです。あまりにも愚かしいので12節のように主は言われたのです。

12 天よ、このことに呆れ果てよ。おぞ気立て。涸れ果てよ。──主のことば──  

「おぞ気立て」とは、「身の毛もよだつほど衝撃を受けよ」という意味です。激震が走るというショック状態です。それほどに、この民の裏切りが、一方的でひどい悪であることを示しているのです。それはそうです。夫婦喧嘩ならお互い様という面が少なからずあります。ところが、神様には一切、一片たりとも非がないのですから。それどころかひたすら愛を注ぎ、大切にしてくださり、何度も警告もくださっていたのですから。13節で神様は、この民の悪を2点にまとめています。

13 わたしの民は二つの悪を行った。いのちの水の泉であるわたしを捨て、多くの水溜めを自分たちのために掘ったのだ。水を溜めることのできない、壊れた水溜めを。

第一に、いのちの水を永遠に与える泉(神様)を捨てたのでした

第二に、いのちの泉の代わりに、水も溜められないような壊れた水溜を求めたのでした。 

 結婚した伴侶を捨てただけではない。捨てた上で、どう見てもひどい別の相手を見つけて不幸になって行く姿です。大事にしていた側からしたら、捨てられただけでなく、別の相手は「そんな人なの?」と愕然とするような状況です。人はなんと愚かなのでしょうか・・・。しかし、他人事ではありませんね。

 

3.初めの愛に立ち返る  

 私たち自身も同じ弱さを持っていますよね。神様の私たちへの愛は少しも変わっていないのです。目の前の状況がどんなに変化しようと、主のご愛は変わらないのです。しかし、私たちの心がいつの間にか離れていることはないでしょうか。信じた時の純粋な思い、信仰の原点を忘れてはいないでしょうか。洗礼を受けた時のあの感動、会員となると決めた時の決心。信仰を持って踏み出したあの時の思い。それを今も大事にしているでしょうか。

 キャンプで感動し、示され決心したこと。キャンプだけで終わってしまっていませんか。奉仕をしようと決めた時。一歩踏み出そう、主のためにささげようと示されたあのみことば、あの思い。忘れてはいないでしょうか。

 2節のみことばに、何と語られていたでしょうか。

主はこう言われる。わたしは、あなたの若いころの真実の愛、婚約時代の愛、種も蒔かれていなかった地、荒野でのわたしへの従順を覚えている。」  

あの時の愛の応答を主は覚えているのです。洗礼の時、入会の時、キャンプの時、結婚の時、悔い改めた時、試練から守られて感謝した時のあのことば、あの決心。主は覚えておられるのです。それを喜ばれたのです。でも、私たちはなかったことにしてはいないでしょうか

私は神学校の卒論で「真理(真実)」ということばを研究しました。それはことばと行いの一致を示すことばでした。熱い献身の思いを証して入学したのに、神学校の卒業説教時に振り返った際、自分の証しと日々の歩みは開きがあったのです。華々しい卒業の直前に、自分の不誠実さを示され涙したのです。忠実だった部分よりいい加減だった部分が思い出されました。ずる休みをした時のこと、現実逃避したこと、罪を犯した自分。主から愛され示されて、身も心もささげようと決めたのに。スーツでいるから献身者なのではない。神学校で学んだから献身者なのではない。ぼろを着ていようと、知識がなかろうと、いつでも、いつまでも主を愛する者、従う者であることを主は喜ばれるのです。


 私たちがなかったことにしようとも、主は覚えておられます。なぜなら、主はその時と変わらずに愛しておられるからです。あの時の私たちの思いや決心を信じて、待っていてくれるのです。もう一度その愛に立ち返ることを!ずっと、あきらめず待ち続けておられるのです。あなたを愛しているから。あなたをあきらめない方だからです。

 信仰の原点、初めの愛、あの日の決意に、立ち返りましょう!
 主は変わらぬ愛で、あなたを待っておられます。


引用元聖書
<聖書 新改訳2017
聖書 新改訳2017©2017 新日本聖書刊行会

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