*** 5/21(水)祈祷会 説教概略 ***
偽物が出回った時、本物をよく知る者はすぐに見分けることができます。偽物に惑わされてしまうのは、本物をよく知らないゆえです。キリスト信仰においても、これが良いものだからこそ、真似をしたり、利用したりして、キリスト教と似て非なる宗教を生み出す者が多くいます。
聖書の時代にも、教会の中に偽りの教えが入り込み、惑わされ、分裂が起こることがありました。せっかく教会に来ていたのに、最後は異端に流されて天国に入れなかったなんて、洒落になりませんね。本物に習熟することを大切にしましょう。
17節 兄弟たち、私はあなたがたに勧めます。あなたがたの学んだ教えに背いて、分裂とつまずきをもたらす者たちを警戒しなさい。彼らから遠ざかりなさい。
最初の部分では、原文で「さて」といった接続詞があり、「さて兄弟たち、あなたがたに、今、勧めますね!」と注意喚起をしています。それは、読者たちが学んできた聖書の教えに背いている者たちについてでした。
彼らは教えに背いて、教えから離れて、教会の中に「分裂」や「つまずき」をもたらす者でした。実際にローマ教会にいて、パウロのもとに情報が入っていたのでしょう。そこで、パウロは彼らを警戒するように注意をし、具体的な二つの対策も教えていることが分かります。その上で取るべき方法は何でしょうか。
1. 彼らを警戒し、できるだけ距離を置くことだと語られています。
「どうにか説得しなさい」とは教えられていないことに驚きます。実に聖書全体において、間違った教えに対する姿勢として、距離を置くように教えていることは興味深いことです。
例えば、第二ヨハネの10節では、「あなたがたのところに来る人で、この教え(キリストの教え)を携えていない者は、家に受け入れてはいけません。あいさつのことばをかけてもいけません。」とあり、明らかに距離を置くという方法を教えています。そして、その理由として、次の11節ではこうあります。「そういう人にあいさつすれば、その悪い行いをともにすることになります。」と。
「説得せよ」とか、「話をよく聞いてみよ」とは、教えていません。むしろ、話し合うこと自体が、偽りの教えを広めたい人の手助けになってしまうからでした。説得しようすると語り合うことになり、真面目なクリスチャンや知識のないクリスチャンほど、ミイラ取りがミイラになる危険があるのです。
実は、牧師にも様々な異端的なセミナーの案内等も来ます。万が一牧師がその教えに流されれば、教会を丸ごと乗っ取れるわけですから、ある意味「格好の餌食」です。私は基本、そういったものにはお返事さえしません。「私は大丈夫」という思い上がりが危険なので、距離を保ち、関わらないようにしています。
もちろん、彼らにも救われて欲しいのです。しかし、だからこそ、彼らと同じ土俵には上がらないようにするのです。むしろ、私たち自身が間違った教えの矯正にエネルギーを使わず、神のことばなる聖書そのものを深く知ることに時間と労を注ぐ方が近道なのです。
18節は彼らの問題の本質を説明しています。
18節 そのような者たちは、私たちの主キリストにではなく、自分の欲望に仕えているのです。彼らは、滑らかなことば、へつらいのことばをもって純朴な人たちの心をだましています。
まず、彼らは主キリストに従っていないのだと言います。主キリストにではなく、結局は自分の思いや考え、つまり自分の欲望に仕えているのだと。神の教えに逆らうのは、私たちの肉の思いなのですよね。
例えば、ある人々は、死後にも救いの機会があるという「セカンドチャンス」という教えを主張します。それは私たちの都合としてはとても魅力的に思えます。その教えは私たちの気持ちを楽にするでしょう。セカンドチャンスがあるから伝道しなくてもいいよね~とも思えるでしょう。楽です。でも、聖書はそう語っているでしょうか。語っていないでしょう。つまり、自分の願望に引き寄せてこじつけ解釈をし、結果「自分の欲望に仕えている」というわけです。
彼らは、「滑らかなことば」「へつらいのことば」をもって、純朴な人たちの心をだましているとも言います。まさに、死後の救いの機会は、滑らかで聞き心地の良いことばではないでしょうか。「救いのチャンスは多い方がいいに決まっていますよね?」と言われたら、「なんかいいなぁ」って思ってしまいませんか。もっと言うと、「へつらいのことば」とは、「甘いことば」とか「お世辞」といったニュアンスもあります。聞く人を気持ちよくさせて感情をゆさぶり、仲間に引き入れて行くということです。彼らの根元には真理がないために、ことばの巧みさ・弁論術・人間の欲をそそる内容を駆使するのです。
「純朴な人たちの心を騙しています」とあるように、こうして純粋で疑うことをしない人ほど、巧みなことばを真剣に聞いてしまい騙されてしまいます。この場にも、素直で従順なタイプの方が多くいらっしゃることでしょう。
ローマの教会も同様でした。それで19節の最初にこうありますね。「あなたがたの従順は皆の耳に届いています。」と。そして19節の続きで、パウロはその従順さを喜んでいることも伝えていますよね。事実、従順さ、素直さは信仰における美徳、素晴らしいことです。ただし、それだけだと、悪意に上手く付け込まれる危険があることを心しておく必要があります。それでパウロは、その従順さを喜んでいる一方で、このように教えています。「なお私が願うのは、あなたがたが善にはさとく、悪にはうとくあることです。」と。どういうことでしょうか。
まず悪に関しては無関心で距離を置きます。一方、「善」とは、もちろん神の目に「良い」ことです。聖書のみことばの教え、神様が「良いことだ。それをしなさい」とおっしゃることです。それらに対しては意欲をもって賢く吸収する者であるようにということです。「さとく」とは、よく学んで熟知していくことです。簡単に言うと、聖書をよく学びなさい、聖書に習熟しなさいということです。
ともすると、カルトや異端の方々の方が、はるかに学び訓練されています。彼らはそれが義務であり、ノルマであり、しないと天国に行けないとか、家族が救われないといった強迫観念があるので必死です。私たちはそのような動機ではしませんよね。神様は、恐怖による支配もマインドコントロールも全く望まないからです。しかし、だからと言って、無知のまま「ぽわん」としていてはなりません。イエス様への愛と隣人への愛のゆえに、熱心にみことばを学んでいきたいのです。聖書の通読はいつ終わるのでしょう。健全な信仰書を1冊でも丁寧に読み、学び、「習熟した」と言えるほど何度も読み漁ったことがあるでしょうか。仕事は熱心にする。趣味には多くの時間を取る。なぜ、いのちのみことば、神のみことばに心血を注いで本気で学ぼうとしないのでしょうか。主への愛が問われています。
20節でこう締めくくられます。 20節 平和の神は、速やかに、あなたがたの足の下でサタンを踏み砕いてくださいます。どうか、私たちの主イエスの恵みが、あなたがたとともにありますように。
終わりの時は近づき、神のサタンへの勝利の日が近づいています。しかし、終わりが近づくほどに、サタンとその勢力も攻撃を強めます。彼らも必死なのですから。だからこそ、私たちも警戒し、主のみこころに対していつでも積極的に学ぼうとする姿勢を保ち続けましょう。ぜひ学ぶことを嫌がらないでください。惑わされやすい愚かなままでいないでください。人の救いのために、笑顔で主とまみえるために、みことばにしっかり留まり、学び、整えられて参りましょう。
引用元聖書
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