*** 5/28(水)祈祷会 説教概略 ***
最後にパウロチームの皆が、読者であるローマの教会の皆さんに締めくくりの挨拶をして終わっていきます。ここでは、実に、パウロがチームの代表ではあるけれども、多くの仲間たちの協力によって、良い働きをしているのだと分かります。主の働きはいつでも協力の働き、兄弟姉妹が助け合う中で進んで行くものなのです。
21節 私の同労者テモテ、また私の同胞、ルキオとヤソンとソシパテロが、あなたがたによろしくと言っています。
パウロの愛弟子テモテの名前が出て来ます。また、その他にもルキオ、ヤソン、ソシパテロという3名の名前も続きます。ルキオとソシパテロについては、あまり情報が多くありません。ただ、ヤソンについては、パウロとシラスがテサロニケを訪問した際に、彼らを歓迎した人物である可能性が高そうです。
かつてテサロニケにいたヤソンは、パウロたちを歓迎し、かくまったゆえに、ユダヤ人の反感を買って大変な目にあった人でした。その様子が使徒17章5-9節に出て来ます。ちょっと読んでみましょう。
17:5 ところが、ユダヤ人たちはねたみに駆られ、広場にいるならず者たちを集め、暴動を起こして町を混乱させた。そしてヤソンの家を襲い、二人(パウロとシラス)を捜して集まった会衆の前に引き出そうとした。
17:6 しかし、二人が見つからないので、ヤソンと兄弟たち何人かを町の役人たちのところに引いて行き、大声で言った。「世界中を騒がせてきた者たちが、ここにも来ています。
17:7 ヤソンが家に迎え入れたのです。彼らはみな、『イエスという別の王がいる』と言って、カエサルの詔勅(しょうちょく)に背く行いをしています。」
17:8 これを聞いた群衆と町の役人たちは動揺した。
17:9 役人たちは、ヤソンとほかの者たちから保証金を取ったうえで釈放した。
この後、ヤソンたちはパウロとシラスの身を案じて、夜のうちにテサロニケから送り出しています。彼は自分の身の危険を冒して、パウロとシラスの宣教の手助けをした人であることがわかります。私たちもあまり名前を記憶していないような人物ですが、このような人なしには、テサロニケでの宣教は進まなかったでしょう。
さらに、22節では、興味深いことに、パウロに代わって実際にこの手紙を筆記した人物が、挨拶のために名乗り出ています。
22節 この手紙を筆記した私テルティオも、主にあってあなたがたにごあいさつ申し上げます。
パウロは実は、一部を除き、「口述筆記」という方法を用いて、書記官に書いてもらっていたわけです。内容はパウロが準備しているにしても、その書記官の奉仕はとても重要でした。細心の注意を払ってこれらの作業がなされたに違いありません。クリスチャンでパウロを知らない人はあまりいませんが、テルティオという名前が出されても「誰?」と思う人が圧倒的に多いでしょう。あまり知られていないのです。おそらく、筆記者たちはみな、自分たちが目立たないように配慮したということもあるのでしょう。ここでも本当に慎ましく一言だけ挨拶を送っているのです。
しかし、「目立たない=重要ではない」ということにはなりません。むしろ、非常に重要な働きであることは言うまでもないでしょう。誤解されるような間違った内容を記すわけにはいかないのです。パウロのことばを丁寧に正確に、誤解されないように記す必要がありました。人からほめられることは多くなくとも、主の御前に尊い良い奉仕をした人だと言えますよね。教会は、目立たない奉仕を喜んでする人が増える時、霊的に成長してきたと言えるのではないでしょうか。このように、人の目に目立たない忠実な奉仕者たちによって、福音宣教は進んで来たのです。人にあまり知られなくても、神様はこれらの人々の存在を愛し、喜び、心に刻んでくださって報いてくださるのです。
さらに23節には、このようにあります。
23節 私と教会全体の家主であるガイオも、あなたがたによろしくと言っています。市の会計係エラストと兄弟クアルトもよろしくと言っています。
ガイオという名前は、割と一般的な名前でした。聖書中、少なくとも3人ほど別のガイオがいると考えられます。そして、ここに出て来るガイオは、おそらくコリントのガイオでしょう(Ⅰコリ1:14)。彼は、パウロが直接バプテスマを授けた数少ない人物でした。ですので、パウロとは当然親しい仲間、師弟関係です。
彼は自分の家を提供し、そこが宿泊場所として用いられ、この手紙もそこで書かれたようです。さらに、市の会計係エラストとその兄弟クアルトもパウロたちと協力している仲間たちでした。市の会計係というのは、公共事業に関わる重大な地位であり、そのような人物もパウロに協力していたのです。これら挨拶文を通しても、パウロの周囲には様々な人々がいて、良い協力関係があったことに気づかされます。おそらく職業も故郷も異なる様々な立場の者たちです。しかし、それぞれの賜物が生かされて、良いチームで働きがされていたのでしょう。まさに「チーム宣教」です。私は、いつでも宣教はキリストの愛によって結ばれた者たちが、「チームでするもの」だと考えています。聖書がそれを教えているからです。学べば学ぶほどに、聖書ではクリスチャンたちが愛し合い、助け合い、協力し合って働きをしていることが分かってくるのです。互いの間にキリストの愛が示される時、人々がキリストの弟子だと知るのです。
最後、25-27節の部分は、神様に栄光をお返しする「頌栄」となっています。脚注に記されていますように、いくつかの写本において書かれていないものがあったり、異なる箇所に挿入されていたりと、やや確定しにくい文言となっています。そのため、カッコ書きとなっていますが、読んでみましょう。
25節 〔私の福音、すなわち、イエス・キリストを伝える宣教によって、また、世々にわたって隠されていた奥義の啓示によって──
26節 永遠の神の命令にしたがい、預言者たちの書を通して今や明らかにされ、すべての異邦人に信仰の従順をもたらすために知らされた奥義の啓示によって、あなたがたを強くすることができる方、
27節 知恵に富む唯一の神に、イエス・キリストによって、栄光がとこしえまでありますように。アーメン。〕
内容は取り立てて特別なものではなく、いわゆる「頌栄」です。そういう意味では、書の最後に置かれ、すべての栄光を神にお返しします!との理解が自然の流れに思えます。この手紙に記してきたすべてのことは、パウロから出たものではありません。パウロが語り、教えてきたものですが、すべて彼が受けたものです。また、パウロを教え導いた弟子たちから出たものでもありません。すべては神様から出たものです。神様のみことばが人の救いのことばであり、神様からの恵みが人を救い、造り変えるのです。だから、今日まで世界中で読まれているのです。
引用元聖書
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