*** 6/1(日)主日礼拝 説教概略 ***
お交わりしていると、本当に皆さんよく頑張っているなと感じます。生きて行くだけでも、色々ありすぎますよね。だからこそ、一時的でない「とこしえの安息」を得て欲しいと思います。では、その神の安息はどこにあるのでしょうか。
ヘブル書の著者は、約束の地カナン自体にはなかったと説き明かしています。肥沃な土地でした。豊かな収穫にあふれました。でも、真の安息はその場所にはないのです。
では、どこにあるのでしょう?
天の御国(いわゆる天国)でしょうか? 実は厳密な意味ではそうではありません。天国という「場所」が安息なのではないのです。じゃあ、どこでしょう?天国そのものが安息ではなく、天国には、神様との妨げられることなき親密な交わりが持てるから永遠の安息があるのです。つまり神様ご自身が真の安息の地なのです。
ですから、みことばに従って、神の安息に向かって歩んでいきましょう。そのために3つのことに心を留めます。
第一に、偽りの一時的な安息ではなく、真の安息を求めましょう。
第二に、神様の忍耐深い愛を知って、素直に招きに応じましょう。
そして、自分だけではなく、私たちの大切な家族や友人、お世話になった方々、すべての方々と一緒に、神の安息に向かいたいですよね。ですから、
第三に、皆で安息に入れるよう最善を尽くしましょう。
1.偽りの一時的な安息ではなく、真の安息を求める
まず、真の安息に入る道とは、イエス・キリストを信じて受け入れることです。3節に「信じた私たちは安息に入るのですが」とある通りです。しかし、その続きに、「わたしは怒りをもって誓った。『彼らは決して、わたしの安息に入れない』」と神が言われたとおりなのです。 とあるように、神様のみことばを信じず、キリストを拒むならば、神の安息に入ることはできないのです。キリストだけが唯一の道です。
ここからも、カナンの地という場所に入ることが安息を得る条件ではなく、神のみことばを信じて受け入れることが、主の安息への唯一の道だと分かります。さらに3節の最後にこうあります。「もっとも、世界の基が据えられたときから、みわざはすでに成し遂げられています。」と。
少し分かりにくいのですが、ここで言いたいことはこういうことです。
「神の安息は、カナンの地で完成されたものではなく、世界が創造された時から備えられている。神の創造のわざは完成し休まれたので、それ以降、神のもとに安息があるのだ。」ということです。
著者は、それをもう少し説明するために4-5節で、創世記2章2節を引用しつつ語っています。
4節 なぜなら、神は第七日について、あるところで「そして神は、第七日に、すべてのわざを終えて休まれた」と言われ、5節 そのうえで、この箇所で、「彼らは決して、わたしの安息に入れない」と言われたからです。
ここにある「すべてのわざを終えて休まれた」とは、「そこから安息の交わりが開始されました」という意味でもあります。創世記で、神様は六日目までに創造の御業を完成させました。そして、七日目は、ご自身休まれ、造られた者たちとの安息を過ごしたいと願い、ご自分のもとに招いているのです。ヘブル書は、この七日目が現代に至るまで継続していると説くのです。
もちろん、神様は、創造のわざの完成以降、何もしていないのではありません。怠け者の神様ではないですよね。ただ、創造後は、造られた者たちとの交わりや、その者たちを支え導くことにご自身をささげてくださっているのです。お母さんが家事を終えて、ゆっくり子どもと過ごすように。お父さんが日々仕事を頑張って、休みの日に家族サービスをするように。主はご自身の愛も力も人に注いでおられるのです。
もう少し本質的なことを分かりやすく申し上げると、神様は世界の創造自体を目的としておられない。むしろ私たちとの交わりを持ちたいゆえに、世界を造られたのですよね。
この教会堂も、建物自体を欲したのではありません。
安心して笑顔で交われる場が欲しかったのです。より多くの方々に来ていただき、ともに主を礼拝できるために建てられたのでしょう。
安息の地と呼ばれたカナンにも、祝福や一時的な安息はあるでしょう。しかし、あくまで本物を指し示す「ひな型」「模型」に過ぎません。ゆえに、私たちは神のもとにある真の安息を目指すのです。神様がくださった「土地」や「収穫」が安息ではない。良い成績、良い地位、良い肉体、良い家、良い恋人でもありません。それらは変わります。失われます。永遠の安息をもたらしません。むしろ、それら良きものくださる主と心を通わせ共に過ごすこと。主を求めること。そこに安息があるのです!これが神様の願いです。
2.神の忍耐深い愛を知り、素直に応じる
そして神様は実に、旧約聖書の時代もずっと、新約に至るまでずっと、この安息に私たち全員が入るように語り、招き、待ち続けていてくださるのです。Ⅱペテロ3:15に「私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい」とあります。
神様が未だに、その安息への道を閉じることなく、残していてくださるのは、本当に主の忍耐のゆえです。何度も民は背き、裏切り、多くの悪を歴史の中で重ねてきたのです。ノアの時代の大洪水、ソドムとゴモラへの天からの火。それらの時代に全員滅ぼされてもおかしくなかった。しかし、主は忍耐して、滅ぼさず、安息への入り口をいつも開いて、語りかけ続けているのです。
それが6-7節で語られています。そして8節で著者はこのように補足しています。
8節 もしヨシュアが彼らに安息を与えたのであれば、神はその後に別の日のこと(詩篇95篇)を話されることはなかったでしょう。
真の安息はカナン自体にはなかった。だから、7節で引用されていますように、後の時代・詩篇の時代にも、ダビデを通して、「今日、もし御声を聞くなら、 あなたがたの心を頑なにしてはならない」と語られたのです。
なお、8節の「話されることはなかったでしょう」の部分は「未完了形」で語られています。その意味は、ヨシュア時代以降も「ずっと繰り返し話され続けてきた」と言いたいのです。神様はずっと話されているので、安息への道は開き続けている。
だから、この新約の時代にも、心を頑なにしないで、神の安息に入りなさいと招かれ続けているのです。とてもあわれみ深い神様です。主は忍耐深く、この世界をまだ終わりにせず、一人でも多くの者が安息に入れるよう待っておられるのです。
しかし・・・神様が創造のみわざを終えて、人と安らかに過ごそうとした時、人はどうしたのでしょうか?悪魔の囁きに流され、神様に背いて悪魔の側につきました。その後も、多くの人は忍耐深く待ち続ける主の声を無視してきたのです。それは神様にとって、非常に悲しい人間による背信です。
ですから、7節にあるように、主の招きの声を聞くなら、心を頑なにしてはならないと言われるのです。今日と言われる日に。神学舎の卒業式で、久しぶりにお会いした神学舎時代の先輩がいます。年は同い年。そしてその奥様も先輩でしたが、実に少し前に癌で天に召されたのです。先生は「とてもさみしい」と率直におっしゃっていました。いつ何があるか分からない私たちです。そのためにも11節のみことばを私たちはしっかり受け止めたいのです!
3.私たち皆が安息に入れるよう最善を尽くす
11節 ですから、だれも、あの不従順の悪い例に倣って落伍しないように、この安息に入るように努めようではありませんか。
救いとは、神様の恵みによるものであり、行いによるのではありませんよね。善行を沢山積むとか、献金をいくら以上するとか、そういったものでは全くありません。主イエス様を救い主として信じるだけで救われるのです。しかしここでは、「安息に入るよう努めようではありませんか」とあります。このことばは、他の個所では、「最善を尽くす」とか、「なんとかして~する」など、積極的かつ意欲的な行動について言及することばです。
ではなぜ、努力で入るものではないのに「努めよう」と促しているのでしょうか。もちろん、私たちが意欲的に熱意をもって神様を求め、よく学び、キリストに留まり続けようとする姿勢が大切でしょう。それもあるでしょう。
しかし、実は、原語を調べてあることに気づくのです。この11節の主語は、訳し出されていませんが、「私たちは」でした。「私たちは、この中からだれも、落伍者が出ないように、最善を尽くしましょう」と言っているのです(英語ではLet us~ や We should be diligent toなどと訳されています。互いに呼びかけ合う言い方、共同体を意識しています)。
つまり、自分以外の大切なひとりひとりも含め、私たちみんなで一緒に主の安息に入れるよう、最善を尽くしましょうということです。
自分一人の話ではないのです。
自分さえ良ければという考えを聖書は肯定しません。そうではなく、私たちの周囲の方々のために努力を惜しまない愛です。それを神様がとても喜ばれることを覚えたいのです。
教会開放日の活動について、「教会の体力がとても必要ですよね?」と、ある他教会の方が言われました。改めて「そうだな~」と感じました。子どもたちがたくさん来ても、肉体的な体力が必要です。でも、よりハードなのは、特に子どもたちが「0人」という時が続いた時です。メンタル的にきついのです。でも、皆が祈り、声をかけ続け、誘い続けている。本当に努力を惜しまない愛に励まされます。
何より、「0人」という記録をノートに書ける働きは尊いのです。そのスタッフの方々は勇士だと思います。最後の1分までそこで待ち続けなければ書けないからです。
そして、誰も来なくても待ち続けてくれる人がいるから、誰かが来られるようになるのです。行けばあの人がいてくれる。その存在が大きい。努力を惜しまない愛です。
こうして、何とかして一人でも多く、皆で安息に入れるように努めたい。それならば、「努めようではありませんか」という意味もより深く理解できますよね。私たちはすべての人にキリストの十字架を伝えたい!隣人のために最善を尽くしたいのです。それが「イエス様があなたに示された愛」ですよね。誰も離れることがないように、慰め、励まし、祈りたい。愛によって隣人の弱さを覆い、一緒に神の安息に向かって生きて行こうではありませんか。
ご一緒に、主の御声に聞いて参りました。神様は今日、あなたに語っておられます。
第一に、偽りの一時的な安息ではなく、わたしの安息を求めよ!と主は言われるのです。土地や収穫、世的な成功は、私たちに失われない安息を与えません。主ご自身との交わりです。主がおられるから、天国には安息があるのです。
第二に、わたしの忍耐深い愛を知って、安息への招きに素直応じよ、心を頑なにしてはならない!と主は言われるのです。
引用元聖書
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