*** 6/4(水)祈祷会 説教概略 ***
この書は、エステルという女性とその叔父モルデカイが、ユダヤ民族を存亡の危機から救った史実を語ります。そして、実に興味深い特徴は、神様の名が登場しないことです。もちろん神様と無関係なのではありません。
むしろ、すべての営みの背後で導かれる神の姿に目を向ける書です。特に聖書の神を信じない環境に置かれたクリスチャンにとって、そこでも主が働かれていることを学べるので、大いに励ましとなることと思います。
実のところエステルは、自分の意志と努力でその役目を選び取ったのではなかったのです。歴史を支配される神様のご計画、摂理によるものでした。そこには、人間の罪深さやプライド、その勝手な正義までも用いて、主の良きご計画に用いることができる神様の御手が隠されているのです。 ともに教えられましょう。
1節 クセルクセスの時代、クセルクセスが、インドからクシュまで百二十七州を治めていた時のことである。
紀元前483年頃です。エズラやネヘミヤによるエルサレム帰還の数十年前になります。エルサレムがバビロンに滅ぼされ、その後、ユダの民がペルシアの支配下に置かれていた時代です。当時のペルシアは非常に強い国。1節にあるように、東はインド、西はナイル川付近のクシュまで、多くの国を吸収して127もの州を治めるほどでした。
さて、当時のペルシア王クセルクセスの時代、首都のスサで、あることが起こりました。
3節 その治世の第三年(紀元前483年)に、彼はすべての首長と家臣たちのために宴会を催した。それにはペルシアとメディアの有力者、貴族たち、および諸州の首長たちが出席した。
クセルクセス王は、有力者たちを集めて大宴会を開きました。その目的は、4節にあるように国の富や栄誉や王の権威を示すためでした。しかも、その宴会は180日にも及んだとあります。なんと約6か月です!
ただし、もちろん宴会だけではなく、政治的・軍事的目的もあったと考えられます。さて、この180日の期間が過ぎると、5節にありますように、今度は7日間の庭園での宴会が催されました。このガーデンパーティもまた華やかなものでした。6-7節でわかりますが、金、銀、大理石、真珠等々、高級な資材が惜しみなく使われています。良質な酒も振舞われました。まさにペルシアの威光と王の威光を存分に示す宴でした。なお、その中で一つ興味深いルールがあります。
8節 しかし飲酒は、「強要しないこと」という法に従っていた。だれでもそれぞれ自分の思いのままにさせるようにと、王が宮廷のすべての長に命じていたからである。
こうした寛大さが、うまく統治する秘訣、人心掌握術であったのでしょう。飲みたい人は自由に飲み、飲みたくない人に強要しないのです。良いことです。
その上で、9節で新たな人物の名が登場します。王妃であったワシュティです。
9節 王妃ワシュティも、クセルクセス王の王宮で婦人たちのために宴会を催した。
彼女もまた、王宮で婦人たちのための宴会を持っていたのです。そして、ガーデンパーティの最終日のことです。王は酒に酔って陽気になり、王妃ワシュティを呼んでくるよう、宦官たちに命じました。
11節 王妃ワシュティに王冠をかぶらせて、王の前に連れて来るようにと言った。彼女の容姿がすばらしかったので、その美しさを民と首長たちに見せるためであった。
これもまた、王の威光を示すためであったとわかります。「トロフィ・ワイフ」ということばがありますが、自慢の美しい妻を有力者たちに見せて、自身の権威を高めたかったのでしょう。ところが、問題が起こるのです。12節。
12節 しかし、王妃ワシュティは宦官から伝えられた王の命令を拒み、来ようとはしなかった。そのため王は激しく怒り、その憤りは彼のうちで燃え立った。
王妃ワシュティは、この召還命令を拒んだのです。それにより、クセルクセス王はプライドを深く傷つけられ、激しく怒りました。プライドが傷つき、強い怒りの反応を示すのは、男性の特徴、また弱さではないでしょうか。
彼女が断った動機は分かりません。主催していた宴会の責任があったからかも知れません。あるいは「自分は見世物ではない」という思いでしょうか。シンプルに「面倒だ」と思ったのかも知れません。何にせよ、人としては断る権利はあるでしょう。実際、8節では、お酒を強要しないという寛大なルールがあったのですから。
一方で、クセルクセスにも「立場」というものがあります。国の威信に関係することでもあったでしょう。その意味では、王妃にも夫の立場を立てる優しさがあっても良かったのかも知れません。断り方もあるでしょう。どちらも課題がありました。
これが由々しき事態を引き起こします。国の法令に影響をもたらしていくのです。というのは、これが知れ渡り「国中の女性たちが夫を軽く見るようになっては、有力者たちから不満が出る」という助言が王の側近メムカンから出たからでした(17-18節)。この助言も決して主の前に正しいものではないでしょう。たかだか夫の要求を一つ断っただけです。それでも王はこのアドバイスを聞き入れ、ワシュティを正式な王妃の地位から外してしまうのです。
22節のような勅令を出していくのです。
22節 王は、王のすべての州に書簡を送った。各州にはその文字で、各民族にはその言語で書簡を送り、男子はみな一家の主人となること、また自分の民族の言語で話すことを命じた。
男性優位の社会に向けての命令です。
さて、この一連の出来事をどのように理解すべきでしょうか。王も王妃も、それぞれに「自分の正義」ばかりを愛したと言えます。そこには互いに対する愛と尊敬が足りていない。王は彼女の「NO」を大きな心で受け止めるべきだったでしょう。
箴言12章16節にこうあります。「愚か者は自分の怒りをすぐ表す。賢い人は辱めを気に留めない。」私には、耳が痛いことばです。愚か者な自分を見ます。やはり恥をかかされ、プライドが傷つけられると、条件反射のように攻撃的になる自分を発見します。もちろん、すべての人の課題ではないかとも思うのですが。
王妃はどうでしょう。
いくらかでも王に付き合う方法を取れたかも知れません。あるいは、断るにしても思慮深い断り方ができたでしょう。箴言29章8節にこうあります。「嘲る者たちは町を騒がし、知恵のある人たちは怒りを鎮める。」夫、王を軽んじたゆえの騒ぎです。賢い柔らかい応答次第では、騒ぎを防ぐこともできたでしょう。その点、後に王妃になるエステルは、神の知恵によって怒りを鎮める道を知り、民全体に平和をもたらした人物です。
ですので、聖なる神様を恐れない自己中心の姿勢から起こった問題でもあります。神の愛からほど遠く、自分のプライドにしがみつき、愛も優しさも示そうとしなかった結果でしょう。私たちも問われます。すべての人間関係において、神のみこころに立って人と関わる必要があるのです。
一方でとても慰められ、励まされる真理があります。それは、神様が、このような不信者の罪深い態度さえ用いて、ご計画を前進なさるという真理です。これらの出来事のゆえに、王妃の座が空きました。さらに、メムカンの横暴な助言さえ主は用いています。19節の最後の一文、彼の発言の一つにこうあります。「王妃の位は、彼女よりももっとすぐれた者にお授けください。」 それが後に王妃となる神の人・エステルです。確かに彼女はすぐれていました。美しいとか勉強ができるということではありません。いつでも神のなさっていることに心を留めて生きる聡明さです。私たちが見習いたい姿勢です。
それにしても、このように異国の地の勝手な者たちの言動でさえ、主は用いて救いの道へとつなげておられると分かるのです。異国の地で、何の後ろ盾もないエステルが王妃に召され、そのゆえに、やがて神の民全体が危機から救われていくとは、なんと不思議な主のご計画でしょうか。まだ誰も、その危機さえ知らない時に、主は既に備えておられるのです。あなたの置かれている職場、学校、家庭。すべてにおいて、同じ主が生きておられます。私たちがすべきことは多くありません。この方に信頼し、この方のなさっていることに敏感に、心を留めて歩むことです。主が成し遂げてくださいます!
引用元聖書
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