*** 8/17(日)主日礼拝 説教概略 ***
私たちの教会では、今年度から数年に渡って「サンライズ・イキイキ・プロジェクト」という取り組みをしています。イエス様を信じるクリスチャンですから、イキイキと歩んで証しをしていきたい。ただ、それは心の持ちようでどうにかするものではありません。鏡の前で無理に笑顔を作るという方法でもありません。人間的な努力によらないのです。
その活力、輝きをくださるのは神様ご自身なのです。そのための土台、礎はキリストの十字架です。キリストの十字架によって、私たちは神のもとに贖われ、新しくされるのです。これによって人生の向かう方向が変わったのです。キリストを受け入れる前は、欲に誘われて、罪と滅びに向かって歩んでいた私たちです。
しかし、キリストとともに古い罪深い自分が十字架に磔にされ、神に向かって生きる者とされたのです。キリストによって新しい人とされたので、与えられている手足や様々な才能・賜物を、神のしもべとして、良きことのために用いることができる者とされているのです。どんなに優れた才能も、用いる人の心が悪いなら、悪い方向に向かう道具になります。そうして、良い才能を悪しきことに用いていくなら、人を傷つけ、悲しませる凶器にさえなってしまいます。なんと残念なことでしょうか。実際、才能豊かなスポーツ選手やタレントさんが、その才能を悪い方向に用いて事件を起こし、活躍の場を失うのはとても残念です。どんな才能も、それを正しく良いことのために用いる心の良い方向性を持たないと、台無しになってしまうのです。
本日は、礼拝後すぐに婚約式も予定しております。結婚というものは、神様が人のためにお造りになった聖なる制度です。ですから、神様に向かって良きお付き合いをしていき、神様のみこころにかなった家庭を目指していくことが幸いへの道です。「神に向かって生きる」というテーマでみことばに聞きましょう。
1.キリストともに十字架に
6-7節をご覧ください。
6節 私たちは知っています。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅ぼされて、私たちがもはや罪の奴隷でなくなるためです。7節 死んだ者は、罪から解放されているのです。
6節には、私たちの「古い人」という独特な表現があります。「古い人」とは、キリストを信じる前の、罪の中で「もがいていた」私たちの姿です。それは6節の後半では「罪の奴隷」という表現で語られています。
では「奴隷」とはどういう状態でしょうか。自由がなく自力で抜け出せない状態ですよね。「そろそろ飽きたので奴隷やめまーす」とはいかない。「お疲れ様です。時間なので上がります」とバイトを上がるようにはいかない。「罪の奴隷」ですから!本当は罪から自由になりたいのに、自力ではその支配から抜け出せないのです。
正しい良いことをした方がいいと頭で分かっている。なのにそれができず、かえってすべきでないことをしてしまいます。例えば、言葉遣いに気をつけようと思うのに、また言葉で人を傷つけてしまう。とても後悔し自分を責めるでしょう。ところが、それなのにまた、同じ過ちを繰り返してしまうのです。すると、ますます自己嫌悪になるでしょう。自分では抜け出せないのです。だから「罪の奴隷」なのです。
ここから人を救い出すために、神は御子キリストを遣わしてくださいました。そして、キリストを信じて受け入れる者は、キリストと一つにされる恵みをくださいました。私の古い人をキリストと霊的に結び合わせてくださり、古い私たちの性質もろとも十字架で死んでくださったのです!つまり、古い罪の奴隷の私は、キリストとともに十字架で罰せられもう葬られたのです!それだけでなく、復活のキリストと新しいいのちに生きる者とされたのです。そのことを私たちクリスチャンは信じているのですよね。8節です。
8節 私たちがキリストとともに死んだのなら、キリストとともに生きることにもなる、と私たちは信じています。
9節にもあるように、キリストは三日目に死の支配をさえも打ち破って復活されました。この復活によって、罪と死から人を自由にする力がご自分にあることを証明なさったのです。ですから、キリストにある者は誰でも「滅び」「永遠の死」から解放され、自由とされるのです。
2.神に向かって生きる者となる
では、8節の「キリストともに生きる」とは、どういうことでしょう。それは、復活したイエス様のうちにある新しいいのちと結び合わされ、まことの神様に向かって生きるということです!!11節です。
11節 同じように、あなたがたもキリスト・イエスにあって、自分は罪に対して死んだ者であり、神に対して生きている者だと、認めなさい。
イエス・キリストは、いつでも父なる神と思いが一つであり、その父の方を向いて生きておられます。10節と11節にある「神に対して」生きていくとは、「神に向かって」とも訳せます。むしろその方が相応しいように私は思います。「対して」という言葉はともすると、「対峙する」という意味にも取れますよね。しかし、そうではなく向かう方向を指します。
キリストと一つとされたクリスチャンは、もはや罪や滅び向かって歩まず、愛と恵みの神に向かって生きるのです。誰でもキリストを信じるならば、向いている方向は罪や滅びではなく、いつでも、どこでも神様なのです。神のいのちに生きるのです。婚約しやがて結婚される二人は、二人で励まし合いながら、神様の御顔を慕い求めて行くのです。神様のみ思いへと歩んで行くので、同じ方向です。ゆえに一致も生まれるのです。
では、神に向かって生きるとは、より具体的にどのように歩むことなのでしょうか。それは、12-13節で語られています。
12節 ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪に支配させて、からだの欲望に従ってはいけません。
13節 また、あなたがたの手足を不義の道具として罪に献げてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者としてあなたがた自身を神に献げ、また、あなたがたの手足を義の道具として神に献げなさい。
もはや、死や滅びに属する者ではないのです。だから、与えられているこの体、この手足、また考えるこの頭、心。それらのどれを取っても悪いことのためにはもう用いない。神様の望まれる良いことのために用いる。いつもそうできたら嬉しいですよね。せっかく与えられた才能を、悪い方向に無駄遣いしたらもったいのです!イエス様がそのためにいのちを張ってくれたのですから!十字架を信じたら、もう罪の奴隷ではありません。神の子、神の義です。ですから罪に献身するようなことはもうしないのです。もはや罪も悪魔も私たちの主人ではないからです。「誰がお前の言うことなど聞くものか!」と、軽くけちらしてやりましょう!私たちはキリストのうちに生きているのです。同時に、キリストが私たちのうちに生きておられます。私たちはキリストのものなのです。
そのことから、私が神様から示されたの「少し黙りなさい」ということです。必要最低限のことは話さないといけません。しかしことば数を減らして過ごしました。そこで気づいたことがあります。話すにしても、黙るにしても、神様の望まれる方向にすべき(神に向かってなすこと)なのだということです。神の愛と真実を話す時には大胆に語り、自己弁護したくなったら沈黙するのだと。人を励ます良いことばを一つ選んで話し、批判のことばは控える。何せ、声を温存しないと礼拝で困ります。私たちはもはや罪の奴隷はありません。滅びに向かって生きません。神に向かって、神の愛と真実に生きるのです。
だから、与えられたものを不義の道具とせず、神の愛と義のために献げましょう。人のいのちのため良い道のために!
引用元聖書
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