東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ローマ15章7-13節「神の栄光と真理を現わすために」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2025/03/26

ローマ15章7-13節「神の栄光と真理を現わすために」

*** 3/26(水)祈祷会 説教概略 ***

 人はなぜ争い、競い合うのでしょうか。それは、「自分の栄光」を求めているからではないでしょうか。ある経験豊かで、非常に謙遜な先生(少なくとも多くの人がそう思っているであろう先生)が、ある時おっしゃいました。
「自分は主のご用のために、主の栄光のために奉仕してきたつもりです。ですが、それでもどこかで、自分の栄光を求めていた部分がなかったと問われると、そうとは言い切れない自分がいます」と。


 主から練られ、育てられ、絶えずみことばに歩んできたとしても、なお、人は自分の栄光をどこかで求めてしまう弱さを持つ者であると感じます。神の真理を現わすことを願いつつも、自分の主張する真理を現わすことにしばしばとらわれます。

 結果、人は互いの栄光と栄光がぶつかり合い、互いの真理と真理がぶつかり合い、一致はおろか、傷つけ合ってしまうのではないでしょうか。

 私たちが互いの違いを越えて、主にあって一つとなって歩むためにはどうしたら良いのでしょうか。それは、「神の栄光と神の真理を現わすために」生きることです。とても難しい事ですね。それでも、そこには「希望」があるとみことばは語ります。

 

 パウロはユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンの様々な摩擦の中で、彼らがさばき合わず、受け入れ合えるよう、仲介の役目を果たそうとしています。

 それが神様のみこころだからです。

 その証拠に、パウロはここで多くの旧約のみことばを引用しています。特にユダヤ人には、旧約のみことば引用は重要でしたね。そのようにして伝えていることは、実はユダヤ人と異邦人とは、最初からともに神を賛美する者として定められていたということです。

 歴史的な流れで変化してきたのではないのです。新約のキリストが来られて以降に変わったのではないのです。神様は、旧約時代から、いや初めから、すべての人が神の民となってともに賛美することを願い、そのご計画をずっとお持ちなのです。そのための「初穂」として、ユダヤ人を召し出したに過ぎないのです。

7  ですから、神の栄光のために、キリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れ合いなさい。 

 ユダヤ人であろうが、異邦人であろうが、弱い者も強い者も、キリストは愛し受け入れておられます。その受け入れる理由、動機は「神の栄光のために」でありました。イエス様の行動原理、その動機はいつでもまず「神の栄光のために」でありました。神の栄光のためにだからこそ、どんなに罪深い者であっても、受け入れてくださるのです。父なる神の愛の大きさ、赦しの完全性、救いのみわざの素晴らしさが証しされるためです。こうして神の栄光が現れるためです。

 私たちはどうでしょうか。

 人を受け入れるかどうかは、自分の感情次第になっていませんか。自分が受け入れやすいかどうか。自分の思い、自分の考え次第ではないでしょうか。相手が変わるなら受け入れる・・・と考えていないでしょうか。

 しかし、そうではなく、神の栄光のために、あの人を受け入れようと求めたいのです。

 自分のためにならば難しいでしょう。
 
 でも、一人の受け入れがたい人を受け入れる時、あなたの栄光が現わされるのではなく、神の栄光が現わされるのです。なぜなら、人にはできないことだからです。嫌いなあの人を受け入れることは、人の力では非常に難しいでしょう。しかし、主に祈って、御霊の助けをいただき、神の愛に押し出されるようにして受け入れていくなら、それはただ神の栄光が現れることになるでしょう。神の救いの大きさを知るのです。神の愛と力の大きさを発見するのです。

 さらに8-9節ではこのように続きます。

8  私は言います。キリストは、神の真理を現すために、割礼のある者たちのしもべとなられました。父祖たちに与えられた約束を確証するためであり、9節前半  また異邦人もあわれみのゆえに、神をあがめるようになるためです。  

「割礼のある者たち」とはユダヤ人ですね。キリストは割礼のあるユダヤ人のために「しもべ」となりました。イエス様ご自身がユダヤ人の血筋として生まれ、その習慣・文化の中に歩まれました。また、イエス様は、割礼のない異邦人たちのためにも救い主となられました。イエス様の系図には異邦人たちの名前が記されていますね。カナン人のラハブ、モアブ人のルツなど。イエス様は彼らすべての人のために砕かれ、血を流され、十字架に死なれたのです!

イエス様がすべて人の為に「しもべ」となられたのは、8節にあるように「神の真理を現わすため」でした。イエス様はご自分の利益のためではなく、ただ神の真理を現わすために」そうまさったのです。「真理」とは、神様がおっしゃったことに偽りがなく、寸分違わずその通りになることでした。真理とか、真実とはそういう意味であると礼拝の「3分の学び」でもお話しました。神様が既に語っておられたことが、9節後半から12節で紹介されていますね。旧約聖書のみことば引用です。9節後半から・・・

9節後半「それゆえ、私は異邦人の間であなたをほめたたえます。 あなたの御名をほめ歌います」と書いてあるとおりです。 
10  また、こう言われています。 「異邦人よ、主の民とともに喜べ。」 
11  さらに、こうあります。 「すべての異邦人よ、主をほめよ。すべての国民が、主をたたえるように。」 
12  さらにまたイザヤは、 「エッサイの根が起こる。 異邦人を治めるために立ち上がる方が。異邦人はこの方に望みを置く」と言っています。 

 これらはサムエル記、詩篇、申命記、あるいはイザヤ書などからの引用で、聖書の様々なところからパウロが引いてきています。このように聖書のあちこちで、異邦人が神の民に加えられ、一緒に主を賛美する者となることを主は既に語っておられたのです。そのことばが実現しないなら、「神は真実ではない」となります。ですから、もし、そうならなかったら神様は嘘つきであり、真理はそこにないのです。

 でも、神は真実な方です!常に真理を語っておられる方です!ですから、その御子であるキリストも同様です。それでイエス様はこの真理を現す歩みをなさったのです。それが十字架の死と復活ですよね。これによって、ユダヤ人と異邦人の間の隔ての壁は打ち壊されました。神が赦し受け入れた者を、お互いが赦さない受け入れない道理はないのです。イエス様の十字架は、私たちの敵意を廃棄し、和解の福音をもたらしました。

 このように、イエス様の行動原理とその動機はすべて、父なる神の栄光のため、その真理のためであったのです。そして、これこそがすべてのキリストの弟子が倣うべきお姿ですよね。

 最後、13節でパウロは「希望」ということばにフォーカスします。

 当時、一緒に歩み始めたとはいえ、まだまだユダヤ人と異邦人はさばき合い、争うことも少なくありませんでした。いや、今の時代も互いの違いを受け入れ合って、心を一つにして主を賛美することは簡単ではありません。しかし、私たちが自分の願いではなく、神の栄光と真理を現わすことを求めるなら、そこにこそ一致が与えられていきますキリストの福音には「和解の力」があると信じているのです。ですから、私たちには希望があります。 

13  どうか、希望の神が、信仰によるすべての喜びと平安であなたがたを満たし、聖霊の力によって希望にあふれさせてくださいますように。

 私の栄光、私の真理から出て、ただ神の栄光、神の真理をともに求めましょう。私の栄光(真理)なら、人口の数だけ存在します。しかし、神の栄光、神の真理は一つです。そこには、主にある喜びと平安があります。ここは天の交わりの前味なのですから。



引用元聖書
<聖書 新改訳2017
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