東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ヘブル3章7-15節「今日、もし御声を聞くなら」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2025/03/24

ヘブル3章7-15節「今日、もし御声を聞くなら」

*** 3/23(日)主日礼拝 説教概略 ***

 十戒の教えの中心的な事の一つに、「安息日を覚えて聖なる日とせよ」 との教えがあります。旧約時代は土曜日でしたが、イエス様の復活後は日曜日を安息日とするようになっていきました。皆さんはこの安息の日に、心も体も主の前に安息できているでしょうか。ただ、この「安息」とは、仕事や家事、勉強を休みさえすれば得られるというものではありません。


 神様が与える安息は、神の御声に従う者にのみ開かれているからです。

 羊たちは羊飼いの声を聞き分けてついて行くので、緑の牧場、憩いの水のほとりという安息の地へ導かれるのです。しかし、その声を聞かず、道を外れれば、目的の安息の地に行けません。強盗の声に従おうものなら「ジンギスカン」にされてしまうかも知れません。たとえ熱心に安息の地を目指していても、羊飼いの声を拒んで迷い出るなら、たどり着けないのです。今日のみことばの結論はシンプルです。

「神のみことばを聞いたならば、心を頑なにせず、今日という日に受け入れること」です。

とてもシンプルな真理です。そうするならば、その人は神の平安に満ちた義の道を通って、「安息」に入れるのです。私たちが真の安息にうちに過ごせるように教えられます。

 

1.柔らかい心で主の御声を受け入れる  


 7節の後半から8節にこうあります。「今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心を頑なにしてはならない」と。とても明確な神様のみこころです。これだけ守れていればもう十分です。心を頑なにしないで、つまり、柔らかい心でみことばを受け入れそのみことばに従って生きることです。しかし、このシンプルなことがなかなかできません。

 なぜでしょう?私たちの肉の思いがカチコチで硬いからです。「自分はこうしたい!」「自分はこうしたくない!」という思い、考えが強すぎて、神のみことばが入り込む余地がない。そういうことはないでしょうか。神様に相談ではなく、神様に自分の計画を追認して欲しいのです。ですので、神様から違う道を示されると不満で、従いたくないのです。しばしば、私たちが経験する歩みではないでしょうか。

 それなので、旧約時代の「苦い失敗談」がしくじり先生のように紹介されているのです。「失敗から学びなさい」ということです!8節後半で「荒野での試みの日に神に逆らったときのように」とありますね。

 この大元にあるのは民数記14です。パランの荒野にいた際、12人の偵察隊がカナンの地を探りました。10人は恐ろしい民族が住むから「無理だ」と言い、2人だけが良い地だから、「神の約束通り信じて進もう!」と言いました。しかし、10人のことばに流され、神に反抗しエジプトに帰ろうとさえ言い出したのです。自分たちには無理だというカチコチの考えに支配され、神のみことばの約束を無視したのです。この群れが現在の半分ぐらいの規模だった時に、新会堂なんて現実的に無理だと恐れ、信仰の一歩を踏み出さなかったなら、今の祝福はなかったでしょう。

 パンデミックになった際に、恐れてばかりいて集まって礼拝や集会をずっとお休みにしていたら、今の交わりは生まれていないでしょう。祈りに祈って、弱さと格闘しながらも、慎重さや丁寧さを大事にしながらも、主にゆだねて踏み出した。それゆえの祝福があったでしょう。

 荒野での反抗は40年間、荒野をさまよい約束の地に入れないという深刻な結果を招きました。 

9 あなたがたの先祖はそこでわたしを試み、わたしを試し、四十年の間、わたしのわざを見た。 

 ここにある「わたしのわざを見た」というのは肯定的な意味ではないでしょう。なぜなら、神を「試みた」結果ですから。不平、不満を言い、神の様々な怒りのみわざを見ることになってしまったということです。少し前に、神様にだけは「敵対してはならない」とのメッセージをしました。まさに、神に敵対した結果です。

 特に10-11節では、「神の怒り」が強調されていますよね。

10 だから、わたしはその世代に憤って言った。 『彼らは常に心が迷っている。彼らはわたしの道を知らない。』 11 わたしは怒りをもって誓った。『彼らは決して、わたしの安息に入れない。』」 

 「憤って」「怒りをもって誓った」どちらも、非常に強い神の怒りの表現ですよね。心を頑なにして、神の声に聞き従わなかった結果、神の怒りを受けました。そして、安息の地への道が閉ざされ、いつも荒野でさ迷い続ける歩みとなりました主の御声に逆らい、義の道から離れたからです。安息の地に入れない者も大勢出ました。この警告から学びましょう。そのために大切なこと。

 一つ目は、「今日」のうちに受け入れることです。


2.「今日」受け入れる  


 7節の引用で、今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心を頑なにしてはならないと語られていました。そして13節では「今日」と言われている間にと強調され、15節で3度目のダメ押しで、「今日、もし御声を聞くなら・・・」と繰り返されます。このしつこいぐらいの「今日」とは、どういう意味で語られているのでしょうか。それは、どの時代の人であっても、みことばを聞いたその日を「今日」と考えるということです。「そのうちね」と先延ばしになしないということです。だいたい「そのうちにね」と言う人はアテにならないですよね。やんわり断っているようにさえ思えます。

 そして、13節の「『今日』と言われている間」というのは、「みことばを聞けるうちに」という意味が含まれているでしょう。これらは伝道者の書の「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ」と近い意味かも知れません。

 少しでも早く、みことばを聞ける時に、学べる時にです!目が見えなくなることがあります。教会に通えなくなることも。脳に腫瘍ができて認知機能を脅かすかも知れません。戦争や国の政策で教会活動が禁止されるかも知れません。偽預言者だらけになり、聖書がまっすぐに語られなくなるかも知れません。ヤコブ書4:14「あなたがたには、明日のことは分かりません」とある通りです。今日、この日この時に、みことばを聞けるのも、神様の恵みとあわれみによることなのです。

 それに加えて、神様の語りかけはいつでも「タイムリー」ですよね。しばしば、「今日は、自分のために語られたのか」と思う程、ピンポイントなことがあります。求める者には、ますますタイムリーに与えられます。主があなたの必要をご存知だからです。私はただ1章から順に語っているだけですが、神様はあなたを知って、あなたに語っておられるのです。ですから、みことばを聞いた日が「今日」です。先延ばしにしないで、今日、決心しましょう。

それでも弱い私たちのために、御声に従う助けになるもう一つのポイントがあります。

 

3.互いに励まし合って受け入れる  


 11節までの詩篇の引用が終わり、12節から具体的な励ましメッセージとなります。ここでは「互いに励まし合って」誰も迷い出ないようにとあるのです!つまり、一人で頑張れと聖書は教えていない。一人では無理だからです。

 しかし、互いに励まし合う交わりによって、あなたがたは守られると教えているのです。だから教会が大切なのです。交わりが必要不可欠なのです12-13節、よく味わいましょう。12節で「兄弟たち」と親しく語りかけます。つまりそれは、「神の家族」「信仰の仲間」を意識しての呼びかけです。

兄弟たち。あなたがたのうちに不信仰な悪い心になって、生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。」と語られるのです。

 この言い方にはどんな意図があるでしょうか。あなたがたのうちから、離れる者が出ないように、お互いに心を配り合いなさいと言っているのです。自分さえ救われていればいいのではない。「私は神様と親密でハッピーなので問題ないです」と終わってはいけない。この人も、あの人も、仲間たちがキリストから離れないように!自分だけでなく、仲間たちがそうならないように。離れる者がないようにケアし合う交わりが必要です。

 13節にこうあります。

13節「今日」と言われている間、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされて頑なにならないようにしなさい。 

 ここに「日々互いに励まし合って」とありますよね。一人一人が、「今日」語られているみことばに柔らかい心で聞き従うことを大切にする。それは各人がすること。しかし、それとともに、互いに励まし合うことが大いなる力になるのです。

私たちの交わり、楽しい元気な時だけの交わりになっていませんか。冗談を言ったり、ふざけたりはできる。でも、苦しんでいる者に寄り添い、涙する者とともに泣いて、真剣に語り合う交わりはあるでしょうか。当たり障りない交わりで終わっていないでしょうか。孤独は人の心を頑なにしてしまいます。理解してもらえない寂しさが心を閉ざします。弱っている者はその弱さを、勇気をもって分かち合ったのです。それを聞く者は決してさばかず見下さず、むしろ証しした姿に敬意と感謝を表したい。そして一緒に主キリストの十字架を見上げるのです。14節。

14 私たちはキリストにあずかる者となっているのです。もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、です。 

 私たちにはキリストであるイエス様がいらっしゃいます。その救いの確信、この恵みの確信を皆で励まし合いながら歩んで行くのです。

だから私も今日、皆さんを励まします。信仰があやふやな人もいるかも知れません。確信がない方もあるかも知れません。でも、今日、御声を聞いたのですから、今日、確かに信じてましょう。心の中で、今「イエス様、あなたを神の子、救い主キリストとして信じます」と告白しましょう。主はあなたの声を聞き、祝し、最後まであなたを守ります。

あるいは、信じて歩んできたけれど忠実ではなかった。あまりにいい加減に歩んできた。そういう方も今日、「悔い改めて新しい思いであなたについて行きます。私なりに主のご用のために何かさせていただきたいです!」と祈ってしまいましょう。

自分の思い、考えでカチコチにならず。明日、いつか、そのうち・・・と先延ばしにせず。今日、今、心の中で「主よ、ついて行きます!あなたにささげます!」と祈りましょう。

15 「今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心を頑なにしてはならない。神に逆らったときのように」と言われているとおりです。





引用元聖書
<聖書 新改訳2017
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