*** 12/4(水)祈祷会 説教概略 ***
私たち福音自由教会のルーツの一つに「敬虔主義運動」というものがあります。それはみことばの実践であり、神学を生活化することです。神の教えが知識で終わらず、信仰生活の中に具体的に実践されていくことです。それが、信仰の証しとなりますよね。
パウロは12章から、まさにそれを語っているのです。これまでの1-11章までのところでは、人の罪の問題とそれに対する神の救いについての教理を教えてきました。ユダヤ人、異邦人、それぞれを取り上げながら、すべての人の救いについて教えてきたのです。そして、それはすべて、神のみわざによることでした。
その基礎的な学びを経て、いよいよこの12章からは信仰生活の実践というテーマに移って行くということです。私たちも中身のない信仰生活では、生きた信仰となりません。ヤコブ書で、行いの伴わない信仰は、死んだも同然であるとも教えていますね。ですから、生きた信仰となるためにも心もからだも神に献げていく歩みを教えられて参りましょう。
1. 心もからだも神に献げる
1節 ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。
最初の「ですから」というのは、1-11章までパウロが語ってきたすべてを指しています。普通、私たちが学ぶ際には、まず理論や基礎を学びますよね。その上で、実践編、応用編へと進みます。それと同じように、11章までにおいて救いの基本的な理解について徹底的に教え、それを土台とした上で、論を進めています。違う角度から説明すると、11章までで「神様の救いの恵み」を教え、12章からはその「救いの恵みに対する人の応答」を教えているということです。
そして、この1節では、「献身」という応答について語られています。その内容はどういったものでしょうか。「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。」ということでした。
まず、あなたのからだを献げなさいと言われます。それは、私たちがささげる賛美や私たちがささげる奉仕だけでなく、あなた自身を献げなさいということです。神様はささげられた物だけでなく、献げる人自身に目を留めておられるからです。創世記4章で、カインとアベルのささげ物の際に、主はささげ物だけでなく、ささげるその人をご覧になっていたことが記されています。結果、アベルは受け入れられ、カインは受け入れられませんでした。怒るカイン神様が言われたことは、あなたが正しく行ったのであれば受け入れられるということでした。彼の献げる姿勢を問題にしておられるのです。
では、どのように献げるのでしょうか。
第一に、「神様に喜ばれる」ように献げます。それは、自分勝手なやり方ではなく、みことばに従ってということです。聞き従うことこそ、神様は最も喜ばれます。
第二に、「生きたささげ物として」とあります。「生きたささげ物」ですから、自分を滅ぼすことではありません。むしろ、死のからだから救い出してくださった神のために「生きる」ことによって、その人生を献げるのです。神とともに生きて、神に用いられていく時に「生きたささげ物」となったと言えるでしょう。
第三に、ここには「聖なる」ということばもあります。それは、世俗的なものから分離して、献身するということです。罪深い歩み、汚れから分離することです。この世と神という二人の主人に仕えることはできないからです。
これこそが、私たちに「ふさわしい礼拝」「あるべき霊的な礼拝」だと言います。ですから、礼拝は日曜の10:30~12:00の時間内だけで捉えるべきではありませんね。そこに至る日々の生活において、そこに向かう道中も含め、そのすべてが礼拝につながります。
私たちはそれぞれに、日曜日に様々な奉仕をすることもあります。でも、その準備は平日から始まっていますよね。礼拝奉仕について、日々の歩みの中で祈りながら、準備自体を神様の御前でするのです。そのプロセスが神様から離れているなら、その奉仕は表面的、見せかけにならないでしょうか。礼拝もその奉仕も、当日だけで成り立つものではなく、毎日の信仰生活の積み重ねから生まれるのです。
説教者は特にそうです。ディボーションを全くしない人が、日曜日だけメッセージをして、力あるメッセージになるのでしょうか。「神様とともに歩みましょう、みことばに生きましょう」と語っても、何の力もないのではないでしょうか。注解書や資料をさっと読んでそれらを張り付けてまとめれば、いい説教になるでしょうか。なりません。毎日、神様のみこころを求めて生活全体を神様に献げて歩むことこそ、神様が喜ばれる真の礼拝であると語られているのです。
2. 変えられていく必要性
2節においては、「新しく変えられていく必要性」を教えています。1節で語られているように自身を献げていくならば、起こって来ることですが、それを自分からも求めていく必要があります。
2節 この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。
「この世と調子を合わせてはいけません」と語られています。それはむなしく過ぎ去る罪深い価値観(神から離れた価値観)に合わせて行くべきではないということです。調子を合わせるというのは、世の習慣に合うように自分を変えて行ってしまうことです。
例えば、子どもたちが、この世の影響をどんどん受け、もっとSNSをやらなければいけない。あのゲームやあの情報を持っていないと時代遅れだ、仲間外れだと思わされる。すると、今までそこに関心を向けていなかったのに、「置いて行かれては困る」と考え、必死に合わせていくようになります。世のむなしい価値観の方向へ変えて行ってしまうわけです。
しかし、みことばは、変えていく方向を間違えてはいけないと教えます。世に向かって変えていくのではなく、聖なる神様に向かって変えていくようにと語るのです。そのために必要なことが、キリストによって新しく生まれること、新生です。そして、御霊によって内側から日々変えられていくことなのです。キリストの似姿へと変えられていただきなさいというのです。悪魔が治める罪の世に合わせていくのではなく、神が治める神の国にふさわしく変えられていくことです。
そのことは、どんな豊かな恵みをもたらすことでしょうか。あらゆることを「見分ける霊的な目」が与えられていきます。神のみこころは何なのか。何が正しく、神に喜ばれることなのか。あらゆる分野において、神のみこころを見分けるようになります。それはキリストに似ることに他なりません。そして、何が「完全であるか」も見分けます。
この「完全」とは、「完成、成熟」という意味があります。その完成者、成熟した者とはイエス・キリストです。ヘブル12章2節では、イエス様は信仰の創始者であり、完成者であるとあります。その「完成者」ということばがこの「完全」と同じことばです。イエス様の中にこそ、私たちが目指すべき完成した姿があるわけです。新たにされて変えられていく時、目指すべきイエス様のお姿を、はっきりと見分けられるようになるのです。私たちはそこを目指して、御霊によって歩むのです。信仰の成熟目指して歩むように召されたのです。ですから、その結果、当然に私たちはイエス様のご性質に似て来るのです。
主は語っておられます。「救いを受けたあなただから、生活全体を聖なる生きたささげ物として献げなさい」と。そのような礼拝を主は喜ばれるのです。そして、肉に従えば悪魔が待っている方向に変えられていきます。しかし、私たちは御霊によって新しく生まれたのですから、完全なるイエス様を目指して歩んでいきましょう。
引用元聖書
<聖書 新改訳2017>
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