東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: エペソ2章1-10節「良くなりたい人へ」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2024/12/01

エペソ2章1-10節「良くなりたい人へ」

*** 12/1(日)主日礼拝 説教概略 ***

 聖書の福音書の中に38年もの間、病で苦しんできた人と主イエス様の対話があります。イエス様はその人に尋ねました。「良くなりたいか」と。すごい問いかけですよね。それは、病の癒しだけでなく、すべてにおいて良い者になりたいかという問いでした。心やたましいも含む人格全体、また人生全体のことです。



 この人はいつしか、人生そのものを諦めてしまっていたように見えます。実際、自分を気にかけてくれる人はいないと、主イエス様に嘆いていました。イエス様はすべてをご存じの上で、「良くなりたいか」と尋ねられたのです。

 ただし、この質問は、誰にでもできることではないですよね。なぜなら、「良くなりたいか」と問いながら、何の解決も持っていないなら単なる冷やかしになるからです。「良くなりたいか」と聞き、「何か方法はあるんですか?」と聞かれて、「いや、何もないのだけどね」では、ひどいですよね。ですから、良くなる道を知っている者でなければ、この問いは意味を持ちません。キリストはその道を知っています。いや、それを持っています。ゆえに「良くなりたいか」と問われるのです。主は私たちにも問われます。あなたは良くなりたいかと。皆さんどうでしょうか。ぜひ「はい、主よ。良くなりたいです。」と応じる者とならせていただきませんか?

 聖書は私たちをどのような者だと言っているでしょうか。
 10節から始めましょう。

10 実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。 

 まず、私たちは「神の作品」であると語られています。「poem」の語源となったことばが使われおり、皆さんはまさに神の芸術、神の傑作です。そして、神が造られた作品である場合、はっきり言えることがあります。失敗作はないということです。自分に自信がない方もいるかも知れませんが、神様は「あなたがいい」と「あなただからいい」と造られた。

 でも、「そのままでいい」というだけでなく、良い者になるよう主は願っておられます。ここにあるように、その作品は「良い行いに歩むために」造られているのです。そのために良い行いをも定められました。人が無知だから、「何が良いことなのか」をも神様は教えておられるのです。しかし、多くの人は、神の作品としての輝きも、良い行いに生きる力も、失ってしまっています。世界を見れば、傷つけ合い、奪い合う人の姿で満ちています。ねたみとやっかみ、ののしりと侮辱。そして、様々な残酷かつ悲惨な出来事であふれています。神の作品の集まりなのにです。なぜでしょうか。答えはシンプルです。造り主なる神様から離れているからです。

 人は神様に背き、神様から離れて生きる者となり、本来の作品の輝きを失っているのです。そもそも、神様から離れた理由は、まことの神様の代わりに、自分の欲を神にしようとしたからです。自分勝手にしたいのです。自分の正しさに神も人をも従わせたいのです。しかし、それは自由ではなく、自分の欲望の奴隷となることでした

 それゆえ、本当に良いことができません。ですから、誰もが平和や幸せや愛という良いものを求めているのに、実際には、世界は争いと悲惨で満ちているのです。自分の目に良いと見えるものを、各自勝手に求めているからです。「世界の終わり」というバンドの曲にこうした歌詞があります。「人はそれぞれ『正義』があって、争い合うのは仕方がないかも知れない。だけど、僕の『正義』がきっと彼を傷つけていたんだね」と。人の持つそれぞれの正義が、人を傷つけ争いを生んでいる。その通りではないかと思います。

 士師記17章6節に「それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた」とあります。これはイスラエルが大混乱し、無秩序で殺伐としていた時代であり、その原因を述べた箇所です。その直前には「その頃、イスラエルには王がなく」とありました。King of Kingsなる神様抜きに歩んでいたゆえです。まことの王キリストを持たず、自分の目に良いと見えることに生きるとこうなります。

 この自分勝手、神に背く歩みが「罪」であると聖書は教えています。1-3節です。

1 さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、
2 かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。
3 私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。 

 1節で、「罪の中に死んでいた者」という表現があります。実は5節でも「背きの中に死んでいた私たち」という表現が登場し、同じことを指しています。まず、聖書の語る罪とは、世の法律違反ではなく、神様とその教えに対する「背き」です

 神様が良いとおっしゃることよりも、自分の目に良いと思えることを最優先し、神様に背いてしまいます。では、なぜ、そうすると死ぬのでしょうか。神様との関係が断たれてしまうからです。聖書は神様との関係、交わりが絶たれた状態を、たましいが死んでいる状態だと教えています。肉体は生きていても、造られた目的も生きる意味もわからず、ただ何かの奴隷になっている状態です。肉体は生かされていても、生き甲斐もなく、目的もなければ、どうやってイキイキと歩めるでしょうか。まるで生ける屍のようです。

 そして、3節の最後に「御怒りを受けるべき子らでした」とあります。神との交わりを回復する以前は、罪と汚れの中に歩み、神の聖なるさばきを受けるよう定められていたということです。罪の解決がないままでは、滅びに至ります。肉体の死後に神の前に立たされます。それまでの歩みを神様の前にすべて明らかにされます。神は聖なる正しい方ですから、悪や罪に対して正義の怒りをもってさばかれるのです。ですから、神様との和解が必要なのです。イエス様の十字架の懸け橋によって。

 その上、私たちは自分の罪、心の闇に気づきにくいものです。2節にこうありました。「それらの罪の中にあってこの世の流れに従い」と。簡単に言えば、世の中全体の流れが闇であれば、自分の闇に気づきにくいのです。全体が悪ければ、自分が悪くても目立ちません。そうやって、悪魔は人の良心を麻痺させ、ボロボロになるまで自分の悪意のために利用します。

 ですから、神は救い主を遣わされたのです。闇は光には勝てません。光が照らせば闇は消えていきます。神様は、ご自分の作品として造った人間を心から愛し、悲惨な罪の中にある者を救おうとされたのです。4-5節です。

4 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、
5 背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。 

 ここにあるように、神様は良い者として生きて欲しいと願っています。ですから、御子の十字架の死と復活によって、滅びに向かう人々を信じるだけで救ってくださるのです。それは十字架の死によって、キリストが私たちの身代わりに罪のさばきをお受けになったゆえです。そのために人間となって来られた!それがクリスマスです。これが神様からのクリスマスプレゼントです。なぜ、プレゼントかと言いますと、5節の最後に「恵みによるのです」とあるからです。恵みとは見返りを求めず、資格なき者に一方的に与えるものです。givetakeではなく、愛するゆえにgivegiveしてくださる神様なのです。

より詳しい説明が8-9節にあります。 

8 この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。
9 行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。 

 神様が恵んでくださるゆえに、ただ信仰さえあれば与えられる救いです。行いによるのではないとあるように、善行を沢山するとか、沢山お布施や施しをするとか、お宮参りをするということではないのです。もしそれらの方法によるとするならば、どうでしょう。これ以上ないほど不平等です。幼い子どもには難しいでしょう。富を持たない人にも厳しいでしょう。体の自由がきかない人は修行できません。

 ただ信じて受けるだけだから、誰でも救いを受けられる。つまりこれが、恵みによるプレゼントということです。神様は罪深く滅ぶべき私たちに、愛するゆえに、喜んでこの救いをプレゼントしてくださったのです。そしてそれは、罪赦され滅びないで済むためだけではないのです。この地上の日々において、与えられたいのちを存分に輝かせ良い日々を歩んで欲しいからです。

 その上で10節に再度目を留めましょう。その中にこうあります。「良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られた」と。これは、キリストのうちにある者は、新しい創造を経験し、本来デザインされた神の作品としての姿を取り戻せるからです。原語ではキリストの前に、英語の「in」にあたることばがあります(In Christ Jesus)。ですからその根本的な意味は「内に、中に」ということです。すべての人間は、キリストの内()にいる時に、神のみこころである良い行いに歩めるように、デザインされているのです。 

 神様なしに「できている」と思っても、その良い行いは人それぞれの勝手な良い行いに過ぎないとお話しました。自分の善が、人にとっての悪にさえなることがあるのです。

 神の望む、本当に互いが幸いになる良い行いは、キリストの内で新しくされていく時に、できるようにされていくのです。私たちは救われるために善行をするのではないのです。良い行いは決して救いの条件ではありません。罪の性質ゆえに良い、悪いの判断さえ間違うからです。また、正しい良いことだとわかっていても、弱さや恐れのゆえにできないことが多いのではないでしょうか。

しかし、イエス様を信じて救われるならば、神とともに生きるようになったならば、考えも行いも良きものに変えられていくのです。それが、神様が望んでおられた「神の良い作品」なのです。神様との交わりが回復し、本当の良い道を知り、またそれを望み、それを実行する力までも神様は与えてくださいます。

私はキリストを知らない頃、自己嫌悪がひどかった。小さなことでもずっと引きずり、くよくよし、自分はダメだと思い続けました。そのくせ、少しでも自分ができることがあると、褒められたいという思いになり、人を見下すのです。キリストによって大きく変えられました。「良くなりたいか」と問いかけてくださった方が真実なお方だからです。「良くなりたいか」といのちをささげて問いかけてくださる主の手に、しっかりとつながって歩んでいきましょう。



引用元聖書
<聖書 新改訳2017
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