東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 毎日の聖書【12月】
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2024/11/30

毎日の聖書【12月】



1日 マタイ6章
 イエスは「主の祈り」を教えられた。10節では「御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように。」と祈るよう教えられた。御国は英訳聖書では「Kingdom」。それは支配権を意味する。ここでは、神の支配を意味するもの。つまり、神のご支配がこの世界全体に満ちるようにとの祈りだ。もちろん、そこにはまず自分自身が含まれている!キリストに心の王座を明け渡し、神のご支配をいただけるよう一人一人が祈り求めていくことである。また、みこころを求める祈りがある。天においては、神のみこころを天使たちも全員が求めている。しかし、私たちは神のみこころではなく、自分の心の思いの成就を求めがちだ。この世界では、誰もがそれを求めているので、争い奪い合う。だから、神がお決めになることを信頼してゆだねていこう。みこころが、この地上でもなされるようにと、神のみこころが最善であることを信じ、敬意をもって祈る者となりたい。

2日 マタイ6章
11節 私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。 「糧」とは、直訳すると「パン」である。今日もパンを与えてくださいとの、非常に率直な祈りである。主イエスは、こんなに現実的で、率直な祈りを大胆にそのまま祈って良い、いや、祈りなさいと教えてくださったのだ。なんとありがたいことだろうか。「食べる物に困っています、お金に困っています、神よ、どうぞお与えください」と祈って良いのである。同時に、「私たちの」という主語であることを忘れてはいけない。「私の」という単数ではない。複数形である。それは、自分の生活のことだけでなく、仲間たちの、兄姉たちの必要も与えてくださいという共同体の祈りである。これが本当に大切だ。自分さえ良ければ・・・ではなく、我らみんなの糧をお与えくださいと祈る、愛の祈りである。そして「今日も」とあるように、主が一日一日を生かしてくださることを忘れてはならない!私たちは今日、この日の必要を率直に祈ろう。そして、隣人の必要も一緒に祈ろうではないか!

3日 マタイ6章
 主の祈りは続く。12節では「私たちの負い目をお赦しください。 私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。」との祈りのことばだ。主の祈りは、祈りであると同時に、私たちの信仰の基礎が詰まっているように思われる。負い目をお赦しくださいとの祈りは、次の二つの前提を持つことになる。第一に、自分が罪を犯している者であるとを認めること第二に、その罪を自分で解決できないと認めること。この二つの前提を持つ者だけが、神に赦しを祈り求めることができる。そして、神は、自分では返し切れないこの負い目、すなわち罪という借金を、キリストのいのちによって肩代わりしてくださったのだ。だから、私たちはこの方に赦しを求めて祈るのだ。同時に、神は、「赦されたあなたも、隣人の負い目を赦しなさい」と言われる。当然のことである。もし、赦さないなら、父なる神もあなたを赦さないとある(14-15)。この祈りをする時、自分の罪に心から涙し、同時に隣人を赦す告白として祈り続けたい。

4日 マタイ6章
 主の祈りにおいて、13節で「私たちを試みにあわせないで、悪よりお救いください。」と主は教えられた。「試み(ペイラスモス)」には、誘惑という意味もあるが、マタイ4章では、御霊の導きによって、主イエスが悪魔の試みを受けた(ペイラスモスの動詞形)ことが語られていた。神は愛するからこそ、あえて試練をお与えになるとも言えるのだ。では、この祈りは何なのだろうか。それは様々な試練が、罪を犯してしまう機会、信仰を弱体化させる機会(=誘惑)とならないよう求めよというのだ。試練自体をゼロにすることは神のみこころではない。だが、試練が信仰を弱らせる誘惑となることは、もっと神のみこころではない。だから、そうならないよう、かえって試みの時に神を求め、その助けを経験して神に近づく機会となるよう祈れということだ。事実、祈る者は神に近づくからだ!「悪よりお救いください」とあるように、悪から離れ神に近づくための祈りである。

5日 マタイ6章
 16節から18節にかけては、断食のあり方について語られている。断食をしている事実は、しばしば「敬虔な信仰者」であるかのように見せかけるために利用される。16節にあるように、偽善者は、「人に見えるように」あえて「顔をやつれさせる」のだ。それをするなら、もう受けるべき報いを自分で受けていることになると主は教えられた。だから、神からの報いを得たいならば、偽善的な断食をするべきではないのだ。断食する時こそ、頭に油を塗り、顔を洗うようにと教える(17)。そうやって元気な姿を見せ、人々の目に断食していることを隠すためである。それは、人に見せるためではなく、隠れたところで見ておられる神の前に行うためだ。人から受けるわずかな、そして失われる報いではなく、神からの永遠の報いを受けたいならそうせよというのだ。それは、19-20節にあるように、天に宝を積む人の歩むであるからだ。神の報いは、この世で終わるものではなく、天に貯蓄されていくからだ。盗まれることなき天の宝を豊かに蓄えていこう!

6日 マタイ6章
 21節で「あなたの宝のあるところ、そこにあなたの心もある」と教えられている。自分が心を注いでいること。思いを向けていることには、財を投じるものだ。そこに価値を置いているからだ。車が大事な人は車に投資するし、食べ物に重きを置く人は食べ物に多くの財を使うだろう。その点で考える時、あなたの心が置かれている場所はどこだろうか?それは価値あるのある良いものだろうか。いつまでも残るものだろうか。神は天に宝を積むように教えている。それは心を天に向けて生きることに他ならない。その上で、24節では、二人の主人に仕えることは誰にもできないと語られている。神とこの世(あるいは富)という両方に仕えることはできない。どちらかを重んじ、どちらかを軽んじることになるからだ。仕える価値のあるお方は神のみだ。なぜなら、決して裏切らず見捨てないお方だからだ。公正に報いてくださるお方だからだ。天の報いは大きい。そこに心を置こう!

7日 マタイ6章
 25節からは「生活の心配事」に関して、神のみこころを主イエスが教えている。まず、何を食べようか、何を着ようかと、生活の心配をしないようにと語られる。食べ物の心配が不要であることを示すため、26節では「空の鳥を見なさい」と言われている。鳥たちは人間ほど緻密に食物の管理をしていないけれど、しっかりと神が養っていてくださるではないかと。しかも、鳥よりも人間に神は大きな価値を置いておられることも付け加えている。そして、心配したところで、私たちは少しも寿命を延ばすことができない(27)。むしろ、心配は私たちのいのちを縮めてしまうのではなかろうか?
 また、着る物のことで心配する必要がないことを示すために、28-30節で「野の花」のことを考えるようにと導かれている。花は働きもせず、紡ぎもしないが、神が育てて、美しく装っていてくださるからである。もっと神に信頼しよう!

8日 マタイ6章
 何を食べるか、何を着るかと心配しないようにと語られる(31)。神が必要を与えてくださることを信じて歩まない者、それは「信仰が薄い人たち」であると主は言われている(30)。この信仰の薄い人々は、神の民ではなく、信仰の外にいる「異邦人」たちのようである(32)。神を信じて歩む者は、食べ物、着る物のことで心配しすぎない者である。なぜならば、それらが必要なことは私たち以上に神がご存知であるからだ(32)。だから、クリスチャンが第一に求めるべきものは、この世における「生活必需品」ではない。むしろ、私たちにとっての生活必需品は、神のことばである。神ととともに生きることである。ゆえに、キリストは、「まず神の国と神の義を求めなさい。」と教えられた。神の国とその義を求めるなら、神はその人の必要を十分に与え養ってくださる。当然、明日の心配も不要である。その日、その日を神のみこころを求めて生きれば、必要は与えられるからだ。

9日 マタイ7章
 1節で「さばいてはいけません。自分がさばかれないためです。」と主は言われた。誰かをさばく時、そのさばきはブーメランのように自分にはね返って来るからだ(2)。他人をさばけるほど完全ではないのに、人は本当に他人をさばくのが大好きだ。だが、本来は誰かの罪をさばける完全な人間など、この世界にはいない。もちろん、司法制度は聖書が教えていることであり、それ自体を否定することではない。しかし、自分を棚に上げて、高いところからさばいている問題について、各人がもっと問われなければならない。兄弟の目にある小さなちり(木くず)には気づくが、自分の目にある梁(丸太)に、なぜ気づかないのかと主は問われる(3)。もしかしたら、気づきたくないだけかも知れない。それゆえ、主イエスは言われた。「偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除きなさい」と(5)。他人をさばくことよりも、各人が自分の問題ともっと向き合う必要があるのだと教えられる。

10日 マタイ7章
7節 求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。 主イエスは、人々にこのように教えられた。こうして求める姿勢こそ、神がお喜びになる姿勢である。そして、そのようにして熱心に探し求める者に、神は喜んでお与えになることも教えておられる(8)。まっとうな親であれば、愛する子どもがパンを求めているのに、石を与えるような真似はしない(9)。魚を求める子に対して、蛇を与えるようなこともしない(10)。11節によれば、罪深い人間、悪人であってさえ、自分の愛する子には良いものを与えるとも語られている。そうであれば、私たちを本当に深く愛しておられる神が、私たちの求めに対して良いものを与えてくださらないはずがない。私たちの問題は神に求めないことである。あきらめの心や神への信頼がないために、祈り求めていかないのである。

11日 マタイ7章
 「狭い門から入りなさい」と語られる(13)。なぜなら、滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いからである。滅びに至る門が大きいというのは、毎日欲のままに生きて行けば、誰でも自動的に、簡単に入れるからだ。だから、気づく必要がある。いのちに至る門は狭く、細いのだから(14)、私たちは意識してその道を求めるべきなのだ。ただ、8節にあったように、求める者は受け、探す者は見出すことも真実である。こうして、主はご自身を熱心に求めて来るように人々を促された。それゆえ、「狭き門」であることは悪いことではない。そうであるからこそ、目を覚まし、熱心に求める必要があるのだから。意識的に、祈り求めて行く必要があるのだから。求めないこと自体が、神の前に喜ばれない生き方なのだから。求めていこう。求めて続けよう!

12日 マタイ7章
 偽預言者たちに用心するようイエスは言われた(15)。彼らは羊の衣を着て、見かけは穏やかで優しそうに見えるが、その内側は貪欲な狼のようであると語られた。そして主イエスは、16節で「実によって見分ける」という方法を教えてくださった。別の例として、良い木であれば良い実を結ぶものであり、悪い木であれば悪い実を結ぶからである(17-18)。私たちは、口先や表面を繕えるとしても、その行動や生き様はその人の本質が現れ、実際の歩みにおいて真偽を見分けることができる。平和を口にしながら人と争ってばかりいるなら、心に平和がないと言える。愛の大切さを語りながら、犠牲を払うことを嫌がって、自分の好きなことしかしないならば、実際に愛がないと言えるだろう。こうして、良い実を結ばない木は、良い木ではないので、火に投げ込まれると語られるとさえある(19)。偽りに騙されず、その本質をしっかりと見極め、正しい道を歩んでいきたい。

13日 マタイ7章
 21節にて、イエスはこう言われている。わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。
 口先では神を敬うが、心は神から離れているという場合がある。みこころを行っている人々は、口先だけではなく行いにおいても示していることから、心もそこに向けられていると言える。興味深いことに22節では、これに対する人間の反論がある。『あなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡を行ったではありませんか』という内容である。これらは神の名を利用しているのであって、神のみこころを行っているのではない。神のみこころの実践とは、そのお心を理解することなしには行えないからだ。神と心を通わせるようにともに歩み、神が喜ばれる歩みをしよう!

14日 マタイ7章
 主イエスのことばを聞いて、その通りに行う人は、硬い岩の上に家を建てる賢い人のようであると語られる(24)。それは洪水の時も、嵐の時も、しっかりとした土台の上に建っているので倒れることがないからだ(25)。様々な試練があっても、土台がしっかりしている歩みゆえに、そうそう揺るがされることはない。右に左にぶれることもないのだ。
 逆に、イエスのことばを聞いても信頼せず、少しも行わないような者たちは、砂の上に自分の家を建てる愚か者のようであると言う(26)。いわゆる『砂上の楼閣』という諺の起源となった話である。洪水や嵐になると、土台が緩すぎて、目も当てらないほど被害が大きくなる。みことばを軽んじるとは、このような人生である。私たちはどちらの人生を望むのか?もちろん、硬い岩の上に我らの家を建てるべきである!!

15日 マタイ8章
 山上の説教を終えたイエスに大勢の群衆がついて来た(1)。そこにツァラアトという病の人が来てひれ伏した。この人は「主よ、お心一つで私をきよくすることがおできになります」とイエスに向かって言ったのだ(2)。イエスを「主よ」と呼び、医療行為ではなく、そのお心一つできよくしていただけると信じてひれ伏している。すばらしい信仰だ。「お心一つで」とは、神の主権的な力、癒しの力を信じていなければ出て来ないことば。主イエスはこの人に愛をもって応えている。手を伸ばしてわざわざ触り、「わたしの心だ。きよくなれ」と。するとこの人は癒された。難病で隔離され、誰も触れてはいけないとされていたが、イエスは病を癒しきよめるだけでなく、その心、たましいに触れてくださったのだ。その愛の御手はなんと温かったことだろう。肉体は病にもなるし、朽ちて行くものだ。だが、そのたましいが主の愛に触れられると、永遠に生きるのだ!主の愛の御手のぬくもりを感じながら歩んでいこう!

16日 マタイ8章
 今度はカペナウムにて、イエスのもとに来た人はローマの百人隊長だった(5)。しかも彼は自分のために来たのではなかった。彼は、自分のもとで仕えていた「しもべ」のために来たのだ。しもべは中風(からだが麻痺した状態)でひどく苦しんでいた。そのため、百人隊長は助けて欲しいと懇願しに来たのだ(6)。そこでイエスは「行って彼を治そう」と応じられた(7)。しかし、驚くべきは百人隊長の謙遜さと信仰。彼は、主イエスを自分の屋根の下にお入れする資格もない者だと言う。だから、おことばをいただければ十分それで癒されるはずだと言うのだ(8)。10節にあるが、これを聞いたイエスはとても驚いた。イスラエルの中にも、このような純粋、まっすぐな信仰は見たことがないと。私たちも、この百人隊長の信仰に倣いたい。主のみことばをもっと信頼し、心から従っていこう。それで十分であると信じて・・・。

17日 マタイ8章
 14節によれば、ペテロの姑(しゅうとめ)が熱を出して寝込んでいた。主イエスは彼女を見て、その手に触れられた。すると熱がひき、彼女は癒されて元気に活動できるようになった。その時に、「イエスをもてなした(別:イエスに仕えた)」とある。もし、私たちが病を癒されたり、大きな困難から助けられ乗り越えることができたなら、それはただ私たちが楽になるためではない。主がそれをしてくださったという信仰があるなら、元気になったからだで主にお仕えしていくべきではないだろうか。そのためにこそ、主は癒し、助けてくださったと言えないだろうか。癒されたのは、自分が喜ぶだけでなく、それを通して神の栄光が表されるためである。元気にされたのなら、私たちはその恵みに応えて、主に仕えていこう!!

18日 マタイ8章
 19節で、ある律法学者は「先生。あなたがどこに行かれても、私はついて行きます。」と言った。ただし、本人もその意味がよく分かっていない。どこへでもイエスについて行くというのは、安易なノリで言えるものではないのだ。イエスはその現実の一端をこう説明された。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもありません。」(20)。事実、主イエスのもとには深夜も早朝も関係なく、人々が訪ねてきた。また、別の弟子は、「まず行って父を葬ることをお許しください」と言った(21)。だが、イエスは言われた。「わたしに従って来なさい。死人たちに、彼ら自身の死人たちを葬らせなさい。」と(22)。実は、この弟子の言い分は、既に父親が死んでいるということではない。まだ生きているが、父が死ぬまでは家にいて、葬儀まで終わってスッキリしたらイエスについて行こうという意味である。主イエスの弟子にふさわしいことは、イエスを第一とする歩みである。私たちもあれこれ理由をつけて、優先順位を自己都合に変えていないだろうか。

19日 マタイ8章
 イエスが舟に乗ると、弟子たちもそれに従った(23)。すると、湖が大荒れになり、大波をかぶるほどだった(24)。ただ、これほどの状況になっても、イエスは眠っておられたと語られている。それは父なる神への全き信頼ゆえであろう。「平安のうちに私は身を横たえすぐ眠りにつきます」と詩篇4篇8節にある通り、神への信頼のうちに、私たちは平安をいただき、ゆっくりと眠ることができる。一方、信仰の薄い弟子たちは「主よ、助けてください。私たちは死んでしまいます。」と死の恐怖にとらわれイエスを起こして助けを求めた(25)。それでも主イエスに求めたことは良い。信仰の薄さを指摘されるが、イエスを求めたゆえに、イエスがで風と湖を静かにさせるみわざを見ることになったからだ(26-27)。神に信頼すること、助けは神にこそ求めるべきであることを教えられる。安心して眠りたいなら、主に信頼しよう!

20日 マタイ8章
 28節。ガダラ人の地方に着くと悪霊につかれた二人の人がイエスの前の現れた。「墓場から出て来て」おり、また「ひどく狂暴」でもあった。なんと彼らはイエスに向かって「神の子よ」と叫び、「まだその時ではないのに」とイエスに言った(29)。イエスが何者であるかを知って、恐れている悪霊の姿である。悪霊でさえ、こうしてイエスの存在自体は信じており、その力に怯えている。だが、私たちとの決定的な違いは神の愛を受けているかどうかである。そして、悪霊はイエスの存在は信じているが、イエスを信頼はしていなかった。それは信仰ではない。私たちは主イエスを信頼してついて行く信仰を大事にしよう。悪霊はイエスを恐れ、追い出すのならば豚の中に追い出して欲しいと懇願した(31)。イエスが命じるとその通りになり、豚は水の中に入って行き溺れ死んだ。私たちは主を信じて永遠のいのちを受け、いつまでも主とともに生きる者であることを感謝しよう!

21日 マタイ9章
 イエスのもとに中風の人が床に寝かされたまま連れて来られた(2)。その時、イエスは彼らの信仰を見て、おっしゃった。「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」と。しかし、周囲にいた律法学者たちは、これを見て心の中で「この人は神を冒涜している」と非難した(3)。それは全知全能で、完全に正しく公正な神だけができる宣言だからだ。だが、イエスは神の子だ。神のご性質そのものを持つ、まことの神なる方だ。その証拠に、彼らの心の中を完全に見通しておられた(4)。そして、イエスが「起きて寝床を担ぎ、家に帰りなさい」と中風の人に言うと、この病人は癒された(6-7)。これは、イエスが罪を赦す権威を持っていることを証しするための奇跡であった。罪の赦しの宣言は、結果が目に見えないものである。ゆえに、それが事実起こっていても、人はそれを視認できない。そのために、目で見える分かりやすい例として、難病の癒しを目の前で見せたのだ。これを通して、「イエスには罪の赦しの力もあるのではないか!」彼らが少しでも理解するためであった。しかし、信仰は見えないものを確信するもの。見ないで信じる者でありたい。

22日 マタイ9章
 9節はマタイがイエスから召し出された場面。非常に短くシンプルだ。主が「わたしについて来なさい」と言われ、収税所に座っていたマタイは立ち上がって従った。マタイの説明はこれだけだ。彼が主イエスの招きに純粋に、そして即座に応答したことを伝えたかったのであろう。10-13節では、罪人たちと食事をするイエスを、パリサイ人たちが批判している。なぜ、先生は取税人や罪人たちと一緒に食事をするのかと。イエスの答えはシンプルだった。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。」と(12)。さらにイエスは、正しい人ではなく罪人を招くために来たと言われる(13)。だが、「自分は健康だ」、「正しい人間だ」と思い込んでいる時、求めることができない。これこそ深刻だ。そしてイエスは、ホセア6章6節を引用し、神が喜ばれるのはいけにではなく、真実な愛(あわれみ)であると教えている(13)。私たちの神は、愛とあわれみの神。儀式を愛する神ではない。私たちの信仰や生き様はどうであろうか?この神に相応しいだろうか?

23日 マタイ9章
 バプテスマのヨハネの弟子は、イエスとその弟子の姿勢に一つの疑問を抱いた。「なぜ、あなたがたは断食をしないのか」という疑問だ(14)。イエスの答えは、15節にあるが「花婿に付き添う友人たちは、花婿が一緒にいる間、悲しむことができるでしょうか。」というものだ。それはどういう意味だろうか? この当時の断食には嘆き悲しむ」という意味があった。罪深い世を嘆き悲しみ、救い主の到来を求める宗教行為。しかし、この時は、キリストが来られている恵みの時、喜びの時であった!だから、その恵みと喜びの時に嘆きの断食をするのは場違いであるということだ。婚礼の時はお祝いの席であり、皆で食事を楽しむ時。それなのに、断食をするのは的外れである。ヨハネの弟子たちは今がどのような時なのかをよく考えもせず、習慣として行っていたのであろう。私たちも問われる必要がある。習慣だから考えなしにするのではなく、主が今、これを望んでおられるのかを。いつでも神と相談しながら、ふさわしいことをしていくべく者でありたい。

24日 マタイ9章
 16節で、イエスは、新しい布切れで古い衣に継ぎ当てすることはしないという生活の例えを話している。新しい布は洗濯をするとその部分だけ縮んでしまい、破れがもっとひどくなる可能性がある。新しい布は、古い布の継ぎ当てとして使うのではなく、その新しい布そのものを土台とすべきである。主イエスを信じて新しくされたのなら、古い生き方の足しにするのではなく、全く新しい歩みをすべきである。また、17節では、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れることもしないという例を挙げる。新しいぶどう酒は、まだ発酵し終わっていないものである。そして古い皮袋は弾力性が失われいる。そのような古い皮袋に、発酵最中の新しいぶどう酒を入れると、発酵の圧力に耐え切れずに、古い皮袋が破れてしまうのだ。つまり、新しい教え、新しい価値観にふさわしく、私たち自身が新しい皮袋になる必要がある。いつまでも自分の古い価値観に固執せず、神の招きに応じて、新しい教えと価値観に歩んでいこう!

25日 マタイ9章
 メリークリスマス!救い主キリストの降誕を喜びつつ。18節で、会堂司がイエスのもとに来てひれ伏してお願いした。「私の娘が今、死にました。でも、おいでになって娘の上に手を置いてやってください。そうすれば娘は生き返ります」と。この会堂司とは、会堂に関する全責任を持つ立場の人だった。しかも厳格なユダヤ教徒であろう。ゆえに、本来はイエスを非難する側。だから、おそらく最初からイエスのもとに来たのではなく、四方八方手を尽くしたが娘が助からなかった結果、死んでしまい・・・もはやイエスを頼るしかなくなった。それでも、イエスが手を置けば、娘は生き返ると信じているのは立派な信仰だ。24節では、周囲の人々はイエスをあざ笑っている。多くの人は無理だと決めつけ信じないどころか、バカにしあざ笑う。それでも、信じる者は救われる。会堂司の娘は起き上がり、この話は地方全体に広まったほどだ。行かないよりは、あざ笑うよりは、ギリギリでも、遅くなってでも主イエスのもとに行くべきだ!私たちもそのようにしよう!

26日 マタイ9章
 20節では、十二年の間長血をわずらっている女の人が、イエスにうしろから近づいて来て、イエスの衣の房に触れた。それは、「この方の衣に触れさえすれば、私は救われる」と心のうちで考えたからであった(21)。それは彼女の精一杯であったと思われる。長血は婦人病の難病あり、また「汚れている」と考えられている病であった。自分など相手にされるはずもなく、まして、周りの人々に自分のことがばれたら、何を言われるかわからない。それゆえに、後ろから着物の房に触るのが精一杯だったのだろう。しかし、彼女の精一杯でイエスを求めたのだ。この求めに対して、イエスはわざわざ振り向いて彼女を見て言われた。「娘よ、しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」と。イエスの優しさである。そして、この時から、この女性のこの難病は癒された!私たちに出来ることは限られている。だが、主は出来ないことを求めない。私たちができる精一杯を、神は喜んで受け入れてくださり、良くしてくださることを信じよう!!

27日 マタイ9章
 27節。イエスの前に二人の盲人が現れ、大声で叫びながらついて来た。「ダビデの子よ、私たちをあわれんでください。」と。「ダビデの子」という呼び方は、単なる王の子孫という以上の意味を持つ。それは約束の救い主であると信じる呼び方。彼らは正規に学んだこともないだろう。だが、イエスが救い主であると信じて求めてきた。28節でイエスは彼らに尋ねている。「わたしにそれができると信じるのか」と。彼らの応答は「はい、主よ。」だ。とてもシンプルで純粋だ。29-30節で、彼らは癒される。その際の主イエスのことばは「あなたがたの信仰のとおりになれ」である。ここには、難しいことは何もない。どのような仕組みでいやされたのか。どんな科学的根拠があるか。詳細な説明も、分析もない。ただ、彼らは、キリストを信じた。ただ、キリストのことばを信じた。それだけだ。私たちも信仰を難しくし過ぎないようにしたい。神が語られたことはなる。それを信じる信仰で十分だ。

28日 マタイ9章
 主イエスはあらゆる町や村を巡り、会堂で教え、福音を伝え、病を癒された(35)。また、群衆を見て深くあわれまれた(36)。そのあわれみの心は、ご自身の内臓が激しく痛むようにして、かわいそうに思いやる心である。それは、羊飼いのいない羊の群れのようであると形容される。羊はとてもか弱い動物で、羊飼いがいないと無防備であり、弱ってボロボロになってしまう動物である。つまり、真実を語り、幸いへと導ける霊的な指導者がいない悲惨な状態であったことがわかる。主はそれを嘆き悲しんだ。そのため、37節で「収穫は多いが働き手が少ない」と言われた。私たちは収穫の主に、働き手を送ってくださるよう絶えず祈る必要がある。正直、働き手はいつでも足りていないと感じる。もっと主のご用のために働ける者が起こされるようにと切に願う。私たちも絶えず祈ろう!

29日 マタイ10章
 イエスは十二使徒を選ばれた。彼らに汚れた霊を制する権威を授け、悪霊を追い出したり、病を癒したりできるようになさった(1)。ただ、それらは使徒たちの能力ではない。神が彼らを通して働いてくださる権限を授けられたということだ。特に「使徒」とは、派遣される者という意味を持つ。栄光を受けるのは弟子ではなく、派遣なさった神ご自身である。何より、弟子たちは未熟者の集まり、変わり者の集まりであった(2-4)。「ローマの犬」、「売国奴」と批判される取税人のマタイは左翼。熱心党員シモンは右翼。二人はどうやっても相容れない者同士だが、主はこの二人を使徒の一員とされたのだ。キリストの愛によって、政治的な思想の違いさえ乗り越えさせてくださることは、大きな希望である!熱意はあるが、弱くもあるペテロは、ヨハネとは競い合うライバル。そして、とても疑い深いトマス。裏切り者イスカリオテ・ユダ。とんでもないメンツをイエスはそろえた。だが、それでこそ、キリストの愛が本物であることが証しされていく。仲良しクラブではないからこそ、神の愛の素晴らしさが証しされる!!

30日 マタイ10章
8節 あなたがたはただで受けたのですから、ただで与えなさい。 私たちの基本的な動機になるべき考えだ。神の恵みによること。愛によること。それは見返りを期待せずにただで与えられたということ。イエスの弟子たち、使徒たちは、立派だったから受けたのではない。頑張ったご褒美としてイエスから選ばれ、大切な使命を任され、様々な権威をいただいたのではない。ただ神のあわれみのゆえに、ただ主の愛のゆえに、ただで受けたのだ。愛は、相手の態度によらず、何かの得になるかどうかによらない。そして人から見返りを期待せずに与えるならば、神がその不足分を与えてくださるのだ!だから、9-10節で、経済的な心配をしないようにと語られている。働く者が食べ物を得るのは当然だからだ。私たちも、神のために働く者には、神が与えてくださることを信頼しよう。お金を信頼するのではなく、それらを造られ、与えてくださる方に信頼しよう。

31日 マタイ10章
12-13節 その家に入るときには、平安を祈るあいさつをしなさい。その家がそれにふさわしければ、あなたがたの祈る平安がその家に来るようにし、ふさわしくなければ、その平安があなたがたのところに返って来るようにしなさい。 平安を祈るあいさつ」をした後には、二通りの道がある。その家がこの祈りに応答するなら、この平安はその家に留まる。しかし、どんなに愛と誠実を尽くしてキリストの愛を伝えても、かたくなに拒んで全く聞かない人々もいる。その場合は、この平安の祈りは相手はその家には留まらず、伝えた者に返って来るというのだ。つまり、宣教をして相手の平安を祈る者は、無駄な労苦で終わることはないのだ。相手がたとえ拒んだとしても、その家の平安を祈ったのならば、その愛のわざについての報いと祝福は、神によって自分に戻ってくるようにされているのだ。私たちの労苦は決して無駄に終わることはない!いつでも相手の救い、平安を祈る者となろう!



引用元聖書
<聖書 新改訳2017
聖書 新改訳2017©2017 新日本聖書刊行会 

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