東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ローマ11章30-36節「大いなる方を誇りにして」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2024/11/29

ローマ11章30-36節「大いなる方を誇りにして」

*** 11/29(水)祈祷会 説教概略 ***

 神様について学ぶ時、その愛や恵みに満ちた良いお方という点だけで終わるべきではありません。良いお方だけれど、何の力もない存在ならば、全く頼りになりませんよね。
 しかし、主は全知全能、無限で完全なる方、力ある神様なのです。
 こうした「神の偉大さ」を知ることで、私たちは勇気を持って、期待を持って力強く歩んでいくことができるのです。教えられて参りましょう!

30  あなたがたは、かつては神に不従順でしたが、今は彼らの不従順のゆえに、あわれみを受けています。
31  それと同じように、彼らも今は、あなたがたの受けたあわれみのゆえに不従順になっていますが、それは、彼ら自身も今あわれみを受けるためです。 

 こうして学んで来ますと、ユダヤ人にしても、異邦人にしても、自分たちを誇るべきではないということを教えられます。ユダヤ人が誇った「行い」にしても、異邦人が誇った「信仰」にしても、どちらにしても、すべて神様の救いのご計画によるものでした。主がくださったものです。ユダヤ人の不従順があったからこそ、異邦人たちにパウロらは熱心に福音を伝えました。まさに異邦人たちは、神のあわれみを受けたのです。同時に、異邦人が受けたあわれみのゆえに、ユダヤ人たちはその姿を見て求め始める機会となり、彼らもあわれみを受けるに至った。これも、あれも、神様がなさっていることでした。

 それゆえ、どちらも誇るべきものではないのです。唯一誇ってよいものは、すべてのすべてである神様のことだけです。

エレミヤ書924にこうあります。「誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。わたしは主であり、地に恵みと公正をと正義を行う者であるからだ。まことに、わたしはこれらのことを喜ぶ。」と。

 恵み、公正、正義といった良いもので地を満たしてくださる神様です。それらを心に持っているだけでなく、その通りに行うことができる全知全能なる偉大な神様です(人間は持っていても、それを成し遂げる力がありません)。この方だけを誇りなさいとみことばは教えています。

 そして、神様のなさることは、全世界、全人類に及びます。32節で、すべての人を不従順のうちに閉じ込め、すべての人をあわれむことができるということが語られています。神様は誰も滅びることを望まず、すべての人に救われて欲しいと願っておられ、そのためにあらゆることができるお方です。

 こうして人の理解を超えた、世界大の、歴史を通してのご計画を遂行なさるお方です。それはあまりにも壮大で、人の知恵はまるで及びません。33節にこうあります。

33節  ああ、神の知恵と知識の富は、なんと深いことでしょう。神のさばきはなんと知り尽くしがたく、神の道はなんと極めがたいことでしょう。 

 ここにある「神の知恵と知識の富」のところは、解釈が少し分かれます。ある人々は「神の知恵と知識富」と解釈します。しかしながらここは、神の知恵と知識の「豊かさ、豊富さ」と理解すべきでしょう。33節の後半を読むと、神のさばきや、神の道が知り尽くせない、極めがたいと語られており、富の話は一切出て来ません。また、全体の文脈からしても「神の富」という表現は不自然な印象です。

 ですから、神の知恵&知識の富(豊富さ)が計り知れないということでしょう。神のお考えはあまりにも深く、人には全く及びもつかない!パウロはそれを「なんと知り尽くしがたく、神の道はなんと極めがたいことでしょう。」と感嘆の叫びをもって伝えているのです。
 
 主の偉大さに感動し、このお方の大きさすばらしさに、ただ驚き仰ぎ見るばかりです。このように、神様は、壮大なお方で、理解しがたい圧倒的な存在です。なさることも、人の理解が追い付かない、ある意味謎だらけのご計画をお持ちです。到底理解することができません。

 しかし、それゆえに、神様に対する様々な反発を抱くこともあるのが人間です。無知すぎるので反発するのです。「なぜですか」、「どうしてですか」神様を問い正すこともあるかも知れません。ですから、34-35節で、その反発に対する答えを旧約引用をしながら語っているのでしょう。

34「だれが主の心を知っているのですか。だれが主の助言者になったのですか。
35  だれがまず主に与え、主から報いを受けるのですか。」 

 これらは旧約のみことばを背景にしていますが、「いや、誰もいない」という答えを想定した問いかけです。主のお心を正しく理解しきれる人は誰もいないのです。主に助言できるほど賢い人間などいるはずもありません。小さなアリが大きなゾウの全体像を見極められないように、人は神の極限を見極めることなど決してできません。また、主なる神様に対して、先に与えた者も誰ひとりいませんよね。私たちが何かを主にささげたとしても、そのささげる物はどこから来たのでしょうか。ささげる物さえも主が与えてくださっているではないですか。

 ある時、夫婦で相談して自分たちとしては(あくまで主観です)、かなり大胆に、多くの献げ物をしたことがありました。少し生活の心配をしながら(笑)。

 すると、ほどなくして、その額を上回る財が、しかも多方面から与えられ、ただただ主の前にひれ伏しあがめました。主はこれからも与えられるように、もっと与えられるようにとさらに豊かに与えてくださったのです。

 そのような経験が一度や二度ではありません。献げる物さえも、主が全部備えてくださるのです。一体誰が「神様に私は与えた」と言えるでしょうか。言えるはずもありませんよね。ヨブ記にこうあります。

ヨブ記41:11 だれが、まずわたしに与えたというのか。わたしがそれに報いなければならないほどに。天の下にあるものはみな、わたしのものだ。 

 私たちはへりくだらなければなりません。この方が全世界をすべ治めておられる大いなる方なのです。頭を低くして、ひれ伏して、この方をあがめる者となる必要があります。ローマ1136節にもこうあります。 

36  すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。  

 これがすべてでしょう。

 神様は誰からも生まれていないのです!すべてのものは神様から生まれたのです!神様から出ていないものはないのです!初めであり、終わりである方なのです。

 神様はモーセにご自身の名を示された時、『わたしはある』という者だと紹介されました。それは、存在そのものであるということでした。神様がおられなければ、私たちは存在すらできないのです。その上、神様によって維持され保っていただいている。そして、終わりの時には、神の前にすべての人が立たされます。誰もが、何もかもが神に至るのです。すべての源であり、すべてが帰っていくべきところ、それが主なるお方です。

 ですから、神様を信じていようが無視していようが、神様に隠れて何かをすることはできません。神様なしには何もできません。それなのに、人は自分の手にあるものを「自分の物だ」と思い込んでいるのです。すべては神のものなのに。それが自分の行いや信仰を誇る、自分を誇ることになっていくわけですよね。

 しかしそうではなく、私たちは、誇る者はただ主を誇れ!(Ⅰコリ1:31と、みことばが語る通りに歩んでいきたいのです。

 そして、これはとても嬉しいことではないでしょうか。私たちには誇れるものがあるのですから。世界に対して、人々に対して、誇れる大いなる方を知っているのです。伝えるべき良き知らせを持っているのです。伝えたいもの、伝えずにいられないものを持っている人は本当に幸せです。 

 神学校のオープンデーに参加した青年が、内容はやはり難しかったけれど、先生たちが本当に嬉しそうに、熱い思いで話しておられる姿が印象的だったと言いました。別の青年も別の神学校の先生が本当に嬉しそうに話されている、その姿がとても心に残ったと言っていました。それは、心から伝えたいお方があるということ。誇りに思えるお方を持っている証拠ではないでしょうか。

 すべてのすべてである大いなる方を誇りとし、この方に栄光を帰しましょう。この大いなる方を世に伝えていきましょう。



引用元聖書
<聖書 新改訳2017
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