*** 12/8(日)主日礼拝 説教概略 ***
イエス様は、山上の説教の中でおっしゃいました。「平和をつくる者は幸いです。」と。「平和を愛する者」とか「平和を祈る者」とは言われませんでした。「平和をつくる者は幸せ」だと言われたのです。おそらく「いつも平和を願っています」と言う方がほとんどでしょう。でも、実際はどうでしょうか。平和が好きなはずなのに、隣人に怒りを燃やし、争いを引き越してはいないでしょうか。
「勝利者」という曲があります。その歌詞の中に、「心の中にはいつでも 嵐のような戦いがある」とあり、いつもそうなんだよなと思いながら歌っています。怒りや憎しみ、ねたみ、不満、苦い思いなど、心の中に常に色々な戦いありませんか?ただ、自分の心をさえ治められないならば、どうやって他の人との関係に平和をもたらせるでしょうか。私たちは、まず自分の心を平和に治めませんか。そして、私たちから平和が始まって行くようにと願います。
では、どうしたら心に平和を持てるのでしょうか。
1.キリストこそ私たちの平和
それはキリストに心を治めていただくことによってです。14節最初に「実に、キリストこそ私たちの平和です。」とあります。キリストが平和を伝授してくれるということではありません。むしろ、キリストご自身が「平和そのもの」であるということです。今日のアドベントクランツで読んでいただいた、イザヤ書でも「平和の君」と呼ばれるとありましたよね。この方は「平和の君、平和の王」なのです。この平和とは、14節後半にあるように、隔ての壁である敵意を打ち壊す平和です。人を憎み、敵対してしまう心ってすごく頑固だと思いませんか。敵意は頑固で強いので、私たちはいつも苦戦しているのです。ですから、頑固な油汚れにはJOY(洗剤)かも知れませんが、頑固な敵意にはキリストの平和です!
キリストが敵意を打ち砕いてくださるのです!それは、どのような方法によってでしょうか。「ご自分の肉において」とあるように、ご自身のからだを「献げて」です。十字架でキリストが殺されたのは、人の罪に対する神のさばきを、私たちの代わりに受けるためでした。そうして、私たちを罪の束縛から解放するためです。
ただし、イエス様は神なる方ですから、人の敵意を力でねじ伏せることも可能でした。天使の大軍勢を召喚し、火の雨を降らせて悪を滅ぼすことも可能です。しかし、そうはなさいませんでした。なぜでしょう。真の平和をもたらすためには、真に平和な方法によらなければならないからです。愛によって救うのです。罪の世は、平和のためと言って人を攻撃するのです。けれどイエス様は、とことん愛することで救おうとなさいました。ののしられてもののりし返さず、苦しめられても脅しませんでした。
自分をわずかな銀貨で裏切ったユダに対してさえ、最後まで「友よ」と呼びかけました。裏切る者の友にさえなられ、自分を殺す者のためにさえ赦しを必死に祈って下さるのです。まさに「平和の君」です!そうして、十字架の上で、私たちのあらゆる敵意をその身に負われ、ご自分の死とともに罪を滅ぼされました。
ですから、キリストを信じる者は誰でも、罪赦され平安をいただくのです。キリストの愛によって、悪意や敵意、憎しみから自由にされるのです。16節で、「十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。」と語られている通です。そして、17節にあるように、クリスチャン家庭に生まれたような近くの者たちも、あるいは全然教会から遠くに歩んでいた人たちにも、主は平和の福音を喜んで与えてくださるのです!
2.二つのものを一つに
キリストは、私たちが自分の心に平和を持つだけでなく、お互いの間に平和をもたらすためにクリスマスに来られた方です。14節に、「キリストこそ私たちの平和」とありました。「私の」ではなく「私たちの」平和なのです。私とあなたの平和です。
異なる価値観、文化、背景を持つ者が一つとされていくために、キリストはいのちをかけてくださったということです。15-16節にこうあります。
15節 様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し、
16節 二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。
まず、様々な規定の戒めの律法を廃棄されたとあります。ユダヤ人たちは、愛の戒め、愛の律法を授かったはずでした。しかし、我らは神の律法を授かった大いなる民だと思い上がり、異邦人を見下しました。律法の知識のゆえに思い上がり、人々を差別してしまったのです。このようにして、かつてはユダヤ人と異邦人とは、二つの対立する存在でした。イエス様を信じた後でさえ、肉の思いはお互いを愛せない、受け入れられないでいました。
しばしば現代の教会でも似たような対立は起こりえるでしょう。国籍や出身や肌の色、社会的地位や教会生活の長さなどで、マウントを取り合います。互いに比べ合い、少しでも上の立場を取りたがるかも知れません。 そのために、イエス様は十字架によって律法を廃棄されたのです。ただ、廃棄という意味は、完全に無くすことではありませんでした。新しいものに更新する、上書きするということでした。更新し上書きする以上は、古いものより優れた戒めである必要がありますよね。
それはどんな戒めだったでしょうか。1.互いに比べ合いなさい 2.互いにマウントを取り合いなさい 3.互いに愛し合いなさい 3番ですよね。「イエス様が愛したように、互いに愛し合いなさい」ということでしたね。このキリストによる新しい愛の教えに置き換えられたので、古い戒めは不要になったのです。この愛の戒めこそが平和をもたらすのです。
クリスチャンの方で学校教育学の専門家の先生がおられます。実はこの方は、学校でのいじめを減らす最善策として、毎授業の最後に近くの人たちと分かち合う時間を持つように指導されたそうです。そのようにして、実際にいじめが激減し、成績も改善していくという成果があちこちの学校で起こりました。なぜ、いじめが減ったのでしょうか。それは、私たちの敵意の背景には、未知への恐怖があるからではないでしょうか。知らない相手は怖い。自分と違った文化や背景を持つ人は恐い。だから警戒し、敵対してしまうのです。だから、毎授業の最後互いに教えられたことを分かち合うことが、良い改善策になったのです。お互いを良く知り合うことで、案外優しい普通の人だと気づくことも多いのではないでしょうか。学んだことを分かち合うことで、互いに理解も深まります。これこそイエス様を中心とした愛の交わり、教会が世界に誇る主にある交わりであり、平和をもたらす道そのものではないでしょうか。
イエス様は、「愛には恐れがありません」と言われました。実際、ご自身は鎧を一切まとわず、自らを弱く貧しくなさいました。それがクリスマスです。イエス様の貧しさは、信じる者を本当の意味で富む者とするためでした。敵意を廃棄し、愛に生きる者とさせるためでした。二つの敵対するグループがあっても、それを新しい一人の人に造り上げるのがキリストの平和なのです。15節に「こうしてキリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し」とある通りです。ユダヤ人だとか、異邦人だとか、そういった自分の殻から出て、キリストによって「新しく生まれた人」となることで、平和が実現していくのです。キリストによって新しく造られた者たちこそ、平和をつくる者たちです。
小さなリースという絵本があります。ルーマニアで実際にあったお話です。この国にカロル将軍という独裁者がいました。彼は横暴で、自分の気に入らない人を捕らえては酷い目に遭わせました。多くのクリスチャンも迫害され殺されました。彼を恐れるゆえに反対する者はいませんでしたが、しかし、彼を愛する人もいなかったのです。ところが、クリスマスのある日、カロル将軍が家に帰ると、ドアに奇麗な手作りリースがかけてあったのです。彼は怒ってリースを踏みつけました。でも、それから毎日、リースがドアにかけられていました。カロル将軍は、自分にプレゼントする人などいないと思っていたので、不思議でたまりませんでした。でも、内心は実は嬉しかったのです。将軍はある日、隠れて見張ることにしました。すると、リースをかけていたのは、小さな女の子だと分かります。カロル将軍はこの子を捕まえてどなり問いつめました。「お前はなぜ、こんなことをするのか。」 すると女の子は答えました。「私のパパとママは、あなたに牢屋に入れられて死んでしまいました。私はずっとあなたが大嫌いでした。でも、ある日お父さんとお母さんが言っていたことを思い出したのです。あなたの敵を愛しなさいって」それは有名な聖書のことば、イエス様のことばでした。彼女は、それで将軍を赦そうと決めたのです。さらに言いました。「こうしてお話が出来たのだからもう友達よね。」と。カロル将軍は非常に驚き戸惑いました。しかし、家に帰るとたまらず泣き叫んだのです。涙が後から後からこぼれてきました。彼はこの少女の愛に触れて、自分がいかに酷い人間であるか、どれほど悪をなしてきたのかに気づいたのです。そして悔い改め、人々のために生きていこうと決心したのです。
平和を求めている人に、神様はお語りになっています。平和を望むならば、あなたの心に平和を築きなさいと。それはクリスマスの主であるキリストを心に持つことによって築かれるのです。同時に、隣人との平和をつくるために、キリストによって愛し合いなさいと言われます。私たちの中に、自分と異質な人々を受け入れる姿勢がありますか。それがあるなら、それは古い肉の性質の中に留まっているのではないでしょうか。イエス様は、信じる者を新しい人に造り上げるのです。キリストこそ、私たちの平和なのです。
18-19節にあるように、二つの別々の者であっても、同じキリストを通して一つとされ、一緒に神に近づくのです。キリストの愛は和解させる力を持ちます。キリストがまず、神に敵対していた私たちのためにいのちを捨てて下さったからです。そして、同じキリストの愛に生きるならば、私たちはお互いに「神の家族」とされます。私たちの教会も、日本人だけではない。韓国人、台湾人、中国人、マレーシア人も。関東人も関西人もそれ以外の地域の人もいる。でも、キリストにある者は、同じ天に国籍を持つ者、天の故郷を一緒に目指す者とされているのです。
19節 こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです。
引用元聖書
<聖書 新改訳2017>
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