*** 12/10(火)女性クリスマス会 説教概略 ***
先程「諸人こぞりて迎えまつれ」と歌いました。どのような意味でしょうか。諸人=みんな、挙(こぞ)りて=家を挙げて、国を挙げて。迎え奉れ=「お迎え申し上げよう!」
「世界のすべて人々が、家を挙げ国を挙げ、こぞって、救い主を歓迎申し上げましょう!」という意味です。
実際、世界中で祝われるクリスマスです。欧米ではクリスマス前から休み。日本でもお祝い!しかも2000年に渡って、継続的に祝われるクリスマス。よく考えてみると、すごい事ですよね。なぜ、ずっと世界中でクリスマスは祝われ、ブームが過ぎたり無くなったりしないのでしょうか。それはクリスマスがすべての人の希望であり、そこに「(一時的ではなく)永遠の救い」があるからです。聖書から、クリスマスを味わいましょう。
1.処女降誕
18節
イエス・キリストの誕生は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることが分かった。
神の御子イエス様は処女マリアのお腹に宿り、人として生まれました。当時のマリアはおそらくまだ10代。未婚の処女マリアの妊娠は衝撃でした。特に婚約者であったヨセフは驚き戸惑い婚約破棄も考えました。けれど、天使が夢で彼に告げました。20-21節です。
20節 彼がこのことを思い巡らしていたところ、見よ、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。21節 マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」
ヨセフは天使の知らせとマリアを信じて、お腹の子も含めて迎えしました。神の聖なる霊によって、救い主なる男の子を身ごもったことを信じたのです。救い主は、私たち人間の代表・身代わりとして罪のさばきを受ける必要がありました。そのために、神としてではなく、同じ人間と なって生まれる必要があったのです。けれども、人間の罪の性質まで帯びてしまうと、聖なる神ではなく、ただの罪人になってしまいます。それだと、人を救えません。そのために、神は処女降誕という道を採られたのです。人間によらず、神の聖なる霊によって生まれたのです。それで、キリストの誕生と言わず「降誕」と言うのです。
ある国の青年の父は、その国の皇帝の友でした。青年はそのおかげで陸軍会計係として任職しました。大変名誉なことでした。しかし、この青年はギャンブルにはまり、なんと軍のお金にまで手を出してしまったのです。やがて公金帳簿チェックが行われるとの知らせがありました。彼は青ざめ、彼は必死にお金を工面しようとしましたが、到底足りるものではありませんでした。彼は事の重大さに気づき絶望し、ピストル自殺を決意しました。そして、自分の罪を遺書にて告白し、また、帳簿の一番下には「あまりにも多額の借金だ。誰が払うことができようか」と書き記し、深夜12時に自殺しようと用意しました。
ところが、彼は極限の緊張疲れのせいでしょうか、ウトウト眠ってしまっていたのです。彼が目を覚ますと、12時を回っていましたが、ピストルをこめかみに押し当てました。次の瞬間、彼は帳簿の一番下の文字に目が留まりました。彼が書いた「あまりにも多額の借金だ。誰が払うことができようか」という文字のすぐ下に、皇帝が署名がされていたからです。彼が寝ている間に、たまたま訪れた皇帝があわれみを示して書いたものだったのです。皇帝が自分の罪を知って、それでも「赦す」と言ってくださったと知り、彼は心から感謝し自殺を思いとどまりました。皇帝には借金が一切なく、また、これをいとも簡単に支払うことができる権限と財力があったのです。
イエス・キリストの場合は、罪なき神の御子ゆえに、私たちに代わって罪の負債を肩代わりされたのです。肩代わりできるのは、負債がゼロであることが必要で、さらにすべて支払える力が必要です。イエス様は罪の負債がゼロであり、それどころか罪を帳消しにし、その結果である死をも滅ぼすいのちの力をお持ちでした。人の罪の性質を帯びない処女降誕は、そのために必要な神の救いのご計画でした。こうして、21節にあるように、イエス様は私たちを罪とその結果である滅びから救うために人となられたのです!
私たちは自分では返せない罪の負債を負う者です。自分が罪借金まみれなので、愛する人も救えません。いや、愛する人を自身の罪のゆえに、かえって悲しませ傷つけてさえしまいます。 私はかつて、そこそこいい人だと思っていました。「いい人だと思いたかった」が正解ですが。しかし、社会人になった時に、職場の人を愛せない自分を幾度も見つけました。愛せないどころか憎む思いさえありました。また、子どもが生まれてからも、「子ども好き」だと思っていた自分なのに、愛せない自分を見つけました。疲れて忙しい時にぐずる子に対してイラつき、寄り添えない自分。気づいたのは、これまでいい人風に思えたのは、自分をそう見たかっただけなのだということ。また。周囲や環境に守られる側であったからで、深刻な問題に痛みを伴って関わる機会自体がなかっただけなのだということにも気づきました。でも、本当の自分は愛がなく、いつも結局自分が可愛いのです。思うほど自分はいい人じゃなかったのです。
先ほどの青年のことばを借りるなら、「あまりにも多くの罪の負債だ。誰が払うことができようか」とは私のこと。しかし、イエス様はそのすぐ下に「イエス・キリスト」と署名してくださいました。誰が支払えるのか?キリストだけが罪の負債を背負い、救う神です。
2.預言の成就
そして、これらはすべて、神様が長い時間かけて備えられた救いのご計画でした。
22節 このすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことが成就するためであった。
実は、処女降誕も「インマヌエル」と呼ばれることも、イエス様が誕生するよりもずっと昔に語られた預言だったのです。ここに「主が預言者を通して語られたことが成就するためであった」とあります。この預言者とはイザヤのことで、そのイザヤ書は、イエス様が生まれるよりも700年も前の記録です。しかも、この書の写本が1947年に死海近くの洞窟で発見されました。それは20世紀最大の考古学的発見と言われます。研究の結果、明らかにイエス様が生まれるよりずっと前の時代のものと判明しました。ここには救い主の預言がバッチリあります。
こうして、預言成就という客観的証拠も発見され、聖書は神のことばであると世界中に益々知らされました。皆さんにも知って欲しいのは、私たちは盲目的な信仰を肯定しないということです。歴史的証拠、明確な根拠の上にある信仰なのです。
3.ともにおられる神
最後に23節を味わいましょう。
23節 「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。
処女マリアから生まれたイエス様は、「インマヌエル」と呼ばれると語られています。インマヌエルとはどういう意味でしょう。「神が私たちとともにおられる」という意味だとあります。キリストは、私たちから遠く離れたところに歩む神様ではないのです。私たちを愛してやまない方。私たちを救うために自ら隣人となってくださったお方です。あなたの隣人、あなたの友。あなたと親しく歩む愛の神でいらっしゃいます。
戦国大名の高山右近はキリシタン大名として有名です。彼はこのイエス様の愛を知って変えられていきました。お殿様は普段、農民と付き合いません。でも彼はひとりの農民の葬儀に出向き、さらに一緒にその棺を担いで弔ったお殿様でした。インマヌエルなるキリストにならう姿です。
「インマヌエル」と呼ばれる救い主は、泥臭い罪の現実のただ中に来られました。人はなるべく自分の体を傷つけず、汚さずにいい人になりたいと思います。まさにかつての私のように。いい人でいたいけど、傷つきたくはないのです。
しかし、キリストは天から降りて来られ、人の罪にまみれた闇の世界に自ら入り、他の誰よりも傷つけられ、苦しめられました。私たちの弱さに涙し、重荷を負ってくださったのです。
本当の友達とは、どういう存在でしょう。「まさかの友こそ、真の友」と言います。私たちが嫌われ見捨てられ、自己も自分を嫌いになる。そんな苦しいみじめな時に、「友」でいてくれる人こそ真の友です。イエス様はそういうお方です。それこそインマヌエルなのです。あなたもインマヌエルなるイエス様を心にお迎えしませんか。
引用元聖書
<聖書 新改訳2017>
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