東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: マタイ2章1-12節「主イエス様を求めるクリスマス」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2024/12/13

マタイ2章1-12節「主イエス様を求めるクリスマス」

*** 12/11(水)祈祷会 説教概略 ***

 誰かにプレゼントをするときに、どんなことを考えるでしょうか。その人のことを思って、その人にふさわしいプレゼントを考えますよね。例えば、私が妻にバットとグローブをプレゼントすることはないでしょう。的外れだからです。



 クリスマスは、イエス・キリストの降誕のお祝いです。ですから、イエス様へのプレゼントも、この方に相応しい物が用意されました。赤ん坊のイエス様のもとに駆け付けた東国の博士たちは、どのような物を贈ったのでしょうか。みことばから教えられ、それを通して主イエス様がどのようなお方であるのか、アドベントの時に教えられましょう。

イエス様のもとに導かれた博士たちは、いったい何を贈ったのでしょうか。

11節 それから家に入り、母マリアとともにいる幼子を見、ひれ伏して礼拝した。そして宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。 黄金と乳香と没薬を贈り物としてプレゼントしたのです。それぞれの贈り物の意味を最初に確認しましょう。

 

1. 黄金 

 一つ目は黄金でした。黄金は「王の権威」を表わすものでした。イエス様を王と認める姿勢、それが黄金を贈る形になって現れているのです。確かに博士たちは、2節で、ユダヤ人の王として生まれる方を礼拝するために来たと言っています。ユダヤ人よりも、外国の博士たちの方がイエス様を王として認め、心から敬意を払っているのは、なんとも皮肉なことです。

 私たちも無関心なユダヤ人のようにならず、東方の博士たちのように王なるイエス様に相応しい態度で、心にお迎して歩みたいものです。ですから、イエス様を救い主として信じるだけでなく、「私の主」「私の王」として信頼していくことが大切です。そこに「従う」という姿勢が生まれるからです。滅びたくないから、とりあえず救い主を信じておこうか・・・という所から一歩出て、この方を私の人生の王、主として信頼し、従っていくことが神様のみこころです。イエス様こそ全世界のまことの王、King of kingsです。この方に心の王座をお渡しし、信頼してついていきましょう。

 

2. 乳香 

 二つ目の贈り物は、乳香です。これは、かぐわしい香りが天に立ち上っていく様子から、神様への「賛美」や「祈り」を示すものです。もっと言えば、神様への礼拝の象徴であると言えます。イエス・キリストこそが、礼拝されるべきまことの神様であることを示しているのです。実際、「クリスマス」ということばは、キリストとミサ(礼拝)という二つのことばから成ります。キリストへの礼拝をクリスマスと言うわけです。

 ですから、忙しい日々の中でも、しっかり心をイエス様に向ける姿勢を大切にしたいのです。神様に最高の価値を置く姿勢=「礼拝」なのですから。先週ローマ12章で学んだように、心もからだも日々の生活も主にお献げすること。それが「かぐわしい乳香の香り」となって、主に喜んでいただけるでしょう。そして、第一にすべきことを第一にすれば、第二以降のものも整えられていきます。優先順位です。私たちが礼拝すべき相手を正しく礼拝するならば、心も体も、生活全体も調和し、幸いな歩みとなるのです

 

3. 没薬  

 3つ目は没薬です。この当時、没薬は何に使われていたのでしょうか。それは葬りの際に、遺体に塗る習慣がありました。没薬はヘブル語で「ミルラ」と言います。エジプトの「ミイラ」というのは、ここから来ています。この没薬を指す言葉「ミルラ」がなまって「ミイラ」になったそうです。それにしても問題なのは、イエス・キリストの誕生という素晴らしいお祝いの日に、なぜ死体を葬る際に使う没薬を持参したのかということです。普通ならあり得ないでしょう。不謹慎だと叱られそうです。

ただ、最初にお話しました。贈り物をする時には、その相手の方の性質や人格に合ったプレゼントをすると。つまり、それは、イエス・キリストが、死ぬためにお生まれになったゆえのプレゼントであったと言えます。もちろん博士たちは、そういう意図で送ったのではないでしょう。異国人ですから、遺体に塗る習慣はなく、純粋に高価な良い物を贈っただけかも知れません。しかし、主の摂理のうちにイエス様の十字架の死による救いのみわざを暗示する贈り物となったことは、主のみわざと言うほかありません。

 

 博士達はユダヤ人と比べれば遠くにいる者、ある意味部外者のような存在でした。しかし、こうしてみると、無関心でいたユダヤ人たちよりもずっと、イエス様に相応しい態度、姿勢、心で礼拝にしに来たことがわかります。彼らはイエス様にふさわしい贈り物を用意できたのです。なぜでしょうか。彼らが救い主のことを熟知していたからではありません。けれども、求める者に主は、その人の知恵や力を超えた良きものを与えられます

 改めて、1-2節をご覧ください。

1節 イエスがヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東の方から博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。
2節 「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちはその方の星が昇るのを見たので、礼拝するために来ました。」 

 イエス様がお生まれになった時、この東国の博士たちは、星の研究を通して導かれて来ました。ユダヤ人の王の生まれると聞き礼拝しに来たのです。一方で、3節を見るとこれを聞いたユダヤのヘロデ王は動揺しています。それどころか、エルサレム中の人々も同様に動揺したことが語られています。知らなかったのです。いや、知ろうとさえしていなかったのです。これは神の民として恥ずべきことでしょう。自分たちのまことの王の誕生を、外国人から知らされたのですから。しかも彼らは礼拝にしに来たというのです。それだけ、この時代のユダヤ人たちが、救い主に無関心だったのです。その到来を歓迎していなかったのだと分かります。

 しかし、それは私たちも同じように問われることです。黄金が示すように、イエス様を私の人生の主、まことの王として信頼して従う姿勢を持っているでしょうか。乳香が示すように、心もからだも主の前にかぐわしい香として、主を第一とする姿勢があるでしょうか。没薬が示すように、キリストの十字架のそばに立って、その死と復活のみわざに感謝して生きているでしょうか。

生活の忙しさ、学びや仕事のことが心の部屋の大部分を占めて、イエス様は狭くて暗いほら穴のような家畜小屋においやっていないでしょうか。奉仕で忙しくなるのもクリスマスではありがちですね。ただ、主は言われます。詩篇46:10「やめよ。知れ。わたしこそ神。」であると。「やめよ」ということばには「静まれ」という意味があります。手を止め、静まってイエス様に心を向けたいのです。心の声がうるさすぎませんか?主の語り掛ける声でいっぱいにしませんか?主のなさるみわざ、愛であふれさせませんか?

 さて、博士たちはベツレヘムの方に向かいました。すると、かつて昇るのを見たあの星が彼らを導いてくれました。9-10節です。

9節 博士たちは、王の言ったことを聞いて出て行った。すると見よ。かつて昇るのを見たあの星が、彼らの先に立って進み、ついに幼子のいるところまで来て、その上にとどまった。10節 その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。 

 ヘロデ王はイエス様を殺そうと求めましたが、博士らはイエス様のもとに導かれたことを、この上なく喜んだのです。イエス様は「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します」と言われます。彼らは心から、まことの王、救い主に会うことを求めたので見出したのです。本気で探し求めたことがわかります。だからこの上なく喜べたのです。しかし、ヘロデ王は見つけられませんでした。ヤコブ書では、このようにあります。 ヤコブ 4:3 求めても得られないのは、自分の快楽のために使おうと、悪い動機で求めるからです。どちらもみことばの通りですよね。

 私たちは主イエス様を心から愛で求めましょう。あがめるべき方として求めましょう。主はそのような者に、豊かに現れ見出され、恵みと平安と祝福をくださいます。


引用元聖書
<聖書 新改訳2017
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