*** 12/15(日)主日礼拝 説教概略 ***
現代社会は、溢れかえるほどの情報でいっぱいです。新聞、テレビ、雑誌、SNS、ネットニュースなど多くの情報源があります。情報を自分で選べる時代、また選ばないといけない時代です。しかし、問題はどの情報が信頼できる真実なのかということです。先週は、ある裁判の判決に携わった裁判員の方が、記者会見を開きました。そして、そこでおっしゃったことは、報道されている情報と、実際の裁判で知った情報との間にあまりにも大きな違いがあるということでした。何を信じたらいいのか、考えさせられますね。
このような時代、このような社会だからこそ、神が聖書を通して語ってくださる「真理」がますます大切であると思わされます。聖書は確かな真実であるだけでなく、人を救い人を幸いにする真理で満ちています。
1.真理を知ることは神の望み
4節 神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。
実に、私たちが真理を知ることは、神様ご自身の願い、望みなのだとわかります。神様は、あなたを我が子のように愛しておられるので、救われて真理を知るようになって欲しいのです。では、なぜ真理を知る必要があるのでしょうか。それは、真理が分からない盲目な者であるならば、本当の幸せを発見できないからです。例えば、「いつまでも残る本当に大切なものは愛だ」という真理を知らないならどうでしょうか。お金や地位や物に執着する人生を歩み、大切な人を悲しませ、やがて失い孤独になるかも知れませんね。
ですから、神様は、心の目が開かれて真理をはっきり知ることができることを望んでおられるのです。しかし、最初に触れたように、私たちの周りには真理とはほど遠い偽り、まやかしが溢れています。
「このサプリを飲めば、みるみる痩せて美しくモデルのようになれる!」といった誇大広告。しかし、そんなに簡単にモデルさんのようにはなれません!急に足が長くなったりもしませんし、そうそう顔も変わらないです。しかも、痩せることが必ずしも良いとは限りません。痩せさえすれば人から愛され、幸せになれるかのような宣伝文句さえあります。しかし、かえって「痩せなければ」と思い込み、拒食症になってしまう人さえいます。
聖書では悪魔の存在を教えていますが、彼は幸せの虚像を私たちに示し、真理にたどりつけなくなるように惑わします。悪魔のニックネームは「偽りの父」。まやかしもので人を満足させ、それ以上を求めさせないようにする隠蔽のエキスパートなのです。悪魔は巧妙ですので、神様や聖書を徹底批判するような分かりやすい誘惑はしません。むしろ、神様や聖書をそこそこいいものとしながら、「でも、こっちはもっと良い」と言って、むなしい騙し物で満足させようとするのです。本当に価値ある大切な真理を知りたくないですか?
2.救われるために必要な真理
では、すべての人に神様が知って欲しい真理とは何でしょうか。人が生きる上で必要な幸いな道へ続く真理とは何でしょうか。第一に、キリストだけが神と人との架け橋であるという真理です。5節にこうあります。
5節 神は唯一です。神と人との間の仲介者も唯一であり、それは人としてのキリスト・イエスです。
神様は唯一無二の存在であり、救われるための道も唯一無二であるとの真理をみことばは語ります。その道は、人となられたイエス・キリストという仲介者によるのです。偽りの情報は、「神様はいっぱいいた方がいいでしょ?」「目に見えた方がいいでしょ?」と惑わします。その結果、トイレの神様とか受験の神様とかイワシの頭まで神様にする。世界を造られたまことの神様が見たら、なんと残念に思われるでしょうか。神様は全知全能なる方だから、大勢いなくても困らないし、目に見える有限な存在ではない。唯一まことの生ける神というのが真理です。
そして、「仲介者」とされるキリストは、「真の神」であると同時に、「真の人」となってくださった方。神の聖さを持ち、同時に人の性質を持つお方なので、神と人との架け橋となることができたのです。この方は人となられたことによって、ご自分も弱さを担ってくださり、痛みがわかり、私たちの弱さに深く同情できるお方です。そのために、弱さを身にまといクリスマスに人としてお生まれになったのですから。
救われるために必要な二つ目の真理は、キリストが贖いの代価を払ってくださったことです。
6節 キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自分を与えてくださいました。これは、定められた時になされた証しです。
「贖い」とは、代価を払って買い戻す、自由にすると言う意味があります。これはまさに、罪の虜となり、悪魔の奴隷となっていた私たちのために、イエス様が代価を払って私たちを神のもとに買い戻してくださることでした。そして、イエス様が払ってくださった代価は何でしょうか。ご自分のいのちでした。あなたのために支払われた犠牲が、神の御子のいのちだという真理です。神の子のいのちをもって、罪の奴隷状態から自由にされ、神の子とされるというのです。
人類の歴史は罪の歴史と言っても過言ではありません。滅ぼされても文句を言えないほどに多くの罪を犯してきたのです。創世記6章で、神様はあまりの罪深さに、世界を滅ぼそうと考えられたことが語られています。それでも神様はひたすら忍耐され、神のことばを信じてノアの造った箱舟に乗る者を救い、そこからまた人類は繁栄しました。神様は、その後も見るに堪えないほどの人の罪や汚れを、耐えに耐えて滅ぼさず、生かしてくださり、悔い改めの道を用意されたのです。
神の目には、上辺ではなく、人の心が見えています。そうであれば、神の目に見える悪は、私たちが見えている悪よりもはるかに多く、はるかに汚らわしいものではないでしょうか。聖なる神様にとって、これらの罪の汚れは身の毛もよだつほど嫌悪すべきものです。私ならば、他人の心が全部見えたら、幻滅してしまい誰も愛せなくなるのではないかと思うのです。心の声が全部聞こえたら、耐えられる人はいないのではないでしょうか。それでも神様は愛のうちに忍耐され、人を救うための代価として、愛するかけがえのないひとり子を与えて下さいました。4節にあるように、「すべての人が救われて、真理を知るようになること」を望んでくださっているのです。
3.応答
傷つき耐えてくださる主の愛に、私たちはどのように応えたら良いのでしょうか。それはイエス・キリストの愛にとどまり、真理を深く知る者となることです。
4節で「真理を知る」という「知る」ということばは、よく使われる「グノーシス」という単語ではなく、エピということばが加わり「エピグノーシス」という単語です。それは浅い知識ではなく、真理の深みまでをよくよく理解して知ることです。たましいの深みで真理を味わい知るイメージでしょうか。この真理を深く知ることによって、私たちは神様の恵みを豊かに知り、幸せへの道を歩めます。何が真に大切なことなのかを見分けられるからです。何が神様のおこころなのかが分かります。何が人を幸せにすることなのか、何がいつまでも残る永遠の道なのかを知ります。
この手紙を書いたパウロ自身が、それを深いところで理解し、味わい知ったのです。だから、彼は嬉しくて嬉しくて、喜びがあふれているので、伝えずにはいられなくなってしまいました。それで、キリスト教徒を迫害する者から、宣教する者・教える者、使徒になったのです。7節にこうあります。
7節 その証しのために、私は宣教者、使徒、そして、信仰と真理を異邦人に教える教師に任命されました。私は真実を言っていて、偽ってはいません。
信仰と真理をまだ知らない者たちに教える者として、神様から任命いただいたのです。
このアドベントの季節、クリスマスの真理をすべての人が知ることができるようにと願います。ケーキやご馳走をお腹いっぱい食べることではありません。願う通りのプレゼントを得ることでもありません。あなたの救い主が、あなたのもとに来られたこと。あなたを救うためにご自分を与えてくださったこと。神の愛が示された季節なのです。真理を知らなければ、人は幸せになれません。目隠しされたままで、どうしてつまずかずに正しい道をまっすぐ歩めるでしょうか。
かつて、聖書をしばらく学んで来た青年とお話する機会がありました。彼は言うのです。「聖書を自分はまだよく知らない。聖書をしっかり熟知してから信じようと思う」と。けれども、私はお伝えしました。「聖書をすべて分かってからと言っていたら、一生信じられないでしょう。信じて歩み始めるからその真理が分かるようになるのだ」と。
神と人との唯一の架け橋はキリストです。自分の知恵や経験で聖書を極めようという我流の道では、どうやっても無理なことです。イエス様は真理を覆っている目隠しを唯一外せる方です。この方を信じて目隠しを外していただきましょう。見えるようになることが先ですね。
こうして、イエス様の十字架の架け橋を信じて渡って行く時にのみ、狭き門は開かれ、神のもとに導かれるのです。真理はイエス様のうちにあります。この方によって説き明かされて初めて、その深みを知るようになるのです。 真理を知ってから信じるのではなく、信じて救われたから真理を知るようにされ、この世界のあらゆる物事を見分ける力が与えられるのです。
この青年は、これがきっかけで、イエス様を信じる決心ができ、真理を深く知るようになっていきました。私自身も同様でした。信じる前に聖書を読んだ時には、正直よく分かりませんでした。けれども、イエス様を信じて聖書のことばに従って歩み始めたら、霧が晴れたように神様の真理の景色が見えるようになっていきました。真理を求めて幸せになりたい人。また、愛する人々を幸せにしたいと願うならば、このキリストにある真理を知ってください。
引用元聖書
<聖書 新改訳2017>
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