*** 12/18(水)祈祷会 説教概略 ***
クリスマスの登場人物の中で、最も素朴で純粋な信仰を持っているのは羊飼いたちであったと思われます。彼らは当時の社会においては、知識や教養もあまりなく、最も身分が低い者とされていました。しかし、神様はそのような羊飼いたちに救い主の誕生を知らせてくださったのでした。
では、天使が無学に等しい羊飼いたちや異国の博士らに現れ、聖書に精通しているはずのエルサレムの宗教学者や祭司たちに現れなかったのはなぜなのでしょうか。もちろん、神様の救いが、小さな弱い者や外国人にも及ぶことを知らせるためであったことは確かでしょう。究極的には「神の選び」です。
しかし、彼ら自身の信仰の姿勢も神様は見ておられるはずですよね。例えば、「神は、喜んで与える人を愛してくださるのです。」とみことばにあります(Ⅱコリ9:7)。また、「みことばを行う人になりなさい」、「こういう人は、その行いによって祝福されます」と語られています(ヤコブ1:22-25)。
確かに、律法学者や祭司長たちは、知識を持っていました。しかし、語られていることを素直に信じて行うという姿勢があまりなかったのではないでしょうか。救いは、勉強ができる人たちのものではありません。もっと素朴で純粋なものでしょう。羊飼い達はその代表ではないでしょうか。私たちも、彼らの信仰の姿勢に教えられ、純粋に主を求めて行動し、心から主を賛美する者とならせていただきましょう。
15節 御使いたちが彼らから離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは話し合った。「さあ、ベツレヘムまで行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見届けて来よう。」
羊飼いたちに天使が現れ救い主の降誕を告げました。羊飼いたちはこれを聞いて、どうしたのでしょう?互いに話し合い、言いました。「さあ、ベツレヘムまで行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見届けて来よう。」と。
ここにある羊飼いの信仰から、3つのポイントを教えられて参ります。
①第一に、素直に信じて行動する姿勢です。
彼らは最初こそ天使たちに圧倒され、恐れを抱いたものの、その後すぐに救い主の知らせを信じています。ここでは、彼らが悩んでいる様子は語られていませんよね。彼らは言いました。「主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見届けて来よう」と。神様が私たちに知らせてくださったのだと、素直に受け入れ信じています。
それで、「さあ、ベツレヘムまで行って」、「この出来事を見届けて来よう」と彼らは行動に移していきます。彼らは仕事の手をすぐに止めました。そしてベツレヘムに向かったのです。
羊飼いたちの純粋で単純な信仰の姿に教えられますね。信仰において何より大切なことは、主のおことばを単純、率直に信じて行動することではないでしょうか。聞いても行わないなら、すぐに忘れてしまうものだとヤコブ書で教えられています。みことばはただ聞いて「良かったぁ」と思って終わるものではありません。むしろ、行うことによってみことばの力を私たちは感動的なまでに体験するのです。
16節では、「そして急いで行って」とあります。彼らはなるべく早くその主のみわざを見ようと「急いだ」のです。主の救いのみわざに対する積極的な行動力を感じます。羊飼いたちは躊躇なくみことばに従いました。もし、この時、彼らが自分達の仕事を優先して出発を後らせていたのなら、イエス様に会えなかったかも知れません。ヘロデがいのちを狙っており、エジプトに避難することになるからです。それまでの期間でなければ、お会いできなかったでしょう。それは、彼らにとって生涯を左右する出会いとなりました。
私たちも彼らのように、シンプルに信じて速やかに行動する姿勢を持ちたいと思わされます。あれこれ考えすぎて動けない、動かないという事がありますよね。主がおられるのですから、様子を見てばかりいないで恐れずみことばを実行していきたいですね。
②第二に、主イエス様を捜し求める姿勢です。
16節では、イエス様を捜し当てたと語られていますよね。「捜し当てた」という訳はとても良い訳だと思います。ことばの意味としては「探し出して見つける」という意味合いの強いことばが使われています。彼らは「必死に捜して、その結果見つけた」わけです。それゆえに、イエス様に出会えたのです。もちろん、神様が示し、出会わせてくださった。それは大前提となる真理でしょう。
しかし同時に、私たちの側で、捜し求める姿勢を持つことも必要であるということがわかります。聖書は神を「求めなさい」と、私たちの側で積極的に求めることを絶えず教えていますよね。ですから、主を自分から捜し求めて行くという姿勢を大事にしましょう。受け身ではなく、自分から主の救いを見ようと、クリスマスを見ようと出て行きたいのです。心の殻、心の洞窟から出て、いつでも主の救いの恵みの場に行きませんか。神のみわざがなされている場に、自らの身を置くようにすることです。
③第三に、証しする姿勢です。
羊飼いたちは、神様によって知らされたことを、そのまま人々に語りました。17-18節をご覧ください。
17節 それを目にして羊飼いたちは、この幼子について自分たちに告げられたことを知らせた。
18節 聞いた人たちはみな、羊飼いたちが話したことに驚いた。
ここにも、素朴で純粋な信仰が現れていますね。証しをするとは、自分が神様について見たこと、聞いたことを、率直にそのまま話すことです。脚色したり、ドラマチックにしたりしなくて良いのです。つい盛り上げようと、少しドラマチックにしたくなる事もあるものですが・・・。おそらく羊飼いたちは、学問を正規に学ぶ機会もなく、弁論の技術もないでしょう。でも、彼らは自分たちが体験したことを、そのままシンプルに語ったのです。そして、それを聞いた人々は率直に驚きました。神様の不思議なみわざを知って驚き、感動を覚えたことでしょう。
さらにマリアは、これらをよく聞いて、心に納めて思い巡らしました。羊飼いたちが伝えたことによって、マリアは益々確信を持って、この子が世界の救い主であることを受け入れ、喜びが増し加わったことでしょう!私たちも主のみわざを体験したなら、黙ってはいけません。もったいない。脚色したり、盛ったりしなくていい。ただそのまま証ししましょう!
このように歩んだ羊飼いたちは、どのような恵みをいただいたのでしょうか。20節。
20節 羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。
彼らは救い主イエス様を見つけました。主の救い、全世界の喜びの知らせを実体験しました。御使いを通して語られた主のことばが、全部本当だった、その通りであったと知り感謝と喜びに満ちたのです。それで、彼らは心から神様をあがめ、賛美しながら帰途に着きました。もし、神様が知らせて下さったと信じなかったら、この喜びはなかったでしょう。神様から語られても、出て行かず、自分たちの仕事を最優先していたら、この賛美は生まれませんでした。もし、彼らが急がず、あとでいいやと行動したら、クリスマスを見逃したでしょう。
あまりにも悩んで考えすぎて、様子を見過ぎて動けなくならないようにしたいものです。自分の知識に頼らず、素朴に信じて行動する姿勢。私たちも養っていただきましょう。
引用元聖書
<聖書 新改訳2017>
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