東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ヨハネ8章31-36節「自由になりたい人へ」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2024/12/25

ヨハネ8章31-36節「自由になりたい人へ」

*** 12/22(日)クリスマス礼拝 説教概略 ***

 メリークリスマス。皆さんようこそおいでくださいました。せっかくの教会のクリスマスですから、ぜひその本当の意味を味わっていただけたらと思います。そして、皆さんの心とたましいに、「クリスマスの平安と喜び」が訪れるように心から願っております。そのために、しばし神のみことばに耳を傾けて参りましょう。神様はあなたを愛しておられるので、クリスマスを知って欲しいと望んでおられます。



 クリスマスを象徴するものの一つは「光」です。それでクリスマスには、ライトアップ、イルミネーションが施され、とても華やかになりますよね。綺麗なイルミネーションを見ると、つい写真に撮ってSNSUPしたくなる人もいらっしゃるのでは?

 しかし、同時にクリスマスには孤独やむなしさを感じる人も多いと言われます。どんなに明るいイルミネーションの光でも、外側を照らすことはできても、私たちの内側を照らすことができないからです。

 しかし、ヨハネの福音書19によれば、神の子キリストは「すべての人を照らすまことの光」であると語られています。「すべての人を照らす」ですから、ここにいる全員が含まれています。さらに、その光は「まことの光」なのです。外側だけを照らす光ではなく、心の闇をも照らす「まことの光」。心やたましいまでも照らす唯一の光です!これが2000年前に、人となって来られた神の子イエス・キリストなのです

 本当に心やたましいまでも照らすのでしょうか?

 その証拠は、キリストを信じた人々によって証しされてきました。例えば、目も見えず、耳も聞こえず、文字通り「孤独の闇」の中にいたヘレン・ケラーはその一人です。彼女は目も耳も癒されませんでしたが、キリストの愛によって心に光が灯ったと告白しています。「奇跡の人」と呼ばれたのは、絶望的な障害があったのに、神の愛の光によって変えられ、弱い人々のためにイキイキと歩んだからです。見えない、聞こえないという闇は彼女の心を閉じ込める牢獄とはなり得なかったのです!

 皆さんにも、まことの光が照らし、真の自由を得ていただきたいと願います。「いや、私は自由です」と思われる方も、まずは神様のおことばを聞いてみてください。


 32をご覧いただくと、キリストのことばがあります。「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」と。聖書中でも有名なことばで、なんと国会図書館の正面に大きく掲げられています。イエス・キリストは、私たちすべての人に真理を示し、それによって真の自由を与えるために来られたのです。ところが、これを聞いた者たちは不思議に思い反論します。

33 彼らはイエスに答えた。「私たちはアブラハムの子孫であって、今までだれの奴隷になったこともありません。どうして、『あなたがたは自由になる』と言われるのですか。」 

 「自分たちは、奴隷になったことはない。自由だ。なぜ、あなたはこんなことを言うのか」とイエス様に反論したのです。私たちの多くもそうでしょう。日本は法的に自由が保証されています。他人があまり干渉しない国です。ある意味、かなり自由な環境でしょう。それでも質問しますが、皆さんは「本当に自由でしょうか。」この「本当に」の部分を皆さんに今日、少し考えていただけたらと思うのです。本当のクリスマスを味わうために。何かに囚われ、何かの奴隷になっていることは、本当にないのでしょうか?イエス様は、彼らのこの問いに答えます。34です。

イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。罪を行っている者はみな、罪の奴隷です。 

 罪を一つでも行っている人は、誰でも罪の奴隷であるという真理を主イエスは教えられたのです。この罪というものは本当に厄介で、認めるまでがまず一苦労です。誰でも自分は罪がある正しくない人間だなんて信じたくない、いい人だと思いたいのですから・・・。

 例え深刻な病があっても、自覚症状がゼロの場合に医者に連れて行くことは簡単ではないですよね。かつてある青年は、キリストを信じた時に、過去の自分を振り返り言いました。「自分は闇の中にいたのに、闇の中にいることさえ気づかなかった」と。なるほどと思いました。罪という闇の中に囚われている自分。その真理さえ知らないならば、闇から自由になりたいという発想さえ持てませんよね。「自由」だと思い込んでいる人には「自由になれるよ」は全く魅力的ではない。罪なんかないと思っている人には、「罪赦され天国行けますよ」とのことばも心惹かれない。つまり、自由だと思い込まされていることによって不自由なのです。

 それゆえ、神の真理のみことばは、人は誰しも生まれながらに罪人だと明確に教えています。人は良い人と悪い人という二種類いるのではなく、聖書は一種類だと言います。「義人は一人もいない」と語り、自分の欲望、衝動、様々な負の感情を正しく管理し、間違ったことをしない人など誰もいないと語るのです。牧師も正しいからなるのではありません。むしろ、自分の罪深さに気づいて心底涙し、キリストに罪とその束縛からの解放を求めた者がなるのです。

 罪は、知らないうちに私たちを束縛し、苦しめています。例えば、罪のゆえに、正しいと思う良いことができず、「すべきでないこと」をしてしまいます。愛すべき家族なのに、言うべきでないことを言って傷つけてしまう。良くないこと、やめた方がいいことだと頭で分かっていても、「ああ、またやってしまった」と自分を責める。もっと優しくすれば良かった、あんなことは言わなければ良かった、赦せば良かったと後悔する。こうして、罪悪感を覚えたり、後悔したりするということは、「罪ゆえに不自由であること」の証しではないでしょうか。自分では持ちたくないと思う感情に囚われます。人に対する妬み、憎しみ、見下す思い。それらの醜い感情から、自由になれているのでしょうか。人との比較、人の顔を恐れることから本当に自由でしょうか。 

 では、どうしたら良いのでしょうか。

 31節で主イエスは言われました「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら」とあります。イエス・キリストの救いのことばを信じてとどまることです。その時、キリストの救いの真理にあずかり、内側から自由にされます。闇の中にいることや、罪の束縛にいることすら気づけない私たちには、自力で真の自由を得ることはできないのです。

 ですから、36節でも、神の子であるキリストがあなたがたを自由にする時、真に自由にされると教えられているのです。クリスマスに来られたキリストは、死ぬためにお生まれになりました。死ぬ目的で生まれる人などいるでしょうか。

 しかし、キリストはご自分が死ぬことによって、私たちが生きられるようにと、神の御姿を後にして人となられたのです。私たち罪ある人間の代表となるためです。私たちを罪の奴隷状態から解放するために、身代わりとして十字架で死なれました。真の自由をもたらすためです。だから、全世界でずっと感謝され、お祝いされているのです。

小説家・三浦綾子さんの作品で、「塩狩峠」という小説があります。あるクリスチャンの男性鉄道員が、自分の命を犠牲にして乗客の命を救ったという実話に基づいた小説です。

昔、旭川から札幌へ向かう汽車がありました。雪が大変深い2月。この列車が非常に急な登り坂である「塩狩峠」にさしかかった時、事件は起こりました。突然、最後尾の車両の連結が外れ、最後尾車両が峠を下り始めてしまったのです。その際、この鉄道員がハンドブレーキを操作するも十分に作動せず止まる気配がありません。やがて急カーブが見えてきました。このままでは、確実に列車は転倒し、多くの死傷者が出る。その時、このクリスチャン青年は覚悟を決めました。まだ若く、しかも結婚を控えていました。相手の女性は長い闘病生活からようやく癒され、これからついに結婚できる、幸せになれると思った矢先でした。それでも彼はその身を自ら投げ出しました。自分の体を下敷きにして列車を止めたのです。おかげで乗客は全員無事でした。皆が死の淵から救われました。しかし、血まみれで亡くなっているこの青年を乗客たちが発見した時、乗客たちは彼の遺体にしがみついて泣きました。彼のおかげで、自分たちは救われたのです。

この青年はなぜ、このことができたのでしょうか。同じ列車に乗り合わせた鉄道員の同僚は、彼が神に祈る姿と、その後に凛とした姿で行動した姿を見ていました。それは十字架のキリストにならう愛の姿でした。彼が信じていたキリストこそは、罪人が乗った「滅び」に向かう列車を止めるために、自らの命をささげた方でした。 

 あなたを愛する故に、神の御子はクリスマスに来られ、喜んでいのちを捨ててくださいました。キリストの身代わりの死が、信じる者を本当に自由にします。あなたがもし、上辺の自由ではなく、本物の自由を得たいと願うなら、自分のために身を投げてくださったキリストを信じて心にお迎えください。まことの光を受け入れる時、あなたの闇はもう暗くなく、あなたを束縛する罪の鎖は断ち切られます。あなたに本物のクリスマスの喜びが訪れますように!



引用元聖書
<聖書 新改訳2017
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