東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ルカ2章1-14節「栄光に満ちた主を賛美しよう」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2024/12/28

ルカ2章1-14節「栄光に満ちた主を賛美しよう」

*** 12/25(水)祈祷会 説教概略 ***

 今日はちょうどクリスマスです。よく開かれている個所ではありますが、これらのクリスマスのみことばから教えられて参りましょう。



 1-3節のところをご覧ください。
 皇帝アウグストゥスは、ローマの共和制を終わらせ、帝国という形で安定的な繁栄をもたらした人でした。後に「パックス・ロマーナ(ローマの平和)」と呼ばれる時代の礎を築いた人物です。彼の統治以降、200年ほどに渡る安定したローマ帝国時代、栄光に満ちたローマ帝国時代が築かれました。そして、この住民登録の勅令というのは、国力を強めるためであったでしょう。特に、税金をしっかりと払わせるために出された勅令でしょう。

 さて、この住民登録は3節にあるように、自分の生まれ故郷に戻って行う必要がありました。そして、4節にこうあります。

ヨセフも、ダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。

 ヨセフはナザレで大工をしていました。ですから、イエス様もナザレで生まれるのが普通でしょう。しかし、この勅令のゆえにベツレヘムで生まれることになったわけです。というのも、イエス様の父ヨセフは、貧しい大工でしたが、実はダビデ王の子孫にあたる人だったわけです。それで、イエス様を宿したマリアと一緒に登録をするために、ダビデの町ベツレヘムへと向かうことになりました。

 ベツレヘムは、ダビデが生まれた地であり、ダビデが王となるよう選ばれ、油注がれた地でした。イエス様はここでお生まれになったのです。それは預言の成就であり、神の契約の実現でした。なお、ベツレヘムは「パンの家」という意味です。「いのちのパン」として天から来られたイエス様にふさわしい出生地と言えるかも知れません。

 何より、小さな町でありましたが、救い主がお生まれになったという一点で、この町は大きな栄光を受けました。同じように、私たち自身の栄光などないに等しい小さな者ですが、イエス様を持つという一点で、私たちは豊かに富む者、尊い者とされました。キリストがおられるという一点だけで、私たちは十分すぎるほど富んでいるのです。

 ですから、私たち自身は小さな土の器で良いのです。その中にあるキリストの光によって、美しく飾られるのですから。「誇る者は主を誇れ」とみことばにある通りです。 

 そして、興味深いことに、この出来事の実現に一役買っているのが、ローマ皇帝であったのです。彼はもちろん預言のことなど何も分かっていないでしょう。しかし、彼が住民登録の勅令を出したために、ベツレヘムでの誕生が実現しました。そう考えると大帝国となっていたローマ最高の権力者を、神様は自由にお用いになって、ご計画を遂行なさったのだと分かります。ローマ帝国の栄光を築いたアウグストゥスもまた、神の栄光には適うはずもなく、そのために用いられる「器」に過ぎなかったのです。

 そう考えると、主はなんと偉大でしょうか。
 この方が味方ならば恐れることはありませんね。

 さて、6-7節です。

6  ところが、彼らがそこにいる間に、マリアは月が満ちて、7  男子の初子を産んだ。そして、その子を布にくるんで飼葉桶に寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。 

 預言が成就し、血筋としても生まれた地においても、ダビデ王の末裔として生まれたと言えます。ただし、ベツレヘムには家がありません。宿屋でと願ったわけですが、ご存じのように「宿屋には彼らのいる場所がなかった」と語られています。

 原語では、いるべき場所、いられる場所がなかったという表現です。その理由は「満室だったから」とも考えられますが、「拒まれた」とも考えられます。仮に満室でも、出産間際の妊婦です。どうにか入れてあげることはできなかったのでしょうか。貧しい家庭でしたし、妊婦でしたから泊めるのを拒んだのかも知れません。

 結果、こうして家畜小屋になんとか転がりこみ、生まれたイエス様は飼葉桶に寝かせられました。自宅でなく、宿屋にもいる場所がなく、家畜の住処で生まれたのです。ベッドではなく餌の桶です。家畜の匂いにまみれた場所で生まれたことは、あまりにも意外です。

 しかし、それは、キリストの生涯の暗示であったと言えるかも知れません。イザヤ書533節のキリスト預言にこうあります。

彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。(イザ53:3


 こうして、この知らせは天使たちによって羊飼いたちに告げられました。

8さて、その地方で、羊飼いたちが野宿をしながら、羊の群れの夜番をしていた。
9すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。

 夜番をしていた時ということで、天使を通して照らされた主の栄光はまばゆく光り輝いたことでしょう。羊飼いたちは非常に恐れました。神の栄光と尊厳とは私たちが恐れを抱くほど圧倒的です。その聖なるお姿をその目で見るならば、人は恐怖し滅んでしまうほどでした。このような栄光に満ちた神様です。

 ですから、主キリストが、誰でも近づける人間の赤ちゃんとしてお生まれになったことは驚きです。主が自ら私たちの方へと歩み寄ってくださった証しですね。神様の側から近づいてくださる姿勢は、10節の御使いのことばにも表れています。「恐れることはありません」と始まります。イエス様も恐れる弟子たちに対して、「恐れなくていい」と身近に招いて下さいました。

御使いは告げました。10-12

10  御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。
11節 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
12あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。」  

 救い主がお生まれになったという大きな喜びの知らせでした。実は13-14節において、この御使いたちが賛美をするのですが、13節によれば、御使いと一緒におびただしい数の天の軍勢が現れて賛美していることが分かります。「おびただしい数の天の軍勢」とは、いったいどれほどだったのでしょうか。「おびただしい」ということばには「満たす」という意味もあり、夜空を覆いつくすほどだったのかも知れません。圧巻ですよね。それほどに大きな出来事、祝うべきみわざだったのです。私たちも世界中でこぞってみんなで、この救いを心から喜び、主をほめたたえましょう。

 先日の礼拝でのハレルヤ・コーラスは本当に胸が熱くなりました。聖歌隊だけでなく、あの場にいた全員を主に向かって「ハレルヤ」とたたえました。その時、このハレルヤの大合唱をお受けになる主が、どれほど栄光に富んだ方であろうかと想像したのです。すばらしいコーラスでしたが、世界中のハレルヤを受けてもまだ足りないほど栄光に満ちた方です。

 祝会ではマンダリン(中国語)の賛美や青年の賛美もありました。ことばも世代も違う人々がいます。その際、黙示録2124、26節を思い出しました。

地の王たちは自分たちの栄光を都に携えて来ることになる。
・・・こうして人々は、諸国の民の栄光と誉れを都に携えて来ることになる。

 とあります。天の御国での賛美は、全世界から人々が集められます。しかも、それぞれ、自分たちの栄光と誉れを携えて集まり、それらをもって主を賛美します。自分たちの国のことば、文化、築いてきた良きものすべてが、無になるのではなく、世界中の栄えあるものがすべて集められ、それら全部で主をたたえていく。

 これほどの多様性に富んだ、様々な栄光と誉れから生まれる賛美を受けるにふさわしい方が、私たちの救い主、私たちの神なのです。なんと幸いで、光栄なことでしょうか。


 人の世界に居場所さえなかった救い主が、十字架のみわざを経て復活し、終わりの時には全世界の栄光と誉れを受ける王、主として私たちの前に立たれます。クリスマスから永遠に至るまで、私たちの王なる主、永遠の神をほめたたえて参りましょう。



引用元聖書
<聖書 新改訳2017
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